泣き女、亡き女
梅生
泣き女、亡き女
あした東京に行く、と言ったら、案の定彼氏から「え、何しに?」と聞かれた。正確には、埼玉なんだけど。まあ私たちからすれば同じようなものだ。
ほんの少し迷ってから、「うーん、お葬式」と正直に答える。すると彼は悲しそうに「ああ……」と眉を下げた。優しい人だ。お人好しとも言える。というかちょっと、ぼんやりしすぎかもしれない。私より三つも年上なのに、いまいち頼りなかった。
だけどこのときばかりは、彼に対して引け目を感じた。お葬式と打ち明けた私の胸中は、誇らしさでいっぱいだったから。帰り道に猫の死体を目撃した小学生が、翌日クラスで自慢しているあの感じだ。こんなのは不謹慎だし、恥ずかしいという自覚はある。
でもこんな私の幼さを、あの人ならきっと笑ってゆるしてくれると思うのだ。
あの人とは結局、ただの一度も会えないまま終わってしまった。何度も「会おうね」と約束していたし、毎回それなりに本気だったはずなのに。だけど通話が終わった途端、いつもその本気はするっとほどけて、お互いの人生にとって最も縁遠い人になる。
あの人――
ただまれに、そういった変な空気抜きの、「純粋な話し相手」を探し求める者同士でつながることもあった。そんなときは大抵、「自分は話相手を探しているだけなのに」といった、変に潔癖っぽい、ともすれば思春期じみたプライドが響き合う。私たちってつくづく人間としてまともですよね。そんな、奇妙な連帯感。見えない敵相手に、二人で結託してマウントをとってる感じ。ここまでくるともはや私たちの方がイタイ気もするが、それでもまあ、いい暇つぶしには違いなかった。なにしろ世界中を襲った新型コロナウィルスのせいで、外出する機会がめっきり減ってしまい、仲のいい友達にすら気軽に会えなくなってしまったのだ。目の前に横たわるのっぺりとした時間の海にうんざりしながら、日がな佐藤さんのコールをかけたり切ったりしているうちに、七つ上の生美さんとつながったのだった。
それから三年が経ち、結局生美さんの顔も知らないまま、彼女の葬式に行くことになった。けさ突然うちのアパート宛に送られてきた招待状には、丸々とした筆跡で「故人きっての希望です。どうかご足労願えませんでしょうか」とあった。生美さんと似た筆跡に一瞬ひやりとしてしまったけど、末尾に添えられた署名で、それが彼女のお父さんのものだとわかった。
なぜ私が彼女の字を知っているかといえば、一度互いに年賀状を送り合ったことがあったからだ。ある年の瀬に生美さんが、「そういえば、次の正月は喪が明けるな」呟いたのがきっかけだった。もうその頃にはとっくに連絡先を交換し終えていて、二時間ほどの通話を何度か重ねたあとだった。
喪が明ける、ということは、親類の誰かが一年以内に亡くなったのを意味しているが、私はそれが生美さんのお母さんだと知っていた。
「いわゆる難病ってやつで、まあ簡単に言うと、運動機能を司る脳の部分が縮んでいく病気」
一体何度目の通話で、どんな話の流れで聞いたのか未だに思い出せないが、お母さんの死因について生美さんがそう言ったのだけははっきり覚えている。その完璧なまでの「何食わぬ」トーンから、かえって生美さんの苦しみの深さが感じられ、傷口からこぼれだす蜜のような悲哀に魅せられた私は、そこでもうすっかり、生美さんを気に入ってしまうのだった。
「年賀状、どうしようかなあ」
「えっ、生美さん年賀状書いてるんですか?」
「いや、社会人になってからだけどね。なんか、それまで相手に使ってたお世辞とか媚びとかの帳尻が合うっていうか、とにかくお互い気分いいんだよねえ」
「へえ……」
「それにいざ書いてみるとね、結構楽しかったりするよ」
「えー、面白そうですね。年賀状とか、小学生のとき以来ですよ」
「あ、じゃあ、次はお互い送りあってみる?」
