9.6 リッシュモンとフランス宮廷(2)

 ブルゴーニュ無怖公が失脚し、王太子がリッシュモンを正騎士に叙任した同じ年。

 10歳の末弟シャルルとマリー・ダンジューの婚約が決まった。おそらく、反ブルゴーニュ勢力の結束を固めるため、そして幼い私の身辺を守るための政略だろう。婚約を名目に、私はアンジュー公夫妻に預けられることになった。

 アンジェ城到着に合わせて、王太子から祝いの贈り物が届いた。私はアンジュー公妃ヨランド・ダラゴンに連れられて使者アルテュール・ド・リッシュモンと対面した。


「公妃もお人が悪い」

「あら、何のことかしら」

「王子がすでにご滞在されているとは聞いてませんでした」


 私は王家の末弟だから、王位を継承するとは見なされていなかった。

 フランス王家と関わりの深いサン・ドニの聖職者の記録によると、父王は末王子に関心がなく、母妃イザボーは権力と縁のなさそうな子を冷遇していた。

 物心がつく前、母を追いかけて湖に向かう途中で、ブルゴーニュ公に誘拐されたときも、母は私を案じるどころか湖畔で王弟と相引きしていた。

 兄の王太子はそのことを嘆き、何度か母と衝突していたらしいが、リッシュモンはどこまで知っていただろう。


「申し遅れました。私はブルターニュ公の弟、アルテュール・ド・リッシュモン伯と申します」


 私とリッシュモンの浅からぬ関係を思うと、この時点で出会っていたことは奇跡だ。

 無怖公がリッシュモンを宮廷へ送り込み、王太子がリッシュモンを気に入って正騎士に叙任し、無怖公が失脚し、私とマリーが婚約すると贈り物が届いた。王太子に仕える者はごまんといるだろうに、よりによってこの男が使者に選ばれたのだから。


「王太子殿下から王子へ手紙を預かってまいりました」

「兄上から?!」


 後年のことを思うと、この時のリッシュモンはずいぶん優しかった。

 私が幼かったからだろうか。


「字は読めますか?」

「うん!」

「では、私が読み上げるよりも、王子が手づから読んだ方が感動もひとしおでしょうから、どうぞお受け取りください」


 私は10歳になったばかりで、礼拝堂の長椅子に腰掛けるとわくわくしながら封蝋を破り、手紙を開封した。

 兄の手紙は子供には少し難しかったが、私は自分が忘れられていなかったことが嬉しかった。


「王子、どうされましたか」

「えっ……」


 確かに嬉しかったはずなのに、ふいに切ない感情がこみ上げてきて、気がつくと涙が流れていたらしい。リッシュモンはヨランドとの会話を中断すると、膝をついて私の頬をぬぐった。ヨランドも異変に気づき、優しく寄り添ってくれた。


「リッシュモン伯、王太子殿下からの書簡には何が書かれていたのですか」

「内容は把握してません。プライベートな話でしょうから立ち入ったことまでは……」


 私は鼻をすすりながら、ふるふると首を横に振った。


「何でもない。兄上からの手紙が嬉しかったから」


 本心だったが、ふたりは私の心に巣食う孤独を感じ取ったのだろう。

 ヨランドはリッシュモンを引き止め、リッシュモンは帰還を先延ばしにすると、「シャルル王子の兄・王太子の名代」という口実で婚約披露宴まで付き合ってくれた。


「すばらしい祝宴でした。王太子殿下に『王子は健やかにご成長している』とお伝えします」

「もちろん兄上にも感謝しているけれど、あなたにも御礼を言わせてほしい」


 別れの挨拶を交わしながら、私は礼を伝え、遠征先での武運を祈った。

 今にして思えば、峻厳な性格のリッシュモンが優しい気遣いを見せた貴重な一幕だった。きっとあの男にも、兄の手紙を心待ちにしてひそかに涙を流した日があったのだろう。


 初対面では10歳と20歳だったが、次に会うのは11年後である。


 おそらく、この時のリッシュモンは、私を通じて幼いころの自分の面影を見たのだろう。私もまたリッシュモンに兄の面影を重ねていたのかもしれない。

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