第18話 鴉の憂鬱

ヴィクトリア・シティには隠れた名店と言われているバーがある。

『ゴッデス』、すなわち女神の名前を冠したその店は様々な変わり種の客が酒を楽しんでいた。

また一人、その店に客が訪れる。

その男はスーツを着ていた。大抵の客はラフな格好をする。だが、理由は様々だがそんな格好で来る人物も少数ながら訪れることもあった。

そして、その男はその類の格好をする人物の中でも極めて珍しい部類の人物であった。

童顔の男性。それでいて、目付きは猛禽のように鋭い。

かと思えば微笑む時の目は意外なほど穏やかである。万華鏡のような複雑な表情や雰囲気の変化をその人物は垣間見せていた。一六四センチの低身長でありながら、豹の如く鍛え抜かれた屈強な肉体と修羅場慣れした人物特有の雰囲気。それらを彼は確かに持っていた。バーテンのセリーナはそんな彼に対しても落ち着いた対応を行なう。

「いらっしゃいませ。アラカワ様。ご注文はいつものでよろしいでしょうか」

「ああ。そうしてくれ」

シンは穏やかに酒を楽しんでいた。

ジントニック。

シンプルながら奥深い穀物酒であった。トニックウォーターと混ぜて作られるカクテルの一種である。それゆえ、バーテンの腕が試される難しいカクテルでもあった。ライムの香りとしつこくない甘み、そして清涼感のある口当たりが多くの酒飲みに好まれる。アルコール度数12パーセント。

シンはそれを好んで飲んでいた。

酒を飲む時のシンは珍しい目をする。

哀しみの目であった。

「……」

大抵は無言で酒を味わうのが常であったがこの日は違った。

「……いいか?」

「……はい」

「……子供時代はどうだった?」

「……珍しい質問ですね?」

「……」

「……それなりに幸福でした」

「ならいい。……俺は……正直最悪だ」

「……心中お察しします」

「気遣いはいい。……そのせいで悩みがある」

「……どんなです?」

「……心配されている」

「誰に?」

「……今の親友と……相棒だ」

「……えっと、カズさんとユキさんですか?」

「そうだ」

「ユキさんはともかく……カズさんはイメージできませんね」

「それはそうだな。彼はあまり酒を飲んでいるところを見ない。アルコールに弱いせいだろうな……」

「なるほど……」

「……そうだ。悩みのことだ。……俺は冷徹すぎるらしい」

「……あまり詳しく聞かない方が良さそうですね」

「そうだな……俺は人に対して不器用だ。この性格に不便した事はあるが、一番悩んでいるのは冷徹すぎて人に心配されることだ」

「心配?怖がられるのでは?」

「怖がられるのはいい。自分の仕事は抑止のために必要だ。……ああ、そうだ。詳しいことは外部には漏らせないが、つまり俺は身内や独りぼっちの人、そして友以外には冷たすぎるということだ」

「……独りぼっちって言うのが気になりますね?」

「ああ、それだ。……俺はある人に死なれた事がある。その事を……引きずっている」

「……人の死がショックなのは優しい人の証拠ですよ」

「どうだろうな?俺は彼とおふくろを…………ああ、辛気くさいな。すまない」

「いえ、ここでは皆、意外とそんな話もしますよ。……ところでジントニックはまだ飲みますか?」

「……いただこう」

そう言ってシンはもう一つのグラスに口をつけた。一杯目のグラスは既に飲み干していた。

「……いい味だ。何時飲んでも美味い」

「ありがとうございます」

「……そうだ。さっきの話だ」

「はい」

「……俺は冷徹すぎて心配されている。カズもお人好しだ。ユキも心配性で生真面目な一面がある。そのためか俺は余計な心配をかけてられている」

「完璧な人間はいないものですよ。私も駆け出しの頃は失敗ばかりですし」

「俺の仕事は人の命がかかっている」

「……それはさっき言った『独りぼっち』ですか?」

「………………」

シンの目付きが急速に鋭くなる。それは殺しを生業とする者の目である事をセリーナはすぐに理解した。

「………………失礼しました。お客様に対して軽卒で――」

「構わない」

「……ご好意に感謝します」

「むしろ、余計な気を遣わせてすまない」

「いえ、仕事ですから」

「そうだな。……たしかにお前の言う通りだ。さっきの言葉も含めてな」

「さっきの……『独りぼっち』のことですか?」

「そうだ。……俺の仕事を緊急で持ち込むヤツは大抵追い込まれている。『孤立無援』を絵に描いた状況だ。それでいてそう言う状況に追い込んだ側は平然としている。卑劣で残虐だ。そして、圧倒的に優勢。だから、準備がいるし手段は必然的に選べない」

「……」

「だから、あらゆる手をつかう必要がある。ぎりぎりの手段もな。時には他者や常識や経験や自分の感情すらも敵になる。そんな状況では自分の判断と直感、知恵と準備だけが全てだ」

