第14話 傷が、まだある
騒動から二日後、朝のHRでは、記憶喪失になった生徒に関することが話されたのだが、ワタルが知り得ている情報以上のものは特になかった。
彼は校則違反を犯したから退学処分となった。それは夏休みが終わる数日前のことなので、その後の彼がどうなったかは学校側はわからない。
それは彼と恋愛関係にあった二年の先輩もそうらしいが、その先輩は突然に引っ越してしまったのか、誰も行き先や本人に関することを知らなかった。
「あやしいねぇ〜、事実上、二人とも消されたって感じじゃない? 記憶がなくなったのも実は学校の裏工作だよ」
着席しているワタルの横に立っていたコウタは人差し指で眼鏡の真ん中を押し上げた。
「ボクが思うに、校則違反をしたヤツは退学処分と同時に、記憶を消される……学校のこと、好きになったヤツのこと、学校の都合悪いことを全部忘れるように」
コウタはワタルを見てニッと笑う、この考え方どう? そう言わんばかりに。
この自信に満ちた姿も言葉も長くは見られないと思うと、ものすごくさびしくなってくる。
あまり考えると涙が出そうになる。
そんな感情をごまかそうと思って、ワタルは座ったままコウタに抱きついた。ちょうど彼の胸の辺りが耳に辺り、普通ならコウタの心音が聞こえる形になるのだが――もちろん心音はなかった。
「あっ、いいなーって、なんでコウタだけそんないい思いしてんのよ」
その様子を見ていたシドウが文句を垂れた。
「えへへー、いいでしょ?……ってワタル、ほらほら大丈夫だからさ、まだ。元気出して?」
コウタに背中をポンポン優しく叩かれ、ワタルは「うん」と悲しくなる気持ちをこらえて身体を離す。思わず抱きついてしまったけれど、シドウもそれ以上の文句は言わず、ケイはいつも何も言わないけど無言で見守ってくれていた。
「そういえば今朝もアサキがいないんだよな」
話題を変え、ワタルは斜め前の席を見やる。
そこはHRと一時間目を終えた後だが、まだ席に着く人間が現れていない空席のままだ。
アサキはどうしたのだろう、初日以降会っていない。次の授業が終わったら少し長い休憩中に探しに行ってみようか。
そう考えながら、ワタルは自分の右手の平をなんの気なしに見つめた。
そういえば右手の中指の先端を、二学期が始まる前日に紙で切ったんだよなー、と。
さすがにもう治っている――そう確信して指先を見たワタルは「あれ?」と口に出していた。
指先は痛みは全くないものだったから気づかなかったが……傷がまだくっつかないで、親指で指の腹を押してみるとパカパカと切り口が開いていた。表面にはかすかに血がにじんでいる――治っていない、おかしくないか。
クーラーの効いている教室内であるのに、ワタルは背筋に一筋の汗が流れるのを感じた。
この傷が意味するもの。それに対して「もしかして」と思うものの「そんなまさか」と思う自分もいる。
……なんでこんな時にっ!?
