第16話
幾度も起こる
たしかに
『なぜ起こるのかはわからないが、起こる』
そう認識してしまえば心の準備も制度の準備もできるし、準備ができていればたいていのことには対応できる強さが人類にはあった。
俺たちは次第に手慣れていき、いよいよ俺が出張らなくても安定的に
……このごろ、『余暇』ができるたび、追い詰められるような心地になる。
故郷に戻ることを切望していた。
このつらい世界で、元の世界で彼女と交わした約束が俺を支えていた。
……けれど、俺はすっかりこの世界に順応してしまったのだった。
人々が協力しあい、住み良い環境を作っていく。
文明は後退しているけれど、それでも新しい『モンスター』というものを建材に、衣類の材料に、あるいは生活の端々に役立つさまざまなものに使い、その肉を食べることによって、俺たちはもう『新しい文明』を築いているのだ。
モンスターとの戦いが『命懸けの狩り』だった時代ははるか昔のように思えた。
人々は強くなり、より強いモンスターを安定して狩れるようになる。よりよい素材を手に入れ、よりよい武器を作成し、よりよい戦術を編み出して、生活をより安定した良いものにしていく。
さすがに俺が元いた世界の水準と比べてしまうとまだまだ及ばないけれど、それでも、水も食糧も安定供給が
この世界で生きる。
それを受け入れてしまえば、幸福に人生を終えることができるのだと思えた。
それはきっと、ある意味では元の世界よりも苦労がなく、そして恵まれたものとなるだろう。
俺が、この『現実』に根を下ろすことを決めてしまえば、その未来は訪れるのだ。
では、なにが俺をこうまで迷わせているのかといえば、元の世界に残してきた彼女━━
━━では、なかった。
もはや薄れた記憶の果てにある『彼女との約束』は、たしかに長く俺を支えてくれた。
きっと守りたいと思う気持ちに嘘はない、大事な大事な、誓いなのだ。
けれど大事なものが増えてしまって、相対的に価値を落としていることは否めない。
……だから俺が『この世界』に根ざすことをためらっているのは、あくまでも『この世界』であったことが原因で……
ようするに。
『あれだけ、元の世界の彼女との約束を盾にいろんなものを捨てたり、いろんな人を待たせたりした。だというのに、いまさらその約束を簡単に放り出していいのか?』
……まるで、ダメな博打うちのような思考だった。
『これだけ約束のためにいろいろなものを支払ったのだから、その支払いを簡単に無駄にはできない』
『賭け続けた自分を裏切るのは
『それに━━』
『いつかきっと賭けに勝つからと周囲を説き伏せてきたというのに、その賭けをここでやめてしまったら、周囲になんて言い訳をすればいいんだ』
……ああもう、整理してしまえば、死にたくなってくるに決まっているのに。
俺は俺の心を噛み砕いて理解し、整理し、そして解決しなければならないタイミングに立たされているのだ。
女王陛下。
……これ以上待たせることはできない。
俺は彼女のことを愛しく思っているのだ。
これがいわゆる恋愛なのかは、正直なところ自信がない。けれど、彼女に幸せになってほしい━━いや、俺が幸せにしたい。誰か、ではなく、俺が。
しかし一方で、この世界で生まれた誰かが彼女を幸せにしてくれることも願っていた。
俺がこうしてグダグダと結論を先延ばしにしているあいだに、女王陛下が素敵な人を見つけて、俺へ向けていた思慕が勘違いであり、年上の異性に対するただの憧れだったのだと、そういう結論にいたることも、期待してはいた。
その時きっと俺は心を引き裂かれるような気持ちにもなるだろうけれど、彼女が彼女の意思で誰かを選び、その誰かと幸せになってくれるなら、それを全力で応援する覚悟が……
いや、覚悟ではなく。願いが、あった。
決断したく、なかったんだ。
こちらの世界に根を下ろすか、まだ元の世界に戻る夢を追い続けるか。それを俺は決断したくなかった。
この決断の重圧に耐え切る自信がなかったんだ。だから女王陛下を愛しく思っていても、俺は誰かに彼女を奪われたかった。奪われてしまえば悶え苦しむことはわかっていても、そうなってほしいと思っていた。
ところが、そうはならなかった。
だから、俺が決めるしかない。
…………その日は朝から身が震えるぐらいの寒さがあって、魔物素材で作ったマントを体に巻き付けるようにしながら水場へと向かった。
王都にはかつて井戸があったが、今は枯れてしまっている。
だから飲み水や生活用水などは川から引いた水を用いる。
ただの水であるはずのこれは、モンスターの『核』と呼ばれる、宝石のようなものを沈めておくだけで浄化される。
……魔法というものを使う人には出会ったことはないが、まるで魔法のような、不可思議な現象。
この世界がおかしいのは言うまでもないが、この世界のおかしさはどこかゲーム的というのか……
どうでもいいことを考えながらふらふらと訪れた水場は、朝早かったせいか、誰もいなかった。
たった一人で朝日を背負うように身をかがめ、溜池の水をすくって顔を洗う。
しばらく目を閉じて水がしたたり落ちるのを待ってから、目を開く。
すると、水面には顔が映っているのだった。
………………これは、誰なのだろう?
目つきは鋭く、引き結ばれた口からは油断のなさが伝わってくる。
首も肩も筋肉がついていることがゆらめく水鏡でもはっきりわかって、しかし無駄に肥大しているというわけでもなく、鋭い印象が際立っていた。
ぼさぼさの髪の、男。
もう若くない、誰か。
……まぎれもなく、俺、なのに。
久々にはっきりと見た自分の顔は、なんだか自分のものではないようにしか思われなかった。
……刻まれた『時間』が、一斉に襲いかかってくるような。
「……ああ、もう、俺は……この世界の人間、なんだ」
明日のメシの心配なんかしなかったころの自分。高校生だったころの自分。十代だったころの自分。
そんな『自分』があったことが、なんだか急に夢のように思われた。
……あるいは、全部、俺の思い込みだったのかもしれないとさえ、思う。
まぎれもなく現実だったはずなのに、もう、今の俺には、『元の世界』のほうが幻に思えて……
水鏡に波紋が立つのは、洗顔に使った雫のせいばかりではなかった。
目頭が熱くなって、ボロボロと涙がこぼれていた。
……生きていかなきゃ、ならないんだ。
歳をとっていかなきゃ、ならないんだ。
━━初日の出を見に行こうっていう約束はもう、果たせないのだと。
受け入れなきゃ、いけないんだ。
覚悟は決まらなかった。でも、あきらめはつきそうだった。
もう、戻れない━━この気持ちは『いまだに戻る方法が見つからないから』というよりは、『いまさら戻ってももう、なにもかもが遅いから』というような意味合いで心に重くのしかかった。
この世界の水で顔を洗って、あの世界を想ってこぼれた涙を洗い流す。
ちょうどその時に人が駆け寄ってくる気配があって、俺はその慌てた足音の方へと何の気のなしに振り返った。
すると駆けてきたのは女王陛下で、その表情から、なにか、よからぬ事態が発生したことが読み取れてしまった。
……ああ、勘弁してほしい。
彼女が駆け寄ってくるほんのわずかな時間に、俺はもう、事態のおおまかな予想を終えてしまっていた。
だって、もはや
彼女がそんな追い詰められたような顔をして走ってくる理由なんか、一つしか思いつけない。
彼女が息を切らせながら、早口で細かい状況をまくしたてる。
その言葉はすべて俺の頭の表層をすべっていくようで、奇妙なあきらめみたいなものが胸に宿るのを、俺はたしかに自覚していた。
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