暴走ラボ
岡 辰郎
プロローグ
プロローグ
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この物語は第17回サントリーミステリー大賞(主催/サントリー・文藝春秋・朝日放送 2000年2月)優秀作品賞を受賞したもので、書籍としては未刊行です。2000年段階の国際情勢をもとに当時の近未来を描いていますが、受賞当時の形のままで発表します。
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プロローグ
〝男〟は、唇に飛んだ鮮血のしぶきを手の甲でぬぐった。
自分を励ますようにつぶやく。
「恐がるな。こんな奴、死んで当然なんだ」
だが、その手は小刻みに震えていた。
「どうして……? まさか、怖いのか……」
〝男〟は、死体の腕にもう一度金属棒を振り下ろした。すでに骨は砕けている。動脈も破れ、かすかな月明かりに照らされた草地は血に染まっていた。あと一回、力を込めて打ちすえれば、腕は切断できるはずだった。
だが、その力が入らない。
意外だった。
〝男〟は、目の前に倒れている〝標的〟を憎んでいた。一年半以上の間、心の底から憎み続けていた。殺す瞬間は、笑っていられると信じていた。
考え違いだった。
相手の後頭部を殴りつけた瞬間にこみ上げた吐き気は、のどの奥に詰まったままだ。ぐしゃりと潰れた頭蓋骨の感触が、金属棒を握った手から去らない。〝標的〟が長い痙攣の末に息絶えた後も、目眩が続いている。
〝男〟は再びつぶやいた。
「落ち着け。誰にも見つかるはずはないんだから……」
監視カメラがどこに設置されているかは熟知している。周囲に生い茂った植物が完璧な死角を作り出していることも確認してある。犯行の時間も計算し尽くしていた。
午前三時――。
どんなに熱心な研究員でもすでに眠り、まだ誰も起き出してこない時間帯だ。
本来なら〝標的〟も、自室で眠っているはずだった。
だが、罠が効いた。ドアの下にしのばせた紙切れ一枚で、〝標的〟は〝男〟が待ち伏せる温室に出向いてきたのだ。
『お話があります』と記しただけで、〝標的〟は易々と警戒心を捨てた。
飢えていたからだ。
一年半――。
女から遠ざかるには、長すぎる時間だ。〝標的〟が乾ききっていることを〝男〟は知っていた。女文字を模したメモに〝標的〟の心が逆らえないことが分かっていた。
そして〝男〟は、一線を越えた。
復讐を夢想する小心者から、血に汚れた犯罪者へ――。
だがそれは、始まりに過ぎない。〝男〟の目的は、〝標的〟のすべてを奪うことだった。
生命は奪った。残るは〝財産〟だ。
そのためには、腕を切り取らなければならない。
〝男〟はもう一度つぶやいた。
「後戻りはできない。やり遂げるんだ。なんとしても、こんな牢獄から逃げ出してみせる……絶対に……絶対に……絶対に……」
〝男〟は熱に浮かされたように同じ言葉を繰り返しながら、金属棒を叩き下ろし続けた。
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