自分のそんな事態に、周囲に陣取る三人が気づかないわけがない。
三人はジッと何も言わずに自分を見つめていたが、やがてコウタとシドウは大きくため息をつき、ケイは心配そうに首を傾げた。
そして声を揃えて言った。
『一体、誰を』と。
傷がある、それはまだ治っていないということ。数日前の傷が、ただの小さな切り傷が治っていないなんておかしい。
傷が治らない。
時が止まった。
つまりは、そういうことだ。
しかしこの周囲の三人はそんなことよりも重大なことがあるのだ。
時が止まったということは自分は校則違反をしたということだ。
校則違反とは、制服をきちんと着ていないということ――これはズボンも半袖ワイシャツも自分はちゃんと着ているので問題はない。暑い時期はジャケットは脱いでいても大丈夫なのだから。
もう一つの校則は、言わずとも知れたアレ。
そして三人の着目はそれが誰であるのか、だ。
珍しく、シドウが慌てた口調で言う。
「な、なんでかな? ワタル、二学期に入ったばかりで悪いけど、会ったばかりの奴にだなんて、そんな想いはよくないと、俺は思うなぁ」
「ボクも! あっ、でもワタル……ボクの境遇を知ったからもしかしてボクのことを? さっきだって抱きついてくれたし。本気でボクのことを?」
シドウとコウタがワアワアと騒いでいる中、立ったままの姿勢でいたケイは身体を前傾にすると、ワタルの顔を間近でのぞき込んできた。
「……ワタル」
その相手は、俺? ……と。ケイは無言だが、銀色の瞳がそう訴えている。
だが三人の想いよりもワタルは自分の状況を考えなければならなかった。
「そんなことよりっ! どうしたらいいんだっ。このままじゃ俺はずっと――」
とんでもないことだ。ずっとこのままの身体で生きることになるのか。いや、その前に学校にバレたら校則違反として処分されてしまう。
自分も斜め前に座っていたクラスメートみたいに記憶を消されて、その辺にほっぽられてしまうのだろうか。そんなのは嫌だ。
「うぅ……俺、大丈夫かな、もうダメなのかな……」
ワタルは机に突っ伏し、全身から脱力して、大きくため息をついた、そんな時。
「大丈夫、ワタル。落ち着いて」
静かな声でそう言ったのは、ワタルの横で軽く腕組みをして立っているケイだった。
「大丈夫だ、そのために俺達はこうして探しているんだから、理由と答えを……それがわかればワタルも元に戻せると思う」
確信があることではないけれど。
言わずともそれはケイもワタルもわかっている。
けれどケイに大丈夫と言われると、きっと大丈夫な気がする。
ワタルは身体を起こし、ケイに笑顔を返しながら「ありがとう」と述べ、自分の身体をあらためて眺めてみた。
うん、何もない。見た目にはわからない。
「……まぁ、たまたま傷が治っていないだけかもしれない。別に身体にはなんの変なところもないから……」
その『たまたま』が現実であったならいいのだが。今はそれを確かめるすべもないし、学校にバレるわけにもいかない。
それにしても、なぜだろう。
自分は誰かに対して恋愛的な感情を抱いているということになるのか。自覚は全くないのに。ケイもコウタもシドウも、アサキに対しても。大切な存在、そうは思っているけれど。
誰かが、自分の心の中で、知らず知らずに大きな存在になっているというのか。
でも、今はわからない。
ワタルは重たい気持ちで教室の後ろにある柱時計を見やる。時刻は四時三十二分……。
あれ、時計が止まってしまっている。壊れたのか。ついこの前、交換したばかりじゃないのかな、と。そんなことを考えていると。
「……ワタル、ちょっといい?」
さっきまで動揺していたシドウだったが、急に思いついたようにそう言うと「こっち来て」とワタルを教室の外へ連れ出した。離れる間際にコウタとケイには「ワタルと話すから来るなよ」と言いつけていたので、二人は渋々留守番だ。
肩に触れる黒髪の後ろ姿を眺め、ワタルはシドウについていく。階段を上がり、シドウはとある教室へ――人気がないことを確認すると中に入り、しっかりとスライドドアを閉めた。
教室内はエアコンはついていないが黒の遮光カーテンが閉まっていて薄暗く、比較的涼しい環境となっていた。あまり使われていないだろうここは何かの準備室だろうか。机にはダンボールが積まれ、床にもあるダンボールには機材とマジックで書かれて埃をかぶっていた。
「ごめんね、急に」
カーテンの隙間からの光でシドウの顔や肌の白さが伺える。
シドウは首を傾けながら、何やら楽しそうに笑みを浮かべていた。
「迷ったんだけど、ワタルに言わないといけないかなぁ、と思って……実はね――」
あらたまって、なんだろう。二人きりという環境に妙な胸の高揚感を抱いていると、シドウの長い右手がワタルの頬に伸ばされた。
「ワタル……」
シドウの顔が近づいてきた。
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