9.7 リッシュモンとイングランド:ヘンリー五世の宣戦布告

 ブルゴーニュ無怖公の横暴がまかり通ったのは、狂王の赦免と王妃の寵愛、宮廷の足並みの揃わなさが一因だが、その背景にはイングランドの支援があった。


 1415年、イングランド王国ランカスター王朝の第二代国王ヘンリー五世は、フランス王位を要求して再び侵略を開始した。


 英仏・百年戦争は長らく休戦状態で、イングランドの目下の敵はスコットランドだった。

 両国は長年の宿敵だったが、その一方で、フランスとスコットランドはずっと友好国だった。


「余はフランスを愛しているが、スコットランドの背景にはいつもフランスがいる。スコットランドに手を掛けるには、フランスを手に入れなければ始まらない。フランスを攻撃せよ! フランスを占領すれば、スコットランドは戦わずして征服できる!」


 ひどい理屈だが、迫真の演説にロンドン宮廷は酔いしれた。


「スコットランドは宿敵だが、北の荒地を征服したところで何の旨味もない。だが、フランスを見よ。温暖な気候と肥沃な大地、海も川も山も平野もある。素朴な村人、洗練された市民、太っている司祭、自己犠牲を顧みない忠実な騎士、美しくて淫らな王妃と王女、老い先の短い国王と繊細な王子……、これほど征服しがいのある美味しそうな王国が他にあるだろうか!」


 10月25日、アジャンクールの戦いでイングランド軍は数的不利を覆して圧勝した。

 ヘンリー五世があるひとりの騎士に追い詰められる一幕もあったが、自信家の若い王にとって「戦場の危機」とはスパイスみたいなものだった。


 この戦いで、フランス軍騎士の多くが捕虜となった。

 多すぎる捕虜は行軍の足手まといになるため、ヘンリーは身代金を見込める金持ち騎士を残し、貧乏な騎士を近隣の村の納屋に閉じ込めて焼き殺してしまった。

 リッシュモンは負傷したが生き残り、他の虜囚とともにロンドン塔に幽閉された。



***




 リッシュモンは、イングランド王太后となった実母と16年ぶりに再会した。

 母子が生き別れたとき、家族の中で次男アルテュール・ド・リッシュモンがもっとも悲しんでいたと伝わっている。


「母上、私のことを忘れないでください。大人になったら絶対に会いに行くから、それまで忘れないで……」


 母は、子供よりも王妃の座を選んだが、愛情がなかったわけではないのだろう。

 念願のイングランド王妃になったものの、ヘンリー四世との間に子を授からなかった。

 継子ともうまくいかず、ヘンリー五世が即位するとますます冷遇されるようになった。

 リッシュモンが虜囚となって渡英すると、王太后はブルターニュ公妃時代を懐かしんだのか、あるいは贖罪の気持ちからか、実子アルテュールをイングランド宮廷に招き入れて側近にしようと画策した。


 ある日、王太后が主催する舞踏会にリッシュモンを招待した。

 王太后はお気に入りの侍女・侍従・客人に祝福されながら感動的な母子再会を期待していたのだが、リッシュモンは王太后の存在を無視し続けた。

 主催者に挨拶すらしないのに、下っ端の女中に声をかけている光景を見ると、王太后はついにぶち切れた。

 王太后が怒りの形相で玉座を離れると、ただならぬ気配を感じて人波がさっと引いた。

 舞踏会の客人たちが固唾をのんで見守る中、王太后は震える足取りでリッシュモンに近づくと、「ひどい子ね! この母を忘れたというの?」と叫び、渾身の力でひっぱたいた。


「約束したでしょう、わたくしは片時もあなたのことを忘れなかったのに!」


 リッシュモンは母にされるがまま、ぼかすかと叩かれていた。

 結局、舞踏会がおひらきになるまで一言も口をきかなかったらしい。


 リッシュモン母子とは少し違うが、私も歪んだ母子関係に生涯悩まされた。

 思うに、幼いころはただ母が恋しかったのだろう。

 だが、成長して「大人の事情」を察するようになると——ヘンリー四世のイングランド王位簒奪、母の不貞、父の謀殺疑惑、兄が相続するブルターニュ公位の簒奪容疑など——母への思慕の念は、愛憎の入り混じった複雑な心境へと変わるものだ。

