4.8 宮廷の洗礼(2)小悪魔な母

 幼い頃、母の姿を夢想していた。

 物心がついた時には修道院にいたから、一般的な母親がどういうものか知らなかった。

 身近にいる女性は修道女ばかりで、そのような環境が影響したのだろうか。


「私の母上はフランス王妃なんだって。ラドゴンドさまみたいな人かもしれないよ」


 聖人ラドゴンドは元フランス王妃で、麦畑の奇跡を起こした聖なる女性だ。

 昔話を聞きながら、母の面影を重ねた。


 月日が流れ、私は14歳になり、運命のいたずらで王太子の身分が転がり込んできた。

 記憶にない王宮に連れ戻され、到着早々、母と対面した。


「んふふ、びっくりしちゃったかしら。田舎育ちの王太子さまには刺激が強すぎたかしら?」


 私は心の準備もできないまま、ただ呆然と立ち尽くしていた。

 母は、私を取り巻く護衛をまったく気にする素振りも見せず、つかつかと靴音を響かせながら近づいてきた。


母上ママンに会いたかったのでしょう? 兄上宛てのお手紙に書いてあったものねぇ」


 そう言いながら、くすくすと笑っている。

 母はよわい40を過ぎていたはずだが、優美な目元と赤い唇、華奢な顔立ちは無邪気な少女を思わせた。その一方で、若き日に父王や王弟を虜にした豊かすぎる胸がアンバランスな魅力を醸し出していた。


「さあ、お望みどおりに来てあげたわ」


 母の瞳の奥、エメラルドの輝きにまぬけな王太子の顔が映っていた。

 緑色の瞳は、魔性を宿しているといわれる。人を魅了し誘惑する。だから、その深淵を覗いてはいけない。囚われてしまうから。


 母の遠慮のなさに怖れをなしたのか、エメラルドの視線から逃れようとしたのか。目のやり場に困ったあげく、私は身を引いて後ずさりした。


「あっ……」


 今しがた馬車を降りたばかりで後がなく、かかとを降車用の踏み台に引っ掛けてよろけた。

 私はほんの少し内股なせいか、緊張すると足元があやうくなり、転びやすい。

 王宮に着いたばかりでろくに挨拶さえしていないのに、私は出迎えの家臣たちの前で失態を犯しそうになったが、母がとっさに私の外套コートを掴んだおかげで転ばずに済んだ。


「みにくい子ねぇ」


 母は小悪魔のような微笑みを崩さないまま、小声でそう言った。


「気の利いたメッセージひとつ言えないなんて、みっともない王太子さまだこと」


 母の洗礼は、まるで冷水のようだった。

 体も心も血の気が引いて萎縮していくのに、それでいて目の奥だけはじわじわと熱くなり、あろうことか次第に潤んできた。

 母と家臣たちがいるのだから、こらえなければならない。


「失礼しました。到着して早々、母上にお目にかかれるとは思わなかったので驚いてしまいました。出迎え、感謝いたします」


 どうにか取り繕って、母に謝意を述べた。

 よろけたときに帽子がずれたので、直す振りをして顔が見えないように深くかぶり直した。


「んふふ、長旅おつかれさま。わたくしは可愛い王子さまが大好きなの」

「はは……」


 母は何を考えているのだろう。

 どう反応すればいいのか分からず、私は戸惑っていた。


「ねぇ、可愛いお顔を見せてちょうだい」


 そう言うと、母は私の帽子を乱暴にはぎ取った。


 帽子と冠は、身分をあらわす装身具だ。

 自分よりも高貴な相手に対面するときに礼節として脱帽する。

 家臣が居並ぶ前で王太子の帽子を奪った行為は、重大な辱めを受けたに等しい。


 母は、あらわになった私の顔を見るなり、「こらえ切れない」と言わんばかりに吹き出し、けたけたと笑い転げた。


「ああ、可愛い! なんて可愛いのかしら!」


 母は、よくも悪くも無邪気な人だった。


「ようこそ王太子さま、ママンはあなたを気に入ったわ。たったひとりの王位継承者ですもの! もうどこにも行けないわよ。わたくしにはあなたしかいないの。心ゆくまで可愛がってあげるからお楽しみにね」


 母を揶揄した「淫乱王妃」という二つ名はあまりに生々しすぎる。

 私の母は、とてつもなく自分本位な小悪魔だった。




***




「恐れながら申し上げます」

「んふふ、なぁに?」


 私と母の間に割って入ったのは、宰相アルマニャック伯だった。


「下がりなさい。わたくし、醜い年寄りに興味ないの」

「そうはいきません。王太子殿下におかれましては、ご到着されたばかりでさぞお疲れかと存じますが、しきたりにのっとり、粛々とご挨拶を……」

「まだるっこしい! 不愉快だわ」 


 無邪気かつ邪悪。

 だが、小悪魔にも弱点があった。


「国王陛下がお待ちかねです」


 宰相の言葉に、母は一瞬で笑いを消した。


「親子水入らずで積もる話もございましょう。王妃陛下もご同行なさいますか」

「結構よ」


 そう言うと、くるりと私に背を向けた。


「覚えておきなさい。うるさい口がきけないように、いつか必ず首をはねてやるわ」

「恐れ入ります」


 母とアルマニャック伯の会話は、私の耳に入って来なかった。

 ただ、母は気分を害してここを立ち去ろうとしていることは分かった。


(さんざんからかって、もう行ってしまうのですか)


 私の内面には、思慕と恐怖がないまぜになった根の深い孤独が巣食っていた。

 いつも蓋をしているのに、母との接触で蓋が緩んでいたのだろう。

 辱めを受けたことも忘れて、私はすがるように「母上!」と叫んでいた。


「母上……母上……お待ちください。いつか会いたいと、ずっと思っていました」


 母は、私の呼びかけに応えなかった。

 もしかしたら、耳には届いていたが、心に届かなかったのかもしれない。

 母の歩みを止めることは叶わなかった。

 小悪魔な母は気まぐれで、もう私のことなど眼中にないようだった。


「お待ちください」


 去り際に、護衛隊長のシャステルが母を呼び止めた。

 母は、かたわらでひざまずいているシャステルを見下ろした。


「それをご返却ください」


 母は、私から取り上げた帽子を持ったままだった。

 なぜ持っているのか分からないとでも言いたそうに、しげしげと帽子を見つめ、おもむろに手放した。風に飛ばされてしまう前に、シャステルが帽子を捕まえてくれた。


「ださい帽子」


 母はそれだけ言うと、私の前から立ち去った。

 人前で恥をかかされたことよりも、笑みを消した母の横顔にぞっとしたことを覚えている。





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