かくして、我々は年賀状を交換することになった。生美さんから届いた年賀状には、丸っこい字で「昨年は大変お世話になりました」とあった。よくある決まり文句だとわかっているのに、改まって手書きで寄越されると、なんだか本当に良いことをしたような気分になった。そして文の末尾には、「汚い字でスマン」とあって、生美さんらしくて笑ってしまった。顔も知らないくせに生美さん「らしい」なんておかしいけど、やはりそう思わずにはいられなかったのだ。
そんな生美さんの筆跡と、彼女のお父さんの字は似ていて、それがしみじみと切なかった。
葬式に行くといっても、何をすべきで、何をすべきでないのか、いまいちよくわかっていないことに気づいた。多分、お香典とか、数珠とかを持って行くんだろう。あと、喪服に、ネックレス……ここでふと、すこし前に葬式帰りと思しき女性がつけていた黒い真珠のネックレスを思い出す。カフェのレジに並んでいる最中のことで、その女性は窓際の席に座っていた。灰色がかった柔らかな日差しの中、人心地ついたような仕草でカップを口に運ぶその首元で、黒い真珠がぬらりと艶めいていた。今も鮮明に思い浮かべることができるほど、不思議と目が離せなかった。
今思えばあれはなにかの前兆というか、虫の知らせだったのかもしれない。だけどまさか生美さんの死をほのめかしていたなんて夢にも思わなかった。そういえば私も大概ぼんやりしている方なのだ。彼氏のことをとやかく言える立場じゃないのかもしれない。
喪服なんて都合良くあるはずもなく、最近使い終わったばかりの就活用スーツしか無かった。しかも結局内定を蹴って大学院に進むことにしたので、そのスーツとはお互い妙な距離感があった。クローゼットの暗がりをたっぷり吸い取ったようなその真っ黒な布地は、どきりとするほどひんやりしていた。
最後に行った葬式はいつの、誰のものだったか。子どもの頃だったのは間違いない。当時は親に連れられるまま、顔も名前もぴんとこない親類の葬式へ参列したものだ。辛気臭く、どこかよそよそしい大人の黒い群れに紛れながら、訳もわからず手を合わせた。
だけど今回は違うのだ。招待状の言葉を借りるなら、「故人の意向」によって招かれた私が、たった一人で、自分の意思で弔いに行く。葬式当日、見知らぬ土地の風景をあとにしてぐんぐん進む新幹線のスピードに、幼い誇らしさはますます膨らんでいった。同じゼミの同級生じゃ味わえないような、奇妙な出来事に巻き込まれている自分の境遇にすっかり酔いしれていた。
だけど電車へ乗り換え、斎場の最寄り駅の改札を抜け、バス停のあるロータリーへ続く階段を降り、その土地の「におい」が鼻孔をついた瞬間、唐突に怖くなった。だってあと数十分もしたら、赤の他人の群れに渦巻く生々しい悲しみのなかへ、たった一人飛び込まなければならないのだ。しかも何より恐ろしいのは、声しか聞いたことのない人の死体に対面しなければならないことだった。テレビやネットでは真っ先にモザイクでぼかされるようなものを、間近で見なければならないなんて……。
やっぱりやめておこうかな。そんな臆病風に吹かれたところでタイミング良く、バスがやってきた。一時間に二本あるかないかの、不便なバス。生美さんから何度目かの通話で聞かされた記憶がある。まるでずっと連れ添った恋人をけなすような口ぶりで、いかに彼女の地元が「クソ」な「田舎」なのかをまくしたてていた。
駅前の習い事、高校、大学。生美さんは三十年ほどの生涯の半分くらいを、このバスに揺られて過ごしていた。そう考えると、運転席の二つほど後ろにある一人がけの席にブレザー姿の生美さんが座っている気がして、私はいよいよ吐き気をもよおした。軽々しい気持ちでこんなところまで来るべきじゃなかったのだ。けさアパートに残してきた彼氏のことがふと思い浮かび、うらやましくなった。きっと今頃呑気にゴロゴロしながら、ネットフリックスでもう何度も観たアニメを眺めているにちがいない。
