第15話 大作家と小さな怪異

大作家ジョージ・H・ウェルズの書斎は整然と整理されていた。

読んだ本は順番通りにされ、ペンは常に長さを揃えて真横に配置してあった。原稿用紙は書きかけであったが、ウェルズの几帳面なところが現れているのか字は乱雑ではなく、書きかけであるにも関わらず非常に読みやすく美しい筆記がされていた。書斎の本は小説も多いが、科学雑誌や専門書、哲学書や詩集など幅広く収集されていた。中でも印象的だったのは辞書の配置だ。

他のほんとは違い木製の大きめなライティングデスクに置かれ多種多様な言語関連の辞書がそこに配置してあった。アスガルド共和国国語辞典、フランク語辞典、オズ王国中央共通語辞典、アズマ語辞典、アテナ連邦共通語辞典。

アスガルド語の辞書はさらに多種多様で一番大きなロックフォード国語大辞典までもが全巻置かれていた。

ウェルズはその整然とした書斎に二人の人物を招いていた。

一人は養子のヒビキ・メアリー・ムラカミ。血の繋がりは無いがウェルズのかけがえの無い家族であった。

そしてもう一人はアーノルド・J・ワトソン。ヒビキの通う学校の教師の一人だ。変わったイントネーションの語尾で言葉を話す男だが、博識な上に明るく陽気で生徒の人気はとても高い。何人かの保護者からも信頼される好人物であった。

「……どうしてなんだ?……困ったゾ……」

彼はひどく思い詰めた様子であった。

彼は教師としての適性は高いが、四角四面に物事を考えすぎる欠点があった。真面目すぎて深刻になりすぎるのである。今回のように関わりの深いヒビキとその親代わりであるウェルズにたびたび相談を持ち込む事があったが大抵は小さなトラブルの対処や助言で十分であった。

だが、今回は違った。

アーノルドが意を決したように言う。

「……クラスの子が……いなくなっちゃったんだゾ!」

「!?」

「!?」

ウェルズとヒビキは心底驚いた様子でアーノルドを見る。

二人は否が応でも不吉な想像をせざるを得なかった。

誘拐。この状況ではその可能性を無視する事は出来なかった。

だが、次の瞬間。誘拐という可能性ですら凌駕するあまりにも奇妙な事件に巻き込まれたことを二人は実感する事になった。

「目の前にいた生徒が……アシュリーが……消えちゃったんだゾ!!」

「…………え?アシュ?え?」

「消えるって……目の前……え!?」

二人は別々の理由で混乱していた。

ヒビキは知り合いのクラスメイトが消失したという事実によって。

ウェルズは消失という魔法のような事象によって。

アーノルドはたまらず言葉をまくしたてた。洪水のように彼から言葉が溢れそうになったがウェルズはどうにか彼を落ち着かせた。

「アシュリーは自慢の生徒だったんだゾ!彼女は数学と理科が好きで医者になりたいと言ってたけど、文系科目が軒並み苦手で特に国語は六十点台だったけど志望はヴィクトリア大だから克服したいって……だから教えて欲しいって苦しんでたからあの手この手で一緒に特訓したんだゾ!僕の見た中で屈指のいい子だったのに……ああ!万が一のことがあったら教師として親友に申し訳が立たないゾ!僕はどうしたらどうしたら」