「なかなかシビアな仕事ですね」

「そうだ。だからこそ精神のメンテナンスがいる。依頼人が壊れそうなケースにも自分が壊れそうなケースにも備えなければならない」

「……仕事では大変そうですね」

「ああ……だが、もう慣れた」

「その仕事駆け出しの頃はどうでした?」

「問題ない。前の経験があったからな」

「前?」

「軍にいた。共和国外人部隊だ」

「へえ……所属は?」

しばしの沈黙の後シンは答える。

「…………共和国外人部隊第一空挺部隊だ。その後は別の部隊だったが」

「その部隊凄く活躍したって聞いたよ。へぇ……そこに」

「ああ、仕事は大変だったよ。勉強にもなったが」

「勉強ってレベル超えている気もするけれどね」

「否定はしない。その縁で今の仕事に就けているからな」

「そう言えば……お仕事は……?」

「……」

「いえ……無理にとは言いませんよ」

「警備だ。警備コンサルタントの仕事をしている。人を管理したりもする」

「なるほど……大変ですね」

「やりがいはある」

「そうなんですね」

「感謝もされるが、それ以上に命を救える仕事ができることがいい」

「命……?」

「ああ、たまにだがとんでもない事態に陥る事がある。主に依頼人が」

「……」

「それには理由がある」

「どんな……?」

「依頼人が孤立無援だ。理由は色々だが」

「さっきほど言っていましたね」

「ああ、凶悪な犯罪者を相手したり海賊相手に船を守ったりすることがある」

「……大変ってレベルじゃないのでは……」

「必要な仕事だ」

「仕事が好きなんですか?」

「……難しい質問だ。好きとか嫌いっていう感情の話ではないからな」

「複雑なんですね」

「ああ……就くべくして就いたって感じだ」

「好きとは違うんですか?」

「…………そうだな。使命感とかそれに近い感じだ。完全なやりがいとはまた違うが……」

「そうなんですね」

「そういえば、……君がバーテンになった理由をまだ聞いてなかったな」

「お金」

「それだけか?」

「……まあ……やりたかったのは事実ですが」

「だろうな」

「相変わらず人の心を見抜くのですね。あなたは」

「……すまんな」

「いえ、もう慣れましたので」

「そうか……」

「……」

「どうした?」

「……仕事のことで悩んでいますか?」

「……ないな」

「え?」

「やるべくしてこの仕事をしている。必要なことを必要な時にしている。それだけだ。それ以上の意味は必要ない」

「相変わらずですね」

「何がだ?」

「あなたは強迫的すぎる。あらゆる意味で。『独りぼっち』を救うために常識も法も、人間としての限界すらも超えてしまうわね。他の人が躊躇することもあなたは平然と成してしまう。正義とか恩讐とかそんな安い言葉じゃ表現できない執念の為に自分自身にすら冷徹になる。あなたってそういう人よ」

「……否定はしない。そのために生きてきた」

「どうして」

「……もし卑劣で悪辣な人間が一人で苦しんでいても俺は自業自得としか思わないだろう。だが、この世界は『凡庸な感性とどこにでもある善性』を抱えた人間が独りになった途端に冷酷になる。俺はそれが許せない」

「どうして?どうせこんな世界は一人救っても変わらない事だってあるわ」

「世界じゃない。大事なのは『一人』の中身だ」

そう言ってシンはグラスの中身に口をつけた。さっぱりとした口当たりと冷たさが彼の喉を潤していた。彼の鼻腔をライムの香りが刺激する。

「世界がどうであれ。救いたいヤツを救う。それだけだ」

彼はあっさりとした口調でそう言いきった。いつも通りの書類整理をこなすかのようにそう言いきる。問題はそれがあまりにも自分の身を顧みない危険な行いであることだった。

だが、彼の口調には怯えや躊躇よりも鋼鉄のような冷徹さが確かに宿っていた。

「ジントニック。美味かった。お代は置いてゆく」

「どうも」

「また頼む」

シンはコートを羽織る。

闇よりも暗い黒だった。

それは何者にも染まらない意志の現れか。

あるいは、身を焦がす程の苦痛を与える世界に対する皮肉か。

シンは黒いコートを羽織ってから、バーを後にした。

「……」

セリーナはシンという常連客の異質さを噛み締めていた。表情こそ普段通りの冷淡なものを装っていたが、よく見ると表情そのものが僅かに固くなっていた。

普通なら、躊躇する。

普通なら、悩み苦しむ。

普通なら、立ち止まる。

普通なら、恐怖する。

普通なら。

普通なら。

だが、セリーナの脳内で想定した『普通なら』がシンと言う男の表情にはなかった。あるのは意志。あるいはプログラミングされているかのような任務への強迫的な執着だけが存在していた。

「……なんて人よ」

セリーナは仕事に戻る。他の常連客と彼の話をした。返ってくるのは彼への恐れだった。言葉の差異はあるが、大きな意味は何一つ変わらなかった。

しばらくすると大柄の男が返ってきた。

ロイ・クリーブランド。

色黒な大男で端正な顔の店主が戻ってきた。セリーナのボス。

「よう、あいつ来てたか」

「ええ、……ものすごく……」

「どうした?」

「……たまに怖い時があるの」

「それはアイツだって同じだ」

「何が?」

「……アイツは常に失う事を恐れているのさ」

そう言ってロイは何時もの仕事に戻って行った。

それ以降は変わらない。ただ、一癖ある常連客たちに酒を振る舞うだけだ。

セリーナが外をふと見る。屈強そうな一羽のカラスがゴミ捨て場のゴミ箱にいた。その上でその一羽は羽根を休めていた。

一羽。ただ一羽。

そのカラスの目がシンに似ていて彼女はなぜか締め付けられるような気持ちに陥っていた。

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