4.9 宮廷の洗礼(3)狂人の部屋

 私は王宮で生まれたが記憶にない。初めての王宮である。

 ある程度の緊張感は、はじめから覚悟していた。

 心身を引き締めるのは悪いことではない。

 しかし、母イザボー・ド・バヴィエールの予期せぬ出迎えのおかげで、悪い意味で緊張感が高まった。

 帽子の一件は、母子の戯れのようにも、王太子が臣下の前で恥をかかされたようにも映っただろう。一部始終を目撃した者に、母子の力関係を印象づけた。


「失礼いたします」


 シャステルが、母から奪い返した帽子をかぶせてくれた。


「母君の振る舞いを、気にする必要はありません」


 形を整えながら、小声でそう言った。


「気になっても、気にする素振りを見せてはいけません。臣下の前では堂々となさいませ」

「うん、分かってる」


 私はぎゅっと口元を引き結び、うなずいた。

 いつの間にか、シャステルの背後に初老の男が立っていた。

 シャステルは私の身なりを整えると、かたわらに退いた。


「ベルナール・ダルマニャックと申します」


 初老の男はうやうやしく頭を垂れ、シャステルが補足した。


「アルマニャック伯は、国王陛下と亡き王太子殿下から信任あつい宰相殿でございます」

「僭越ながら、宮廷の差配を取り締まっております」


 宰相アルマニャック伯は、私の手を取って軽く口づけると顔を上げた。


「略式で失礼いたします。正式なご挨拶はまた後ほど」


 一見すると好々爺に見えるが、瞳の奥は眼光がするどい。

 聞けば、知略に長けた元軍人だという。

 無怖公ブルゴーニュ公は王妃と結託してパリの宮廷を支配したが、アルマニャック伯は謀略に屈するどころか対抗勢力を作り上げた人物だった。


「シャステル隊長」


 アルマニャック伯はシャステルに何か耳打ちし、シャステルの指示で数名の護衛が持ち場を離れた。

 何だろうと思っていると、「無作法ですが、歩きながらご説明いたします。さあ、まいりましょう」と促された。

 シャステルが先導し、私とアルマニャック伯が並んでついていった。


「当初の予定では、王太子殿下の城館にご案内して、今宵はゆっくりとくつろいでいただこうと考えておりました」


 シャステルから予定を聞いているから知っている。

 私は宮廷のしきたりにうとい。

 王太子の私室ではなく、専用の城館があることにまず驚いた。

 ゆっくりくつろぐと言っても、生活面を担当する侍従・侍女と顔合わせをするため、私が予定から解放されるのは夜になる。

 翌日は宮廷入りして家臣団と面会し、貴族たちから臣従儀礼を受ける。


「今日は予定を変更しましょう。今から、王太子殿下の父君・国王陛下に面会していただきます」


 母に続いて、今度は父との対面である。

 慌ただしくて心の準備をするいとまもない。

 謁見の間ではなく父の私室へ向かっていると聞き、私は思わず「母を避けるためですか」と言ってしまった。


「はっはっは、王太子殿下はお若いがなかなかするどい。見どころがありますぞ」


 アルマニャック伯は妙な褒め方をした。皮肉なのかもしれない。

 さきほどの母の態度から、宰相を毛嫌いし、父を避けているのは明らかだった。私はもうひとつ質問をした。


「謁見ではなく、面会ですか?」

「恐れながら、近ごろの陛下は公式の場で謁見行事をできない状態です」


 父の病状は人づてに聞いている。

 心を病み、奇行を重ね、今では現実が見えていないらしい。


「それほどお悪いのですか?」

「ご自分の肉体はガラスでできていると思い込み、昼も夜もベッドから離れようとしません」

「ガ、ガラス……?」

「誰も触れるな、近づくなと命じられてますが、殿下ならもしかしたらと」

「それは一体どういう……」

「殿下ご自身が、その目で見てご判断ください」


 我が父ながら、痛ましくおいたわしいことだと思う。

 だが、「身辺警護は万全ですから、どうかご安心ください」と付け足されて、私はにわかに恐ろしい気分になった。

 あまり表沙汰になっていないが、父の奇行は過去に何度か流血沙汰を引き起こしているのだ。


 父王シャルル六世は狂人王ル・フーとあだ名されている。

 もし、その父の逆鱗に触れたら、きっとただでは済まないだろう。

 安心するどころか、心配と恐怖がこみ上げてきた。

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