5.8 服従の条件(2)

 母妃イザボー・ド・バヴィエールの望みは、愛人関係にある無怖公ブルゴーニュ公を宮廷に復帰させることだった。

 愛人の存在は褒められたことではない。

 だが、政略結婚が強制される貴族社会では、婚姻後の恋愛には寛容でもあった。

 決して報われない恋物語ロマンスは、騎士道物語と並ぶ宮廷文化の華だった。


「母上の望みは分かりました。分かりましたから!」


 母の指先がするりと内腿の奥へと忍び寄ってくる予感がして、これ以上のぼって来ないように——同時に非礼にならないように、母の手を優しく包んでから押しのけた。


「うふふ、そんなに慌ててどうしたのかしら」

「べ、別に慌ててなんか……」

「お顔が真っ赤よ?」


 鏡を見なくてもわかる。

 狼狽して、顔が異常に熱くなっていた。


「うぶなのねぇ。可愛いわ」

「冗談が過ぎます!」

「あら、わたくしは構わなくってよ」


 母は無邪気に笑っていた。

 どこまでが冗談で、どこまでが本気なのか読めない。兄のことも、何もかも。


「母上のお気持ちはお察しします。ですが、アルマニャック伯は許さないでしょう」

王太子ドーファンの権力があれば負けないわ」


 たとえ、王太子の権限で追放を解除してもブルゴーニュ派とアルマニャック派の遺恨は解決していない。

 宮廷の内紛は再燃し、これまで以上に激化するだろう。


「何を怖れているの? あの年寄りがブルゴーニュ公の復帰を許さないと言うなら、元凶のアルマニャック伯を解任して追放すればいいじゃないの。どうせ老い先の短い年寄りだもの、事故でも病気でも何だっていい。みにくい老いぼれが死ねばアルマニャック派は消滅するわ!」


