第17話 日常の始まり

――何か言え。でなければ、彼はこのまま去ってしまう。


 その焦燥は、サナの胸を締め付けた。

 楽しかったのだ。カナタとの触れ合いが。卑猥なことばかり言われても、くだらない喧嘩をしても、カナタが居てくれれば、ただ今だけを感じていられた。他の嫌なことを考えずに済んだ。俯いてばかりだった日常とはかけ離れた、歳相応の気楽な時間を過ごせたのだ。

 降って湧いただけのささやかな時間。それが遠のいてしまうことが、サナはたまらなく寂しかった。


 経験のない寂寥感せきりょうかんを抱えたまま、サナは必死に考えた。けれど、引き留める理由が見つからない。

 見つからないまま顔を伏せ、虚ろな目で諦めた。

 こんなに心地良い時間は、自分には分不相応だったんだ、と。



「待ってよカナタ」



 そんな諦念からサナを引きずり戻したのは、オミの一言だった。気力の失せてしまった姉のすぐ後ろから、オミがカナタと目を合わせて問いかける。

 

「ロッカーの目星はついてるの?」

「いんや。まったく」

「真夏の東京で、また倒れないって言える?」

「正直自信なし!」

「胸張って言わないでよ」


 口をとがらせ鼻から息を吐いたオミは、カナタに向けて手を挙げた。 


「提案。ちょっと試したいことがあるんだ。だから、あの動画貸してくれない?」

「パルクールの?何する気だよ」

「編集したい」

「編集?」

「不要な所を切ってBGM付けて、人に見せれる形に整えてみたいんだ。ダメ?」

「いや、別に構わねーよ。それは俺も見たい」

「ありがとう。だからしばらくここに居て」

「…ん?」


 話の急変に、カナタは首を傾げた。


「作品イメージに本人の意見が欲しいんだよ」

「別にオミの好きにし…」

「とりあえず目的のロッカーが見つかるまででいいからさ」

「いや、俺は…」

「いいよね。姉ちゃん」

「え、あ、うん。スマホがあれば、とりあえず次の収入は確保できるし…」


 了承以外の言葉を聞き入れる気が無いオミは、カナタの口答えを封殺。「むしろ居て欲しいというか…」とゴニョゴニョ言う姉を無視して、オミは続けた。


「お金もない。行く当てもない。ロッカーの目星もない。倒れない自信もない」


 オミは和室から玄関へ近づきながら、一つづつ指を立て、カナタの不安要素をあげつらった。その全てを解決する手段が目の前にあることを、自信満々の笑顔でもって示す。


「ほら。ここを拠点にしてロッカー探せば万事解決じゃない?」

「いや、でも」

「じゃあ言い方変えるよ」


 そう言ったオミは、ズイと身を乗り出してカナタに迫った。目を白黒させる彼の目を至近で覗き込み、宣告する。


「うちが生活に困るのも、姉ちゃんが男にホイホイついてったのも、カナタのせいだと認めますか?」

「う!!」


 その一言は、カナタに深く突き刺さった。堪らず胸を押さえてる。


「認めますか?」

「オミ、だからそれは違うって…」

「姉ちゃんちょっと黙ってて。ここでそういう素直さ要らないから」

「ええ!?」


 何故かサナから反論が飛んでくるも、すぐさま一蹴いっしゅう。姉のためを思ってやってるのにこの正直者め、と。釈然しゃくぜんとしない思いを抱えつつも、オミは重ねて問い詰める。


「認めますか?」

「…認めます」

「じゃあ、責任取ってくれるよね」


 元から自分のせいと思っていた話だ。カナタとしては、その責に頷くのはやぶさかかではない。だが、付随する危険をかんがみたとき、留まり続けていいのかどうかを真剣に考えていた。


「ここに、居てくれるよね」


 頷けずに、カナタは黙り込む。

 ヤクザが自分の顔も素性も知らないことは確認が取れた。警察も、そこまで規模が大きくないことは推測できている。短い間なら問題は無いのかもしれない。

 だが、もし自分の素性がバレたとき、ここに居たことが明るみになれば二人にまで危険が及ぶだろう。


「ここに居てよ」


 重ねて告げられる嘆願。

 確かに、ここに居させてもらえば、継続して敵を探ることもできるし、ロッカーを探すのも命懸けではなくなる。メリットは非常に大きい。自分の状況を考えれば、選択肢など無いに等しかった。

