第5話

 裏切られたという気持ちはあった。


 村長が俺をこの村に留めるために、唐突な結婚なんかを発表したのは、それ以外に解釈の余地なんかないぐらいに明らかな事実だったからだ。


 けれど一方で、そこまでして村に留まってもらいたいという気持ちもわかったし、なおかつ、結婚相手として選ばれた彼女に、不満はなかったんだ。


 強くて素敵で、理知的で優しい。


 彼女のことは先輩駆除人としておおいに尊敬していた。

 こんなに素敵な人はきっと地球にもほとんどいないだろうと思っていたし、幸せになってほしいと思っていた。


 よくよく話してみると俺より一つ歳下らしくて、そのしっかりしたところには感心するばかりだったし、年齢を知ったせいか駆除の仕事先でたまに見せるかわいらしいところには惹かれてもいた。


 でも、彼女を恋人にとか、ましてや妻にだなんて、思ってもいなかった。


 俺には元の世界に残してきた恋人がいる。


 すべて、話していた。俺が『異世界』と言うべきところから来ていることも、恋人がいることも。


 あの大晦日の日にきっと一緒に初日の出を見ようと約束して、俺はその約束を果たすために元の世界に戻るのを目的としていることも、言ったんだ。


 村を出る事情説明のために村長には話したけれど、それ以外では彼女にしか話していなかった。


 だからきっと、彼女もまた、唐突に俺と夫婦にされて困惑し、戸惑い、村長に対して怒りなんかも抱いているものと思った。


 俺たちはきっと同志で、だから一緒に村長に抗議をしに行こうと、夫婦として村に認知された夜、押し込まれるようにして入った『夫婦の新居』の中で、話したんだ。


「……でも、その彼女がまだお前を待っているとは限らないだろう?」


 夫婦の寝室で新品のベッドに腰掛ける彼女はうつむいていて、どんな顔をしているのかわからない。


 まじまじと見ても、長くさらさらした銀髪が顔を隠してしまっていて、細い肩が視線に反応してわずかにゆらいだ以上の反応はうかがえなかった。


「もう、長い時間が経ってるじゃないか。妊婦の腹が大きくなって、子が生まれ、その子が歩き始めるぐらいの時間が経ってる。……全部『いまさら』だろう? お前は努力したんだから、この世界で幸せになって、なにが悪い?」


 言葉が空虚に耳をすべっていく。


 手酷い裏切りにあったような気持ちだった。


 けれどたぶん、裏切っているのは彼女の方ではなくて━━


「お前はこの村の希望で…………私の憧れる、強い戦士だ。お前ならきっと、大攻勢スタンピードがあったって、村を守れる。お前さえいればきっと、この村は幸せに、繁栄できるんだ」


 ━━俺。


 顔を上げた彼女の紫色の瞳が真っ直ぐに俺を捉えた時、それまで噴火のごとき勢いで口をついて出ようとしていた言葉のすべてが消え失せた。


 彼女は真剣だった。そこには『強く理知的で冷静な戦士』である彼女が見せたことのないような、弱々しささえあった。


 俺は俺の裏切りを知った。


 この村のために無償でこれだけ尽くして、この村をこれだけ繁栄させて、彼女たちの憧れを集めた。


 それはただ親切に親切で返しただけだった。

 でも、俺の恩返しは過剰だった。


 過剰な恩を返されたあとには『期待』という名のさざなみが立つ。

 そのさざなみはだんだんと人の心を押し広げていき、『確信』という名の新しい支流を作り上げた。


「きっと、私たちならうまくやっていける」


 彼女はどちらかというと口下手で、発言のたびにちょっと引っかかるような間がある方だった。

 俺になにかを言う時も、一秒ぐらいジッとこちらを見て言葉を探すようにしたあと、たどたどしく、言葉少なく発するばかりだった。


 なのに、今の彼女の言葉は水が川を流れるように、とめどなく辞めどなくあふれてきて、俺を呑み込もうとしていた。


「村を幸せにしてくれ。生まれた赤ん坊たちの未来を奪わないでくれ。どうかお願いだから、『元の世界』なんていう叶うかどうかもわからない夢に振り回されて現実を見失わないでくれ」


 現実?


 わからなかった。


 モンスターがはびこり、人々は小集落に点在し、武器を持って戦う。

 腕力は筋肉の太さと長さではない別な法則によって算出されている。大の男を力押しで投げ飛ばすような細身の女性だっている、この世界。


 ここが現実なものか。この世界はファンタジーだ。元の世界こそが俺にとって唯一、『現実』と呼ぶべき場所で━━


 そこに帰る方法は、わからない。


 …………ああ、そうなのか。


 この世界はもう、俺の住まう、唯一の『現実』だった。


『異世界に行きたい』と声高に叫ぶやつがいたらどう思うか、という話だ。


 そいつがなんの縁もなければ『おかしな人がいるものだ』と距離をとりかかわらないようにするだろう。


 でも、親しい人が、そんなことを言って、今、目の前にある『現実』をないがしろにするなら……


 必死に、止めるだろう。


 ちょうど、今、目の前にいる彼女のように。


「頼む。……なあ、私は、その『幻想』に劣るのか? 目の前にいるのに。こんなにも、お前を愛しているのに。私を捨てるほど、その『幻想』は居心地がいいのか? そんなものに、私は……」


 涙を浮かべて揺れる紫色の瞳は、アメジストのようだ。


 ……俺は、元の世界で、アメジストというものを知っていて、それを画像で見たことはあるけれど、実際に目にしたことはない。


 高校生だった俺に宝石なんか縁がないものだった。


 でもそれが二月の誕生石だと知っているのは、初めて恋人ができた俺が舞い上がって、いつか買ってあげたいなと、彼女・・の誕生石を調べたからだ。


 宝石のように美しい瞳を持つ人が目の前で俺を引き留めてくれる。

 こんなに報われることはない。


 でも。


 俺は、この宝石めいた美しい人を、心から愛せない。


「ごめん。俺は村を出る」


「どうして!?」


 あなたに幸せになってほしい。あなたを本当に愛せる人と添い遂げてほしい。

 だってあなたは、俺が初めてこの世界で出会った『人』だったんだ。

 あなたに会ったことで、俺は泣き崩れるぐらい安心した。あなたが連れてきてくれたこの村での暮らしは、俺の心を満たしてくれた。


 だから、気付けた。


 心が満ちれば満ちるほどに、一箇所に『欠け』があることがはっきりしてきた。


 その『欠け』を埋めることは誰にもできない。


 ……だから、口に出すのは、これだけにする。


「俺はあなたを愛せないから」


 作り上げた支流を閉ざしてしまうことが、きっと俺にできる責任の取り方なのだろう。


 心が通じ合っている記憶だけあると、俺みたいにいつまでもいつまでも想いを残してしまうから。

 すっぱりと『終わった』とわかることだけが、心を救って、人を次に進ませる。


 だから俺は、元の世界に帰りたいんだ。


 彼女と並んで初日の出を見たい。


 あるいは━━もう、彼女の横に俺がいないのだと、確認したい。


 それだけのために、帰る。


 それは、目の前にある恵まれた現実を失ってもいいほどの価値がある。……少なくとも、俺にとっては。

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