「落ち着きなさい」

ピシャリと鋭い一言。ウェルズは一言でアーノルドのパニックを一時的に鎮める。

「とにかく……調べてみる。君が教師でありながら私の作品の理解者である恩があるからね。それに……好奇心がうずく」

「ありがぞうだゾ」

「……落ち着け」

アーノルドは感極まってぐしゃぐしゃに泣いて滅茶苦茶な言葉遣いで感謝する有様であった。彼を家で待機させた後、ウェルズはヒビキと共に学校へと向かう。

もちろん、変装とサングラスをつけて。有名作家の必需品であった。







ウェルズとヒビキがたどり着いた場所はアーノルドが言っていた『誘拐』の現場だった。

それは、アイビーズビーチ地区北部に位置する『丁字路』であった。

何の変哲もない通学路の一区画であった。

アシュこと『アシュリー・オースティン』はその区画で消息を絶っていた。

アシュは人気者であった。

彼女の特徴は美人で、クラスでは評判だった。

内向的で一人の時間を好む超武闘派文学少女のヒビキと人気者で人当たりの良く文武両道なアシュリーは見た目も性格も対照的だったが、仲は良かった。幼馴染であり、共通点があった。お互いに本が好きで古い神話から絵本まで網羅した小さな読書会を一週間に一、二回やるほどに親交があった。

ヒビキとしてはアシュリーに万が一のことがあることは堪え難いことであり、なんとしてでも救うべき対象であった。

ウェルズにとっては近所の礼儀正しい美少女に過ぎなかったが、自分の家族を丁重に接してくれた人物を見捨てる事はできないと考えて調査を行なう。もちろん、作家として珍しい事件に首を突っ込みたい気持ちは多少なりともあったが、それ以上に彼の脳裏に数日前の『ヴィクトリアの奇跡』が頭によぎっていた。

警官たちの殉職に、病院での死闘、悪名高い非人道的な兵器の恐怖、そして恐ろしくも強力な機械の兵隊。

否が応でも不吉な事件を解決したいという欲求が彼の内面にふつふつと湧き上がっていた。

「……」

「……」

二人は夕方の現場に着くと辺りを見回した。

アーノルドが言っていた地点に二人は足を運ぶ。

ウェルズとヒビキは注意深く辺りを観察すると奇妙な物を見た。

周りは住宅街でアシュリーの自宅と学校のちょうど中間地点にある場所であった。そんな場所に似つかわしくないものが置かれていた。それはL字に見える物体であった。その物体をよく見ると白を基調とした質感が二人の網膜に映った。

白い運動靴。ヒビキとアシュリーの学校のものであった。

そしてそれを見た後二人は背中合わせの態勢で周囲を見た。

沈黙。

さっきまで僅かに聞こえていた小鳥のさえずりが消えていた。

沈黙。

遠くに聞こえていた車の音が聞こえない。

沈黙。

沈黙。

風音。

沈黙。

低い風音。

沈黙。

異常な気配だけを二人は感じていた。

「……」

「……いる」

「……気をつけて」

「……ああ」

二人はそれなりに修羅場慣れしているが、それでも今の状況が危険である事を薄々感じていた。

視覚的には平凡な風景だ。ガードレールと丁字の道路。低い塀の上から見える名前の分からない木の枝。木の枝には葉がいくつも生い茂っていた。

次に気にするのは音。

風音と沈黙に紛れて明らかに不審な音が混じっていた。

……ぴたん。

…………ぴたん。

………………ぴたん。

足音だ。湿り気のある足音。何かがこちらに迫ってきていた。数日前と違ってシャドウやバレッドナイン・セキュリティのような戦闘のプロはそばにいない。つまり、自分たちでこの音の正体に対策を考える必要があった。

ヒビキはある方向の道路を見た。『それ』は道路に足跡のような痕跡を確かに残していた。

捕まったらまずい!

本能的に二人はそれを悟った。それから逃れるようにして走り始めるがその音はぴたぴたとひたすら後を着いてきた。まるで彼らの位置を正確に理解できるようについてきていた。二人が後ろを見ると足跡のようなものが二人の後を確実に二人と『何か』の相対的な距離を縮めていた。

