第5話 シドウの想い

 授業が終わり、ワタルは次の授業の準備をすると誰よりも早く教室を飛び出していた。


『オレ、お前のことが好きだ』


 授業中にその言葉をふと思い出してしまい……斜め前の席に座るアサキに視線を向け、ワタルは静かに息を飲んだ。


 斜めからでも伺えるアサキの横顔。

 そして黒板を見つめる赤い瞳は一度見てしまうと、やはり目が離せなくなるぐらいに魅惑的だった。


 そんな目を奪うような存在が想いの言葉を発した――そんなものが、聞いた者の胸を熱くさせないわけがない。

 たとえ今日出会ったばかりの人物だとしても。その熱い気持ちを聞いてしまえば心を揺さぶられる……気になってしまう、目で追いかけたくなってしまう。


 一度意識したら、授業を終えても落ち着かなくなってしまった。これではケイ達にまた心配をかけてしまうと思い、アサキと顔を合わせる前にワタルは教室を移動することにしたのだ。


 次の授業は上の階にある教室を使う。なので階段を上がり、あと少しで上がりきるというところで、ワタルは最後の段を踏もうと右足を上げた――つもりなのだが。


「あっ……!?」


 ぐらり、と。身体の重心が後ろへと傾き、一瞬、地に足を着かない気持ち悪い感覚に襲われる。

 何かに引っ張られたようだ。段を踏もうと思っていた右足の底が空しく、寒気がしたようにヒヤッとした空気が首筋に触れる。


 後ろは階段しかない……!


 ワタルはまぶたを固く閉じた。落ちる、と無意識下でも身体が覚悟をしたようだった。


 そんな時、右手が何かに掴まれる。力強い何か。

 それはワタルの手を思い切り前へと引っ張った。


「うわ――いてっ!」


 ワタルは痛みにうめく。前に倒れた衝撃だ、けれど床に叩きつけられたわけではない。

 階段の踊り場に上がった己の身体は右手を引っ張り上げた存在――自分の下敷きになっている存在によって痛みを和らげられたのだ。


「シドウっ!」


 そこには「いてて」と自分の右手を、左手で掴んだまま、しぶい顔をしている黒髪の男子がいた。右耳のチェーンのピアスを揺らし、ワタルの顔を見るや不敵に笑う。


「危機一髪ってやつぅ?」


 シドウはいつもの調子でおどけていた。本当なら自分を受け止め、床に背面を叩きつけた衝撃で痛かっただろうに。


「ご、ごめん! シドウ、大丈夫?」


「あはは、ワタルぐらい小柄なら別に大したダメージはないよ。それよりワタルこそ、大丈夫か? 急にフラついたりして、立てる?」


 シドウの手を借りてワタルは立ち上がり、倒れたシドウに手を差し伸べる。

 手を掴んでくれたシドウは立ち上がるや――ワタルの肩や腰に手をやり、ベタベタと身体中を触ってきた。


「わっわわ、あはは、くすぐったいからっ! って、いきなり何すんだっ!」


「あはは、ケガがないかと思って〜」


 シドウの両手を振り払い、ワタルはシドウから一歩距離を置くために後ろへ下がろうと、足を引く――しかしすぐ後ろは階段で、また落ちかけたところをシドウが手を引き、助けてくれた。


 シドウの冷たい手の感触と落ちかけた焦りを同時にくらった心臓は驚いて大きく跳ねていた。


「こらこら、好き好んで落ちることはないでしょ? 痛いだけだし」


 好きで落ちるわけないでしょ、と思ったが。

 ワタルはシドウに礼を述べてから、階段の方へ振り返る。

 なんで急にバランスを失ったのか、落ちそうになったのか。何かに引っ張られたような感覚もあったが周囲にはシドウ以外誰もいないし、なによりシドウは上の踊り場にいるから。


