第29話 屋上

 本校舎に入り、廊下を走っていると。暗がりの向こうから誰かがこちらへ向かって来ているのが見えた。


「ワタル!」


「シドウ、大丈夫?」


 鉢合わせたのはチェーンのピアスを揺らしたシドウだった。

 シドウはワタルを見るや「よかった」と声を上げ、思い切り抱きついてきた。


「ちょ、ちょっとシドウ! 今はそれどころじゃないんだって」


「わかってるよっ、でもほんのちょっとだけ――ふぅぅ……よしっ、オッケー」


 一体何がオッケーなのか。シドウにギュッとされたまま、ワタルが首を傾げていると。

 シドウは謝りながら理由を話してくれた。


「ごめん、ワタルの力をほんの少しだけもらった。ちょっとね、予想以上に疲れちゃって。そうでもしないとホントに今すぐ消えちゃいそうだったんだ」


 それは大変な事態だ。ならもっと自分の力を取っていいと言うと、身体を離したシドウはピアスを揺らしながら首を横に振った。


「それはダメだよ、そんなことしたらワタルの力がなくなっちゃうからね。ワタルはこれからを生きる大事な身なんだ。俺のことをいつまでも覚えていてれる存在としてもね」


 そう言われ、ワタルは口を引き結ぶ。

 シドウの身に起きていること、彼のタイムリミットが近いこと……それがわかっているだけに、もうどうにもできないんだということを急に突きつけられたから、悲しくなった。


 できるならもう少しシドウと一緒にいたい。まだもう少しは大丈夫なはずだったのに。

 シドウがいられるなら、自分の力など取ってくれてもいいのに……でもそれをシドウは絶対に望まない。

 望まないことはしたくない、自分は彼を望みたいけれど……だからこそどうしようもなくて悔しくなる。彼に対しては、もうこれ以上のことは何もできないのだ。


 そんな自分の気持ちを察したのか、シドウはワタルに笑いかける。大丈夫だよ、と言うとポンッとワタルの頭を軽くなでた。


「……ワタル、そんなことより。小田野が連れていかれたんだ。目の前からパッと消えていなくなっちゃった。おそらくタクがやったんだろう? なら早く行かなきゃ」


「そうだな……うん、行こう、理事長室に」


 シドウと共に来た道を戻り、別棟の三階へ――真っ直ぐに理事長室へ。

 両開きの扉を勢いよく押し開くと――。


「ワタル!」


 ケイとコウタが同時に叫ぶ。コウタはなぜか床に座るケイに抱きかかえられていた。


「あぁっ! これは違うの!」


 そんな叫びを上げ、コウタは慌てて立ち上がると、いつもやるようにワタルの腕にしがみついてきた。見れば彼の顔色が青白く、体調が悪いというのがわかる――シドウと同じなのだろう、だからケイの力を借りて身を保っている。


 あぁ……嫌だな、コウタも時間がないのかな……さびしいよ。

 ワタルは内心で悲しみを抱きながらも、無理に笑みを浮かべ、コウタの背中をなでた。


「わかってるって大丈夫……ただいまコウタ。俺を助けてくれてありがとう」


「ワタル……よかったぁ、ホントによかった。ワタルが生きていてくれないと僕はイヤだからねっ」


「……あぁ、今度はタクを助けに行こう、コウタ歩けるのか?」


 コウタはワタルから離れると元気さをアピールするためにピョンピョンと跳ねた。本当はそこまで元気ではないのだと思うが、弱気な部分を見せないのが彼の性格でもある。


「大丈夫だよ、僕は強いから。自分が強いと思えば強いんだ……だから大丈夫、まだ消えないよ。あっ、理事長なら今さっき、急に消えちゃったんだよ。ワタル、心当たりはある?」


 コウタの問いにワタルはうなずく。

 屋上だ。彼が再び命を捨てるために飛び立つ場所はそこしかない。


 別棟の屋上は普段、鉄のドアは鍵がかかっていて入れなくなっている。

 だがこの時、ドアは開け放たれているのか、階段を駆け上がっている最中、外の生温い風が室内に流れ込んできていた。


 ワタル達は屋上に出た。

 外はすでに夜――満月が夜空の中で輝き、屋上から見える景色は点々と街灯や家の明かりが見える。普段人が訪れない場所なのに、屋上の床はゴミや落ち葉もなく、きれいだった。