 だが、それは自分だけのメリットだ。この二人には、何も利点がない。

 カナタは、不確定なリスクと限定的なリターンをはかりにかけきれずにいた。


「…やっぱり俺は」

「それにさ」


 結局カナタは、断るための口を開きかける。しかし、オミはオミでかたくなだった。最後にこれだけ聞いてくれと言わんばかりに、カナタの言をさえぎって続ける。

 その声色は妙に柔らかく、その視線はカナタを見ていなかった。半身になって後ろを振り返り、意地の悪い目で姉を見つめている。

 不安そうな顔で小首をかしげた彼女に笑いかけ、オミは告げた。



「姉ちゃん、カナタの食器とか歯ブラシとかパンツとか、買ってきちゃったみたいだし」



 その言葉に、カナタの思考が止まった。断ろうと開きかけた口を閉じることすら忘れている。

 その間抜け面のまま、ゆっくりとサナを向いた。

 カナタに見つめられたサナが、頬を染めてそっぽを向く。

 

「姉ちゃんの気遣い無駄にしたら、僕はそれこそ許さないよ」


 その二人の様子に、オミがニヤニヤと笑った。サナを見つめたまま動けなくなったカナタに、意図的に追い打ちをかける。


「返事は?カナタ」


 そうオミに問いかけられたカナタは、一瞬天を仰いだ後、下を向きながら深くため息をついた。


「お前、相当腹黒いな。オミ」

「誉め言葉と受け取っておくよ」

「心配すんな。間違いなく褒めてるよ」


 腰に手を当て笑うカナタに、オミも笑い返した。

 

 現状を深く考察し、リスクを鑑み、先を見据えて、己が首を絞める道を選び進める能力。それは、歳不相応なカナタの強さだ。

 しかし、カナタは決して大人ではない。理に徹することができるほど冷淡でもなかった。目の前の情に流され、方針を変える様。それを"柔軟"と捉えるか"惰弱"と捉えるかは、結果によるのだろう。


「しばらくの間よろしく。オミ」


 そう言ってカナタは、履いたばかりの靴を脱ぐ。


「うん。よろしく、カナタ」


 オミが掲げた手に、カナタは自身の手を打ち合せた。そのまま和室の中まで進み、ナップサックを下ろしてサナの前に立つ。

 歯を見せて笑い、カナタが言った。

  

「よろしく。サナ」


 その笑顔を向けられたサナは、目を細め、頬を染めて、口元に弧を描いた。


「…うん。よろしくね、カナタ」



 オミが後ろからカナタの腰を押し、サナはその横をすれ違ってキッチンへ向かう。3人の少年少女が、ひとつ屋根の下で屈託なく笑いあう光景が、そこにはあった。

 この先4ヶ月、彼らは運命共同体となる。

 たった4ヶ月。しかしそれは、彼らの人生を大きく変える、とても大切な4ヶ月だった。


 日の暮れた薄暗い住宅街。窓からは食卓の灯りが漏れる。その灯りの中で、カナタとオミは何でもない会話に興じ、サナは遅めの夕食を準備していた。 



「しかしあれだな」


 3人分の手作りハンバーグを卓上に並べるサナを見上げて、胡坐あぐらをかいたカナタが声をかけた。


「うん?」


 エプロン姿のサナが、膝立ちのままお盆を胸元に抱え首をかしげた。さらりと、細く艶やかな髪が耳元で揺れる。

 そんな可愛らしい様の少女に向けて、カナタはにこやかに笑いかけた。

 


「生活費困ってんのに男の私物買ってくるのは駄目女臭がプンプンするから気を付けようぜ」

「「……」」



 オミは座卓に顎を乗せ、バカを見る目でカナタを眺めた。

 間を置かず、サナの頭上にお盆が掲げられ。


 直後、カナタの頭と打ち合わされて固い音を奏でた。


「善意の忠告だろ!なんで叩くんだよ!?」

「うるさい馬鹿!!」

「ほんっと余計なことしか言わないよね、カナタは」



 夏休みに入ったばかりの7月下旬。カナタの家出から僅か3日目。

 古めかしいアパートの和室から始まったそれは。



 三人で紡ぐかけがえのない物語の、いしずえとなる。

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