第17話 守りたいから

 幼い頃、近所に住んでいた優しい年上の少年――自分は小さかったから彼の名前を覚えなけいけれど、その人をお兄ちゃんと呼んでいた。


 お兄ちゃんはいつも優しく、困ったことがあると助けてくれて、大丈夫だよと安心させてくれて、大好きだった。


 引っ越してしまってからは所在を確かめることもできず、いつしか自分の記憶からは消えてしまったのだけど、今わかった、思い出せなくてごめん。


 あのお兄ちゃんはシドウだったんだ。


「理事長、ワタルに手を出すのは俺が許しませんからね。まっ、俺だけじゃないんですよ。気に食わないけどワタルに夢中なヤツらは他にもいるんで……あんたもそうでしょう? タクに似ている、そんな生徒がタクのことを口にしている、何か因果があるのか? そう考えているんじゃないですかねぇ」


 ワタルから見える彼は後ろ姿だからわからないが、シドウは楽しそうに、多分不敵に笑っている。


「理事長、この学校には、タクの魂がさまよっていますよ。今さっきもワタルにくっついていましたから。でもあなたの前には現れません、なぜなら――」


「そこまでにしてもらおう」


 理事長の冷静な声が、シドウの言葉を遮った。


「どうやら君達は、生徒が知ってはいけない部分まで知ってしまったようだ。ならば処分を下すまでのことだが……一つ聞く、タクの魂は、なぜまだ学校にいると?」


「死者が去らずに残る理由と言ったら一つしかありませんよ、未練があるから、です」


 シドウが開いていた手を握りしめた。


「なるほど、では君にも未練がある、と」


「さすが理事長、よくわかりますねぇ?」


 二人の会話にワタルは違和感を覚える。なんだ、何を言っているんだ?


 ワタルはシドウの横から顔を出し、理事長の様子を伺おうとした。

 だがそれが失敗だった。理事長は隙を狙っていたのか、シドウの警戒をすり抜けて素早く手を伸ばすとワタルの腕を掴んでいた。


 あっ! と声を上げた次には、ワタルは理事長の左腕に首を捕らえられ、見動きができなくなる。理事長の腕を剥がそうと抵抗してみたが、それは無駄な抵抗だ。意外にたくましい腕は簡単に外せるものではなかった。


「すまない、ワタル。君に乱暴を働くつもりはないが、君のボディーガードが厳しくてな。ひとまず、そこの部屋に入ってもらおう、君から入りなさい」


「やれやれ、大人は卑怯な手を使うもんだね」


 促されたシドウはワタルに視線を向けつつ、今さっき入った柱時計の部屋に戻っていく。シドウが入ると、ワタルも続いて部屋に押し込められる。


 理事長はスライドドアに手をかけながら、


「この部屋は特殊な鍵をかけてあったはずなのに……一体君達は何をしてこの部屋にも理事長室にも入ったのか、不思議でならない。だが詮索もここまでだ。他の仲間もすぐに捕える」


 そう言うと柱時計の部屋のドアは閉められ、外側からガチャッと鍵をかけるような音がした。

 カーテンも閉め切った薄暗い室内。カーテンの向こうで傾いてきている夕日の色が、かすかに遮光カーテンからもれている。


 柱時計はたくさんなのに。それはどれも時を止めてしまい、室内は音のない空間が続いている。おそらく生徒も教員も気軽には訪れたりしない場所なのだろう。


「はぁ〜、なんかカビ臭い場所に閉じ込められちゃったねぇ、やだやだ」


 シドウはぼやきながら、近くにあったパイプ椅子を二つ用意し、自分が座ると隣はワタルに座るよう促してきた。

 ワタルは隣に勢いよく座るとシドウの腕をつかみ、彼を引き寄せた。


「そ、そんなことよりっ! シドウなんで教えてくれなかったんだよ、お前が、お前が――あの時のお兄ちゃんだったなんて」


「こらこら、そんなに引っ張ると抱きついちゃうよ?」


 シドウはふざけて両腕をワタルに向かって伸ばした。思わずそれを避けたワタルだったが、つかんだ彼の腕は離さなかった。


「バ、バカッ、そんなことより! ごめん、シドウ、気が付かなくて本当にごめん」


 大切な約束を思い出せず、ワタルは申し訳なくてシドウに頭を下げた。目頭が熱くなり、色々な感情が溢れ出してきてしまう。

 シドウは「やめてよ」と苦笑いしながら、ワタルの背中を上下に優しくなでた。


「そんなことを気にする必要はないよ、ワタル。俺はね、お前に会えたこと、お前のピンチに助けることができてよかったと思っているんだから。だって約束したしね、どこにいても守るってさ」


 涙を流していると、その涙はシドウの指によって拭われた。


「大丈夫、俺がついてるんだから、ねっ」


 優しく、シドウは笑う。その優しさに満ちた表情は昔のまんまだ。

 お兄ちゃんは優しかった。お兄ちゃんは冗談が大好きだった。


 ちょっとだけ年上だった。

 その事実が、悲しかった。


「う、うぅ……だ、だって、だって……シドウは、シドウはもう、もう……い、いない、んでしょ……」


 言葉にするのが恐ろしかったが、ワタルは事実を知るため、口にした。


 その事実はシドウがすでにこの世にはいないということだ。

 今さっき理事長との会話でも『この世に残る理由は未練があるから』と『君も未練がある』と。その二言に違和感があった、そういう意味があったのだ。


 そしてシドウは五つか六つは年上であったのに今は同級生だ、見た目も同年代の男子。何か理由がある、と考えたら時止まりだ。

 けれど自分の時止まりを理事長は察したのに、シドウのことは何も言わなかった。


 さっきシドウは自ら言っていた。死んだ人は自分が一番楽な姿、好きな姿、安心できる姿を保つ、と。


 あぁ、そんなことを推測したくはなかったけれど。受け入れなければならないから。悲しいけど、嫌だけど、今度は昔のように駄々をこねてもダメだから。


「ワタル……俺はね、ワタルと別れた後、交通事故で呆気なく死んじゃったんだ。でもワタルとの約束をずっと覚えていた。果たしたい、なんとかそれだけでも、ずっとそう思っていた。そしたらある日、ワタルに何かが起こるってふと気づいたんだ、側に行かなきゃ、助けなきゃって思って」


 シドウは腕をつかんでいたワタルの手の上に、手を重ねた――冷たかった。手の平は柔らかいのに、血が通う温かさはなかった。


 そうか、死んだ人は手が冷たいんだ。

 コウタも、シドウも……そうだったんだ。


「シドウ、もしかして、コウタが言っていた協力者って、シドウのこと?」


 コウタが言っていた、自分には力を貸してくれた存在がいる、と。


「そんな大層なことじゃないけど。ほら俺、見えたりとかできるじゃん? だからコウタのことも未練があって悲しそうに立ってる姿見たらさ、自分と同じだって思えて。力、貸さないわけにはいかないじゃん。まぁ、永遠にとはいかないけど……」


 でもね、とシドウは重ねた手をギュッと握った。


「最後に、好きなヤツのために、何かができるのってワクワクするじゃん。ワタルのために最後の力を振るえる。俺はそのために、ずっと待っていた。すごく嬉しいし、幸せだよ」


「な、なんで、みんなして、そこまで俺を大事にしてくれるんだよ……俺は何もできていないのにっ……」


 ワタルの言葉を否定するように、シドウは首を横に振る。いつもは鋭い目つきが、柔らかに細められる。


「ワタルは素直だから。みんな、大好きなんだよ。そこがワタルの魅力、かわいい、最高のね」


 ワタルは涙が止まらなかった。

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