 母は、ブルゴーニュ公の復帰案を興奮気味に語った。


「そのような恐ろしい計画に協力できません」

「怖れないで。王太子は命じるだけでいい。わたくしとあの方が上手く取り計らうから……」

「お止めください!」


 私は声を荒げた。

 現在の宮廷はアルマニャック派が主流だ。王太子を取り巻く護衛も同じく。

 身内や主君や従者を、ブルゴーニュ公の謀略で亡くした者が大勢いる。

 アルマニャック伯ひとりを亡き者にして済む話ではないのだ。


「ブルゴーニュ公追放から四年。暴動を煽動した罪が許され、禊が済んだとしても!」

「ええ、もう充分だわ」

「オルレアン公暗殺の件が終わっていません」


 一般的に、王族を殺した者は大逆罪というもっとも重い罪に処される。

 この物語を読んでいる読者諸氏は、八つ裂きの刑を知っているだろうか。

 四肢を縄で縛り上げて牛や馬に引っ張らせて、生きながら損壊させるむごい刑罰だ。


 ブルゴーニュ公がやった殺人はこのようなむごい刑に相当する。

 この刑罰について論じたり、ましてや命じるなどできればしたくない。


 だが、父を殺されたシャルル・ドルレアンは被害者遺族として「ブルゴーニュ公を断罪すべし」と弾劾状を送っていた。

 ブルゴーニュ公が宮廷に復帰するならば、この大罪を蒸し返さなければならない。


「気にしなくていいわ。シャルル・ドルレアンはロンドン塔に幽閉中の身よ。裁判を起こしたくても出廷できないのだから」

「オルレアン公の遺族でしたら、今もこの宮廷にいますよ」


 侍従長を務めるデュノワ伯ジャンは、オルレアン公の庶子だ。

 今もこの部屋の外で待機しているはずだ。もしかしたらこの会話も聞こえているかもしれない。


「デュノワ伯は私の従兄で友人で幼なじみです。彼の意思を軽んじることはできません」

「いい加減にして!」


 母はうんざりするように金切り声をあげた。

 私の言葉を遮りながら「あなたは王太子でしょう! けがらわしい私生児の言いなりにならないで!」と叫んだ。


「ジャンのことをけがらわしいですって?」


 物心がついたとき、私のそばには父も母も兄弟もいなかった。

 代わりに、ジャンがいつも寄り添ってくれた。私にとって大切な友人であり、従兄であり、従者であり、もっとも心を許せる身内だ。


 そのジャンを「けがらわしい私生児」と呼ばれて、かっとした。

 生まれて初めて憤怒を感じたのかもしれない。


 ジャンは快活な性格だから悲壮感がないが、複雑な生い立ちを背負っている。

 孤児となったジャンを引き取るときに「義務を果たしなさい」と言ったオルレアン公夫人。

 病に倒れた王太子の代わりに参戦して虜囚となったシャルル・ドルレアン。

 彼らを支えようとしたアルマニャック伯。


 それぞれにどのような思惑があるにしても、私は彼らに同情を禁じ得ない。

 彼らに降り掛かった災難は、王家に一因があるのだ。


「本当にけがらわしいのは……」


 私は言いかけた暴言を飲み込み、冷静になるように努めた。

 深呼吸をしながら考えた。

 母は、私がどのような気持ちでいるか考えたことはあるのだろうか。


 ——王太子たる兄上がどんな気持ちでいたか考えたことは?

 ——ならば、わたくしの気持ちを考えたことはあるのかしら。


 兄上の気持ち。母上の気持ち。私の気持ち。


 ——あなたは王太子でしょう!

 ——言いなりにならないで!


 母の言う通りだと思った。

 私は王太子で、父の代わりに国王代理としてこの国を統治しなければならない。

 自分が未熟であることは自覚している。

 それでも運命からは逃れられない。


「母上のおっしゃる通りです」


 そう言い放つと、母の瞳がたちまち潤んだ。


「私も覚悟を決めました」

「ああ、王太子! この母の思いを分かってくれたのね」

「母上の望みが叶うように最善を尽くします」


 すべてが上手くいくように。

 私は、私情を捨てなければならない。




***




 1417年7月14日。

 私は王太子として「国王代理」の名のもとに、母でもあるフランス王妃イザボー・ド・バヴィエールの宮廷追放を宣言した。


「本当によろしいのですね」


 大法官アンリ・ド・マルルが念を押した。

 大法官は司法のトップで、王印を預かる役目を担っている。

 王命といえど、王の個人的な私情でむやみに発令できない仕組みになっている。

 王の直筆署名サインと王印がそろって、はじめて「王の命令書」になるのだ。

 宰相や大法官など重臣の立ち会いで、粛々と公文書が作成された。


「私は見込み違いをしておりました。王太子殿下は存外、図太い神経をお持ちだ」


 宰相アルマニャック伯がそんなことを言った。


「図太い? 私が?」


 こう見えて、苦悩の末に下した決断だ。

 私が唇を噛んでうつむくと、宰相は「褒めているのですよ」と言った。


「数年来、王妃陛下は宮廷闘争の元凶でした。醜聞と謀略を知っていながら、王妃陛下を止められる者は誰もいませんでした。殿下の兄君たちさえ出来なかった決断をよくぞ!」


 褒められても、ちっとも嬉しくなかった。

 しかし、こうすることが誰にとっても一番良いと考えた。


「母上も、ブルゴーニュ公も、アルマニャック伯も、みんなが納得できるようにと思ったんだ」

「ええ、分かっておりますとも」


 父は精神を病んでいる状態だ。

 母の奔放すぎる行動を一方的に責めるのは酷だと思う。

 母とブルゴーニュ公が愛し合っていて離別がつらいならば、宮廷の外で逢瀬を重ねればいい。

 王妃追放の舞台裏にはそのような思惑もあった。


「ひとつだけ言っておくけれど、母上はみんなが考えているような非情な御方ではないよ」

「左様ですか」


 アルマニャック伯は、同意してはくれなかったが上機嫌だった。


(みんな、母上のことを誤解してるんだ……)


 姉たちとの茶会に乱入した母は、差し入れを侍女に持たせていた。

 血なまぐさい湯気の立つあの皿は、塩漬けした臓物と血と脂身の腸詰めヴルストだった。

 母の生まれ故郷・バイエルンの郷土料理である。


 母は非情ではないが、その愛情はいびつで独善的でトゲがあった。

 情を交わすには、互いに血を流す覚悟が必要だった。







(※)王太子になって二ヶ月目に母親追放…

(※)1980年代に出版されたイザボー・ド・バヴィエールの伝記を読了。幼いシャルル七世が…、少なくとも今の基準なら確実に性的虐待とみなされることをされていて地獄でした。乳幼児期のことで本人は覚えてないと思いますが、深層心理に影を落とす一因になったのではないかと。

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