斎場は、住宅街の区画と区画の間の、ぼんやりしていたら見過ごしてしまいそうな空白の中にあった。招待状に同封されていた、生美さんが私に宛てて書き残したというメモ用紙には、「よくその向かい側のひとんちの前で母と一緒にバスを待ったんだけど、そこは常に猫を飼っていて、いつも違う猫がブラインドカーテンと窓の隙間で日向ぼっこしていた」とあった。たしかに、斎場と道路ひとつ挟んだ向こうにはバス停があったし、その背後の「ひとんち」の窓にはブラインドカーテンがさがっていた。
敷地の大部分はきめの粗いコンクリートの駐車場になっていて、その端に、斎場とおぼしき建物がじっと佇んでいた。「故 志久生美儀 葬儀式場」と筆で書かれた、質素で、だけど厳かな看板を横目に自動ドアをくぐる。いわゆる家族葬というやつなのか、受付もないし、人の気配もかすかにしか感じられなかった。
「あれ、こんにちはぁ。もしかして生美ちゃんのお友達ですか?」
一人まごついていると、お手洗いに続く物陰から現れた女性が声をかけてくれた。腰か背中を痛めているのか、顎を突き出してのしのし歩くので、一瞬かなり高齢に見えたけど、存外その目元にはハリがあり、瞳も少女のように輝いている。何よりその声が生美さんそっくりだったこともあり、こちらへやってくるまでの数歩の間に、彼女の印象は二、三十歳ほど若返った。
「あ、はい。こんにちは」
「ごめんね、受付がないからわかりづらかったでしょ……あ、私、生美ちゃんの叔母でえす」
言いながら、大げさにしなを作ってお辞儀をする。そのおどけた感じがますます生美さん
を思わせて、つい笑ってしまった。
叔母さんに案内されるままに、狭く、清潔で、静かな通路を歩いて行く。だんだん濃くなっていくお線香のにおいが、前を歩く叔母さんの輪郭と溶け合って、なんだか胸の奥がツンとした。
会場は、思っていたより随分とこじんまりした部屋だった。パイプ椅子が真ん中を空けて横に三脚ずつ、前後二列に並んでいる。それらが静かに見据える先では、黄色やオレンジ、赤といった、おおよそ葬式らしくない色合いの花たちが、遺影を無邪気に取り囲むようにして祭壇を彩っていた。
真っ先に覚えたのは、安堵感だった。肩からふっと力が抜ける。その顔写真は、直前まで思い描いていたどの遺影とも違って、悲痛さがなく、かといって底抜けに明るいでもなく、拍子抜けするほどのニュートラルさでただそこにあった。おそらく、スマホで撮ったのを遺影用に焼いたのだろう。グレーのシンプルなセーターを着た女性が、夕焼けの浜辺を背に微笑んでいる。この時点では生きていたのだから当たり前だけど、死という、何もかもが静止した暗闇の気配とはおよそ無縁そうな、瑞々しい表情だった。ゆるめのパーマがかかった肩くらいの髪が、ふっくらとした輪郭が、金色の夕日をまとい、たしかな手触りでそこに存在していた。
そっか、生美さん、こんな顔をしていたんだ。名前だけ知っていた画家の絵と対面したときのような心地で、通路と会場の境目から遺影を眺めた。具体的にこういう顔、というのを想像したことはなかったけど、これまで何度も聞いた彼女の声とその実像とがなかなか重なり合わず、ゆるやかなもどかしさが乳白色の渦を描いた。その顔を心の中で何度もなぞっているうちに、隣にいる叔母さんが居心地悪そうに身じろいでるのにふと気づく。
「えっと、生美さん、あちらですか?」
「あ、うん……」
気の利いた言葉が浮かばず、わかりきったことを聞く私に、叔母さんはすこしほっとしたように、だけど遠慮がちに頷いた。彼女の肉親の亡骸を怖がっていると思わせては気の毒だという気持ちから、私は精一杯の平然さを顔に貼り付け、祭壇の方へと足を踏み出した。