 そこでふと、ワタルは思いついた。

 シドウはなぜ上にいたのか。

 だって自分は授業が終わり、誰よりも早く教室を出たのに、いつの間に追い越されたのだろうか。


 それをたずねようとした時、シドウの手が伸びてきて再び肩を掴まえてくる。またセクハラまがいなことをされるのではないか。そう思ってシドウの手をはたこうとしたが、彼が周囲に視線を向けながら真剣な表情をしていたので、はたこうとした手を止めた。


「シドウ、何? 何見てんの?」


 飛び交う虫でも探すかのようにシドウの視線があちこちをいく。ワタルも合わせて周囲を見回してみたが特に気になるものはない。

 少しの間、視線を巡らせたシドウはワタルを見て、また笑みを浮かべた。


「あぁ、うん、そうだねぇ」


 珍しく、シドウの歯切れが悪くなる。肩を掴んだ状態を変えないまま、シドウは言葉を選ぶようにたどたどしくなりながら、話を続けた。


「ワタルは変なモノが見えたりとか、しないよなぁ。俺はね、実は見えちゃう体質でね……今も変な感じが、しちゃったわけ……なんか俺ってすごくない?」


 シドウの顔を見ながらワタルは唖然とする。

 急にきたカミングアウトに、なんと言っていいやら、だ。

 では今さっきの階段で起きた出来事も関係があるのだろうか。シドウに聞くと「そうだね」と短い返事が返ってきたものだから、ワタルは薄ら寒さを感じて身震いした。


 そんな自分の様子が気になったのか、シドウはすぐに反応した。


「でも大丈夫、ワタルのことは俺が守るから。そのために俺はいるんだ。化け物だろうが関係ないからさ」


 安心を与えてくれるようにシドウは満面の笑みを浮かべる。その長身で高い位置にある笑みを見上げているとワタルの胸は途端に高鳴ってくる。


 なんだろ、この感じは。

 シドウが与える、絶対に大丈夫という、この安心感。普段はふざけてばかりなのに。


 不意に、ワタルの脳裏にホワッとしたものが浮かぶ――それはかすかな記憶というもの。


 小さな、四歳ぐらいか、本当に小さな頃で記憶も怪しいけれど。近所に仲良しで冗談好きでおしゃべりな、ちょっと年上の少年がいた。

 ワタルはその少年と遊ぶのが大好きだった。


 しかしある日、その少年は引っ越してしまうことになった。


 もう会えないなんて、悲しい、嫌だ――大好きなのにっ。

 ワタルが泣きじゃくると少年は困ったように笑いながらワタルを抱きしめる。背中には彼の大きな手の平が当たり、優しく上下になでてくれる。


 少年から受ける温かさと安心感。

 そして彼の言葉。

『大丈夫、どこにいても守るから』




 シドウを見上げながらワタルは目を見開く。

 そうだ、自分にはそう言ってくれた友達がいたんだ。ずっと記憶の片隅に眠ってしまっていた。大切な言葉であるはずなのに。


 なぜ急に、そんなことを思い出したのだろう。シドウの言葉がきっかけとなったのか。

 ワタルは胸を押さえ、小さく息をつく。

 あの少年は、今頃――。


「……ワタル、後ろに、いるよ?」


 物思いにふけっていると、シドウが低い声でボソッと呟いた。


 背筋がゾッとした、すぐ背後に、何かの気配がある、気がする。自分は霊感なんてないからわからないはずなのに。


 表情を真顔で固めたまま、ワタルは顔だけを動かし、背後へ視線を向ける。

 階段下である背後には、何かがいた。


「ぎゃああっ!」


 背筋のゾゾッと感に耐え切れず、ワタルはシドウを突き飛ばして踊り場を通り越し、さらに上の階へ続く階段の中腹まで逃げた。

 そこから手すりごしに下をのぞく。


 するとそこには踊り場で笑い転げるシドウと、下の階段に立って無表情でこちらを見つめるケイがいた。


「……だからケイちゃん! いるならいるって言ってくれよぉぉ」


 ワタルは手すりにもたれ、嘆いた。

 ごめん、と申し訳なさそうに呟く存在は、シドウが感じる『見えちゃうモノ』より、恐怖心を抱くかもしれないと思った。

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