 風もピタリと止んでいた。


 ここはかつてタツミが飛び降りた場所。

 そんな屋上のフェンスを前に、三人の人間が立っている。アサキとナオキとタク――別の言い方で理事長と小田野とタク。

 タクは二人を交互に眺め、二人はタクを真剣な眼差しで見ていた。


「アサキ、ナオキ……俺と一緒に行こう? 二人の苦しい時に終止符を打とうよ……もう二人の狂わせてしまった時は戻せないけど、生まれ変わればまた新しい時をやり直せる。また三人で会えたら嬉しいじゃない?」


 タクは笑みを浮かべながら両腕を伸ばし、二人に手を差し出した。

 それが彼の望み……三人で再び時を歩みたい。本当ならケイも含まれるのだろうが、ケイは自分の時を歩み出しているから。


 その様子を見て、ワタルはタクに向かって叫ぶ。


「タクっ、タクっ! 本当にそれでいいのか? お前は二人を助けたいと言っていたじゃないか。それが本当に二人を助けることなるのか?」


 ワタルの言葉を聞き、タクは視線だけをワタルへと向ける。タクは別に気がおかしくなったわけではない。

 だって瞳には今までみんなを案じていた時のまま、優しげな光を宿しているから。

 二人を助けたいというのは、自分の望みだけではない。これ以上暗い淵にいてほしくないから、二人を導こうとしているのだ――優しさゆえに。


「……タク」


 そんなタクの手を最初に握ったのは、彼に心酔しているナオキだった。


「僕は一緒に行く。僕はお前のことをずっと望んでいた、ずっと一緒にいたかったんだ。お前に別れを告げられた後もずっと……まさかお前が僕の進路なんかのために犠牲になっていたなんて思わなかった。それならそうと言ってくれればよかったんだ……」


 苦しそうに眉を歪めるナオキに対し、タクは「ごめんな」と言ってナオキの手を握り返した。


「俺は自分のために……それを選んでしまったんだ。ごめん、本当はナオキが大好きだし、別れたくなかった。でも俺、アサキが嫌いなわけでもない、むしろ好きで……だから、そんな俺だからナオキといる価値なんてなかったのかもしれないよ。こんな浮ついた俺は――」


「違う、タクは優しいんだ。誰に対してもさ……別にタクが、こいつをどう想っていても僕は気にしないさ……気にしないようにできるから、僕は」


 含みのある感じで、ナオキは言葉をにごす。

 タクはさびしそうに笑いながらナオキを見返していた。


 そんなタクの手を――いや、ナオキの手首をつかむ、もう一人の人物がいた。


「……待てナオキ」


 理事長――アサキは赤い瞳をナオキに向け、慣れない、たどたどしい感じで旧友の名前を呼んだ。きっと何十年もその名前を口にしたくてもできなかったのだろう。


 今の彼は理事長ではなくアサキ。ナオキと古い付き合いでもある友人としての姿がそこにはあった。


「ナオキ、私は――オレはずっとお前に言いたかったんだ。お前を傷つけたりしてすまなかった、と。いつもオレより上を目指して頑張っていたお前を二回もおとしめることをして、悪かったと思っている。オレは教員になってからのお前の存在を、忘れていたわけじゃない……ずっと見ていた、ひっそりとな」


 ナオキは信じられないものを見るようにアサキを見て、目を見開いていた。


「タクのこともあるが、オレはお前の時も動かしたいと思っていた。だから学校を引き継ぎ、再開させたんだ。お前はきっとタクとの思い出がある学校に、再び来ると思っていたから。教員とは意外だったけどな」


 アサキの話を静かに聞き、タクはナオキの手を握りながら二人を見守る感じで立っている。

 ワタルはなぜか、タクが二人の背中を押しているような気がした。二人を助けたい……それはもしかしたら、こういう意味も含まれていたのかもしれない。


「今回、ワタル達が謎を解き、時を再び動かしてくれた。オレも元の自分を取り戻してちゃんとした自分として、時を歩むことができるようになった。だから今度は……ナオキ、お前と時をやり直せたらオレは嬉しい。タクのことは辛いが……」


 タクはもう時を止めた人間だから。

 再び動くことは叶わないから。

 再び動くには、また生まれ変わらなければならないから。

 さびしいけれどタクを見送らなくてはならない、残った者として。


 アサキの言葉を聞き、ナオキはうつむいてしまった。

 そして叫んだ。


 ふざけるなよ、と。

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