だけど、祭壇のすぐ前にある棺にピントが合った瞬間、叔母さんがどうこうなんていうのは、自分自身を誤魔化すための建前にすぎなかったことに気づいた。単に、遺体との対面を躊躇している奴だと思われたくない、そんなことで動じる私ではないと示したいだけに過ぎなかったのだ。
一歩すすむごとに、まにあわせの勇気はしおしおとしぼんでいく。せめて一度、荷物を置かせてもらったり、お手洗いに行かせてもらったりして、気持ちを整えればよかった。なんなら叔母さんだって、私が素直に打ち明ければ無理しなくてもいいと言ってくれたに違いない。今日初めて会ったばかりの、そしておそらくもう二度と会うこともない他人の前で強がったばっかりに、私はあっという間に窮地へと追い詰められてしまっていた。
「あっ、……」
そのとき、不意に後ろから聞こえた叔母さんの声に、薄く張っていた緊張の膜が破れた。一時中断の空気にほっとしながら振り向く。叔母さんの視線の先では、長身の男性が、会場の出入り口からこちらにむかって歩いていた。私は本能的に、生美さんのお父さんだというのがわかった。
「お義兄さん、こちら、生美ちゃんのお友達で」
「ああ。どうも、……」
静かでハリのない、柔らかな、くぐもった声だった。そのほとんどが白い不織布マスクのひだに絡め取られてしまったようにすら感じられた。少なくとも頭一つ分は見上げているはずなのに、その墨絵のようなぼんやりした声色と猫背のせいで、実際よりも小柄に見える。だけどそれでいて、その少しがに股気味の大ぶりな足取りや、立ち止まったときの上半身の揺らぎ方、そしてそこから流れるように私に向かって頭を下げたときの仕草には、落ち着きや堂々とした雰囲気が漂っていて、事務的で冷ややかな印象すらあった。
「わざわざこんなところまですみませんね、来るの大変だったでしょう」
言いながら目を細めたのが、すこし意外だった。笑わない人だと思ったから。だけど同時に、そこには親しみの色は一切なく、笑いじわの刻まれた目尻では、土気色の肌が、悲鳴をあげるようにきしんでいた。
そこでふと、彼の存外明るい茶色の瞳が、私の不躾な視線をかわし続けているのに気づいた。緩やかな、だけどたしかな息苦しさが、その場の空気を濁らせる。
「みなさま、もう間もなく式が始まりますので、ご準備のほどお願いいたします……」
ちょうどそのとき、出入り口の方から、慌ただしい気配が靴の音とともに部屋の中へと膨らんだ。半ば救われた心地で一同そちらを見やる。葬儀会社の人だった。そこで、それまでのやり取りもなんとなく立ち消えになる。結局生美さんの遺体と対面することができないまま、私はあらゆるぎこちなさと情けなさを抱えてトイレへと向かった。それが私にできる精一杯の「自分らしい」、「平然とした」振る舞いだった。
数分後、参列者一同がそろって席に着いた。といっても、私を入れてたったの六人きりだ。祭壇に向かって左から、生美さんのお父さんと、叔母さん、そして席ひとつと真ん中の隙間を空けて、叔母さんの夫と、その息子二人が一列目に並んで座り、二列目には、右端に唯一私だけが腰掛けている。ここへ来る途中散々恐れた疎外感は不思議となかったけど、やはり場違いには違いなかった。左の頬や二の腕に触れ続けるがらんどうに、かえって、本来ここにいるべき人たちの不在が生々しく感じられた。私なんかよりもっと近しかった友人や、もしかしたら恋人だっていたかもしれない。だけどそうであるからこそ招待されなかったような気もして、私は答えを探すような心持ちで生美さんの遺影を見つめた。私の知っている生美さんは、基本的に優しくて楽しい人だったけど、同じくらい天邪鬼で意地悪な人でもあった。だけど遺影の笑顔からは、そういった陰りが一切感じられない。
「これより、志久家の告別式を始めます」