僅かに。

しかし確実に。

ひたひたと。

ぴたぴたと。

ひたひたと。

ぴたぴたと。

ひたひたと。

ぴたぴたと。

ひたひたと接近する。

湿気と平面を叩くような音が確実に二人の背後を捉える。

二人の背筋に冷たい悪寒がよぎった。捕まる事は恐ろしい結末に繋がると。

ウェルズは道の近くにあった自転車の一つを倒した。

何かの進路に重なるように。

すると自転車は宙に浮く。

それだけが無重力になったように。

それははじめ『何か』に観察されるかのように動いていた。

左右。上下。前後。

そして、それはぐしゃぐしゃに歪められた後その場に打ち捨てられた。

打ち捨てられた自転車は道と同化するように姿を消した。

そして『透明なそれ』はしばらくその残骸を見つめるために止まった後、再び追いかけた。

ひたひたぴたぴた、ひたひたぴたぴた。

ひたひたぴたぴた、ひたひたぴたぴた。

それは二人を追いかけた。

どこまでも追いかけた。

二人は既に息を切らしていた。

ウェルズはその正体は『生き物かそれに近い存在』でないかと考えた。

そして捕まってすぐならば。

ウェルズは賭けに出る。メタアクトを使って。

『有機物であり電気信号の流れる生きた存在』あるいは『意志のあるエネルギー体』ならばウェルズ自身の『支配』あるいは『読み取り』の力が通じると彼は考えた。問題は対象が見えないことと対象がなんであるかが分からないことにあった。

だからこそウェルズたちにとって『賭け』であった。

そして、ウェルズは触れた。思考の支配。

「私と、私の娘、そして娘の友達への攻撃をするな。中止だ」

冷静に、されど明瞭な声量でウェルズは『何かに』命令を下した。

「…………あい」

女の子らしきの高い声が彼に聞こえた。場所はウェルズのそばであった。ウェルズの視覚には何も認知できない。

ぴたぴた、ひたひた、ぴたぴた。

ひたひた、ぴたぴた、ひたひた。

湿り気のあるような素足の音が遠くへと消えて行った。

ウェルズとヒビキはその場に座り込んで、顔を見合わせた。お互いの顔には冷や汗が浮かんでいた。

「…………」

「……ありがとう父さん」

「……まあ……な……」

そして、二人はしばらく休んだ後、丁字路近くの街路樹のそばにアシュリーが倒れているのを発見した。アシュリーは怪我をしている上に意識もなかった。二人は青ざめた顔でアシュリーを抱えてその場から離れた。

幸いにも病院に着いた時にはアシュリーは意識を取り戻したが、しばらく入院が必要だと医師は宣告した。

病院の後、二人は道の事を調べるとアシュリーと自分たちに起きた原因の正体を知る事になった。

あの奇妙な存在は設置型のメタアクト能力によるものであることが後の調査で彼らは理解できたが、奇妙な事に能力の所有者にあたる存在は既に亡くなっているということだけが分かった。

原理としてはこうだった。

元々の能力者(若い少女だと推定)は10年前当時にメタアクト能力を発動中に心臓の持病が原因で死亡。そのことで彼女の肉体が発生させた能力そのものが制御を失ったまま自律行動を続けているという状態である。能力そのものは『少女とその分身、そして彼女が攻撃した物体』は視覚的に一定の期間、知覚されなくなるだけのシンプルな能力であった。

本来、メタアクトという能力は能力を持つ生命体が死亡すればいくつかの例外を除いて能力そのものが停止するのが自然である。

だが、少女という本体を失ったエネルギー体が街に存在する量子的力場の固定されたことで『場所固有の現象』として『ある条件を満たした個体』を攻撃する特徴があった。

戦闘能力。メタアクトの保有者や人に危害を加えた経験のある人物が領域に入り込むと自動的に攻撃される状態にあったのである。

その丁字路は少女の名前のイニシャルにちなみ『GF通り』と呼ばれ、ここで喧嘩した人と武器を持った人間は『足音の亡霊』に攫われると噂されていた。

アシュリーはウェルズたちのような苛烈な戦闘経験はない。だが、何日か前の彼女はこの通りの近くで友達をいじめていた不良たちを催涙スプレーとその場にあった木材で撃退したことがあった。

その数日後である今日、久々にこの道を通った時に『GF通りの足音』に襲撃された。そして、恐怖のあまり意識を失っていたと彼女は二人に話した。

この出来事の後、三人はGF通りの辺りをうろつくのをやめた。そして彼らはどうしても近くに通る必要のある時には花を添えるようになったという。

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