 まじめで潔癖な人間ならなおさらそうだろう。


 王太后は、息子の心の機微を知ってか知らずか、過去のヨリを戻そうとした。

 継子であるヘンリー五世に「息子をフランスへ返さないように」と頼んだ。

 ヘンリーもまた、王太后とは別の思惑で、血の繋がらない義弟リッシュモンをイングランドに残して臣従させたいと考えていた。

 ブルターニュ公兄弟を味方につければ、フランス征服はさらに有利になる。


 ヘンリーはリッシュモンを懐柔しようと口説き続けたが、リッシュモンは心を閉ざし、かたくなな態度を崩さなかった。

 金銭、領地、称号、仕官の誘いや高価な贈り物もことごとく拒絶した。

 無理やり金品を与えれば、さっさとロンドン塔の虜囚仲間や門番にあげてしまう。


「フランスへの忠誠心か、それとも仲間意識か?」


 イングランド王家とリッシュモンとの深い縁を強調して、それとなくフランス陣営で孤立するように仕向けても、なかなかイングランドになびかなかった。


「やれやれ、きょうも手応えなしか」


 ロンドン塔へ帰るリッシュモンを見送りながら、ヘンリー五世は腹心の実弟ベッドフォード公と次善策を話し合っていた。


「まるで心が読めない。何があいつをそうまでさせる?」

「女が使えないなら男で試してみましょうか」

「また良からぬ策を考えているな?」


 ヘンリーは半ば呆れたように、策謀に長ける弟の腹を探った。

 ベッドフォード公は、詳細について明かさず、「イングランドのため、そして兄上……いえ陛下の大望のためならば、あらゆる策を献上いたします」と頭を下げた。


「おもしろい。あの鉄面皮が崩れるさまを見てみたい」

「御意のままに」


 ベッドフォード公ジョンは、英仏間を往来しながら権謀術数を駆使して兄の治世と野望を支えた。私からすれば忌々しい相手だが、イングランド宮廷の第一人者である。


 1420年は大きな戦いこそ起きていないが、水面下はいつになくかまびすしい。


 ヘンリー五世とシャルル六世の五女カトリーヌ王女の結婚にともなうフランス王位継承、そして唯一の王太子シャルルを廃嫡する陰謀と並行して、ブルターニュでもうひとつの謀略が進行していた。







(※)ヘンリー五世の宣戦布告は、1414年5月にレスターの議会でおこなわれたエクセター公(ヘンリー五世の叔父)の演説を元にアレンジしています。原文ではスコットランドをディスりながらフランスの豊かさを説き、他のヨーロッパ諸国にも言及していて非常に興味深いです。


▼演説原文

Si la France, avait-il dit en s'adressant au roi, est la nourrice de l'Écosse, si les pensions de la France sont le soutien de la noblesse écossaise, si l'éducation des Écossais en France est la source de la pratice and pollicie en Écosse, attaquez-vous à la France, et la puissance écossaise sera abattue. Si la France est vaincue, de qui attendrait-elle du secours ? Du Danemark ? Son roi est votre beau-frère. Du Portugal ou de la Castille ? Les souverains de ces nations sont vos cousin-germain et neveu. De l'Italie ? Elle est trop loin. De l'Allemagne et de la Hongrie ? Elles vous sont unies par des traités. Si donc vous vous emparez de la France, l'Écosse est soumise sans coup férir. N'oubliez point, d'ailleurs, que l'Écosse ne vous offre qu'un pays dépourvu de toute richesse et plaisance, un peuple sauvage, belliqueux, inconstant, tandis qu'en France vous trouverez une contrée fertile, plaisante et pleine de ressources (plentifull), un peuple poli (witty) et doux (of good ordre), avec de riches cités, de magnifiques villes, d'innombrables châteaux, vingt-quatre duchés puissants, plus de quatre-vingt provinces abondamment peuplées, cent trois évêchés fameux, plus de mille gras (fat) monastères, et quatre-vingt-dix mille paroisses (and parishe churches, as the french writers affirme, XC thousand and mo).

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