葬儀会社の人が、いかにも粛々、という声を作って式の始まりを告げた。こういうわざとらしい感じ、きっと生美さんは大層むずがるに違いない。生美さんの意地悪さとは、そういう性質のものだった。頬が自然と緩み、なんだか無性に生美さんと話したくなった。変なの。すぐ目の前にいるのに。そこまで考えてから唐突に、「もう生美さんとは話せない」という至極当たり前の事実が、重たい木槌のように私の頭へ振り下ろされた。きっと私はこの瞬間までずっと、「亡くなった」という言葉以上の意味や手触りを知らずにいたのだ。いや、もしかしたら無意識に目を背けていただけなのかもしれない。
やがて、厳かな衣擦れの音とともに、お坊さんがやってきた。パイプ椅子とパイプ椅子の間にできた隙間を、まるで頭上に透明なアーチでもあるかのように、ほんの少し頭をさげて通り過ぎていく。滑らかな動作で定位置につくと、そのままなんのよどみもなく鐘を叩いた。
お経の最中、私はしばしば一列目に視線を走らせた。皆一様に、お経に頭を押さえつけられているかのようにうつむいている。中でも私の視線は、ちょうど対角線上にいる生美さんのお父さんの方へ引っ張られた。つい数年前に妻に先立たれ、その後間もなく一人娘も亡くした人とは思えないほど、淡々とした、静かな、一切の湿り気もない空気がその輪郭を固く縁取っていた。そしてそこまで淡泊でないにせよ、その隣にいる叔母さんもまた、ただじっと、その儀式の秩序を守るのに徹している感じがあった。
お経が会場の隅々まで膨らみきった頃、参列者が順番に席を立って棺の前で手を合わせる流れになった。最後に私の番がきて、蓋の開いた棺と向かい合う。
元々生美さんとは、いつかちゃんとしたかたちで、つまり、完璧なタイミングで会いたいと思っていた。というか、そうなるに違いないと思い込んでいた。事前に会う時間や場所を決めて、当日になってちょっとモチベが下がりつつ約束どおり足を運ぶ、みたいな、そんなありふれた待ち合わせなんかじゃなく、ある瞬間思いがけず、だけどそれ以上ないってくらい自然な流れで、私たちは会うことになるのだと、なんの根拠もなく信じていたのだ。
だけどきっと、完璧なんていうものは、私の想像の遠く及ばないところにあるのだ。死、という完膚なきまでに完全な永遠を前に、私はそれを静かに悟った。
いつのまにかお経は終わっていた。来たときと同じように、お坊さんが静かに風を切って立ち去っていく。ほっと息をつく間もなく、会場の後ろ側に立てかけてあったパーテーションが開かれ、その殺風景な小さい空間へと集められた。やがて生美さんの棺が運び込まれ、親族たちがゆるやかに取り囲む。私はその小さな輪からすこし離れたところに立った。
生美さんに続いて、葬儀会社の人がカートを押しながらやってきた。その上にはこぼれそうなほど瑞々しい生花がたっぷり詰まれていて、よくよく見ると祭壇に飾られていたものだった。
「では、最後のお別れになります。これから旅立つ故人にお花をたむけながら、お見送りをしてください」
一瞬だけ、その場の空気がぎこちなく固まった。だけど生美さんのお父さんが、やけに慣れた、すこし白けているようにすら見える素振りで、花を四、五輪ほど手に取ると、他の面々もそれに続いて、黙々と棺へ花を敷き詰め始めた。
「あ、どうぞどうぞ」
親族全員がひととおり手をつけたタイミングで、叔母さんが花を一輪差し出しながら棺の方へ促してくれた。真夏の陽光を思わせる、明るいオレンジのガーベラだった。思いのほか厚みのある花弁の肉感と、口元をきゅっとひきむすんで作った叔母さんの微笑み、それでいて私とは視線を交わさないよう瞳を隠した暗いまぶたとが、しばらくひとつの残像として残った。
私はとうとう、棺の縁の向こう側をのぞき込んだ。直後、遺影を見たときと同じような、いや、それを遙かに上回る意外さが胸の内を吹き抜ける。肩すかしに近いかもしれない。
――なんだ。眠ってるだけじゃん。
そんなはずないのはわかっているのに、心の底からそう思った。注意して耳を澄ませば、寝息すら聞こえてきそうだった。
不意に、私の背後に叔母さんの気配が優しく重なり、一緒になって生美さんの顔をのぞき込んでいるのに気づいた。何か言わなきゃいけないような気がして口を開く。勿論、叔母さんに対してだ。どのあたりがいいですかね、とか、そんな無難な言葉をかけるつもりでいた。
「初めまして、……」
だけど、独りでに舌の上を滑り落ちた言葉は、疑いもなく生美さんに向けられたものであった。その最初の音が内側から自分の鼓膜を震わせた途端、目の奥がぎゅうっと熱くなり、視界がなみなみと揺らいだ。語尾は情けなく潤んでしまった。うろたえている間にその熱の塊は私の視界から剥がれて、頬とマスクの隙間に滑り込んだ。
ああ私、泣きたかったんだな。ちゃんと悲しかったんだ。出会ってすらいない赤の他人が死んだ途端、泣いて別れを惜しむなんて寒々しいこと、絶対にするものかと思っていたのに。そしておそらくそんな私だからこそ、生美さんはここに呼んでくれたというのに。
でもごめんなさい、生美さん。私、悲しいよ。寂しいよ。
「私、ずっと生美さんに会いたかったんですよ」
見ず知らずの人間が見守る中、私はなおも生美さんに向かって話しかけ続けた。独りでに溢れた言葉は、やがて独りでに止み、そのタイミングで、無数の花々に囲まれた生美さんの顔のすぐ近く、右こめかみ辺りに小さな隙間を見つけた。そこへそっとガーベラの茎を差し込むと、まるでこの瞬間を待ち望んでいたかのような滑らかさでぴったりとはまる。息を飲むような感触に胸の内が小さく震えた。
やにわに、背後からわっと泣き声が立ち上る。まるで、迷子の女の子みたいな無防備で可憐な声だった。思わず振り向くと、潤んで歪んだ視界の中に、顔を真っ赤にして泣きじゃくる叔母さんの姿があった。そこから、その息子、そして夫にもその湿っぽい音が感染し、そしてとうとう、生美さんのお父さんまでもが、目元にぎゅっとハンカチを押し当てたまま動かなくなってしまった。
そんな風にして、私たち七人はしばらくわんわん泣いた。棺の中の生美さんだけが唯一、呑気な顔で寝そべっていた。
火葬場までは来なくていい、という生美さんの意向に従い、私は葬儀場で志久家の人びとに別れを告げた。
「駅まで送っていこうか」
去り際、そう申し出てくれたお父さんの目元には依然として涙の名残があった。その潤んだ瑞々しい双眸に、途方に暮れてしまいそうなほどの孤独とやりきれなさがにじみ出ていて、きっとこの人は今までずっとこんな風に我慢してきたのだというのがわかった。
私はその申し出をやんわり断って、行きで降りたのと反対側のバス停へ向かった。一人になりたかったのと、生美さんのメモにあった、バス停の近くにある「ひとんち」の猫が気になったのだ。何度か覗き込んだけど、ただぼんやりとした暗がりがそこにあるだけで、猫どころか、人の生活の気配すら感じられなかった。そしてその暗がりの中に、さっきまでの美しく生々しい、それでいてどこか現実味のない経験の残滓と、かつてここで同じように窓を覗き込んでいた母と娘の姿とが緑色に瞬いた。
ふと、ここへ来てからずっと触っていなかったスマホが気になり、取り出した。三十分ほど前に受け取ったメッセージ通知のバナーがぽっかり浮かんでいる。彼氏からだった。
『大丈夫だった? 帰り気をつけてね』
急速に、薄れかかっていた日常の手触りが私の心臓を優しくつねった。私はもう窓を覗き込むのをやめて、彼氏が今日一日眺めていたに違いないアニメをスマホで流しつつ、バスを待った。
泣き女、亡き女 梅生 @stier7676
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