第16話 絡み合う事情

「これカナタがやってるの!?」

「……すごい…」

「……」


 そんな感嘆の声を発した姉弟は、並んでカナタの携帯を覗き込んでいた。オミは目をキラキラさせて、サナは口元を手で押さえている。

 その画面には、カナタが分割して保存した動画の一つが流れていた。ヤクザの拠点を暴いて顔を確認した後、逃走開始から逃げ切るまでを切り抜いた部分。これなら肝心な所は一切映っていない、ただのパルクールムービーだ。

 高さの違うビルを飛び交い、配管や空調の室外機、貯水タンクを華麗に躱し、全くスピードを落とさないまま屋上を駆け抜けている。その非常識な光景に、姉弟が仲良く魅入みいっていた。


「パルクールって、こんなことできるんだ!?」

「…どんな神経してるのよ?」

「…………」


 特に、屋上から飛び出して僅かな足場を駆け降り、サナの目の前に着地するまでの短いシーン。ほんの10秒ほどの行程を、二人は何度も見返していた。

 カナタ視点のその動画は、とにかくリアルだった。高所の恐怖を遺漏いろうなく表現している。こんな高さから飛び降りる時点で、正気の沙汰ではない。だがそれ以上に、看板や出窓などの障害物を伝い、壁を蹴り、信号のポールで横向きに大車輪をかまし、ポールを離したと思えば空中で捻り一回転し、地表で完璧な着地を決めるその運動能力が、何回見ても人の所業ではなかった。


「カナタ!これ凄いって!!」

「…頭おかしいわよ。カナタ」

「………あのさ」


 姉弟は真逆の感想を尻の下へ向ける。それに対し、尻の下からは端的に現状を訴える声が響いた。


「…………そろそろ苦しいんだけど」

「黙りなさい変態」

「あ、はい」


 カナタは、サナとオミの尻に敷かれていた。比喩ではない。文字通り二人はカナタの背中に座っているのだ。ただの椅子と化した少年の頬には、真っ赤なモミジが咲いている。「一体何を間違えた…」と、カナタは首をかしげていた。初手から間違えていることに気付いていない。アホである。


 カナタをそんな状況へ追いやったサナは、横目でチラチラとその顔を伺っていた。尻に敷かれたまま涙目で首をかしげる様子は、動画の中で類稀たぐいまれな運動能力を見せつけている人物と全く一致しない。スケベなだけの、ただの中学生だった。

 サナは、ため息をついて背中の上から降りる。そのまま、カナタの顔の前でしゃがみ、目を合わせて聞き出した内容を確認した。


「それで?パルクールしてたら廃ビルでヤクザに見つかって追いかけられた、と?」

「パンツ見えてる」


 往復ビンタが炸裂し、サナが正座に座り直した。


「それで?パルクールしてたら廃ビルでヤクザに見つかって追いかけられた、と?」

「はい」

「渡れる屋上が無くなったから飛び降りた、と?」

「はい」

「それで、たまたま着地した場所が私の目の前だったわけね?」

「はい」

「屋上から眺めたおっぱいは、私のじゃないのよね?」

「はい?」

「何でもない。忘れて」


 サナが顔を赤くして目を逸らし、オミが横目でニヤニヤし、カナタは肘をつき背を反らせながらキョトンとした。自分以外の胸をカナタが凝視していたと考えると、どうにもモヤモヤするサナだった。

 どうせ私は貧乳よ、と。やさぐれた思考にキリをつけ、気を取り直す。


 カナタによる覗き魔宣言のあと、涙目のサナにさげすんだ目で見つめられ続けたカナタはついに観念。一昨日何があったかを語った。とはいえ全てではない。銃取引を目撃した1度目のランは、その一切を伏せている。

 しかし、サナもオミも、カナタの話を信じなかった。特に屋上から飛び降りた件。どれほど言葉を尽くしてもサナの視線の質は一向に変わらず、カナタは渋々と動画を一つ開示したのだ。

 百聞は一見に如かず。二人はカナタの言が正しいという証拠を見せつけられ、信じざるを得なかった。斜め上の真実とパルクールという技術の非常識さに、サナは溜め息をつくしかない。


「…不可抗力だったのも分かったし、スマホの件は本当に気にしなくていいわよ」

「いや、弁償する。そのせいでお前に風俗なんて選択させちまったんなら尚更だ」

「携帯の修理代であんなことしたんじゃないわ。単に直近の生活費が足りないのよ」

「そうなのか?」


 サナとカナタの会話が進んだのを見て、オミも動画鑑賞を切り上げた。カナタの尻の上に腰かけたまま、スマホをカナタに返して話に混ざる。


「普段はこの時間ってまだ働いてるもんね、姉ちゃん」

「え?マジで?」

「早くて19時、遅いと21時くらいだよね。帰ってくるの」

「うん。ディナータイムは効率いいから」


 良い時は時給で3千円近くになるの、と。年齢の割に高給取りだったサナにカナタが目をいた。となると、当然解せないのが今休んでいる理由だった。


「何?クビにでもなったのか?」

「違うわよ。働くのにアプリがいるの」

「アプリ?」

「食事の宅配なんだけど、注文を受けるのも報酬の確認も、全部スマホでやるのよ」


 へぇ~、と。カナタは全く知らない働き方に感嘆した。カナタの生まれ育った地方の片田舎では、まだ全く浸透していない新しいサービスだ。名前だけなら聞いたことはあるが、実際に従事している人から話を聞くのは初めてだった。


「金額は安定しないんだけど、週一回給料が振り込まれるから重宝してたの」

「そんな仕事あるのか。…ん?」


 カナタは、不意に感じた違和感に首を傾げた。

 仕事ができないのはアプリが使えないから。アプリが使えないのは携帯が壊れているから。携帯が壊れているのはカナタが驚かせたから。


「やっぱり俺のせいじゃねぇか!」

「だから違うってば、もう」


 結局カナタは頭を抱えることになる。その尻の上では、オミが自前のタブレットで他のパルクール動画を探し始めていた。


「あれ?オミの使ってるタブレットは配達で使えねーの?」

「これWi-Fi専用だから外で通信できないの。まぁ、うちWi-Fiもないけどさ」

「どうやって使ってんだよ?」

「向かいのビルの1階に入ってる喫茶店のフリーWi-Fi」


 ここまで届くんだよね、と。そう口にしたオミ。珍しくカナタが呆れる側に回った。

 ただ、アプリが入れられて通信ができれば、サナの携帯である必要はない。なら、現状一つあるじゃないか、と。カナタはサナを向いて提案した。


「俺の携帯は?」

「え?」


 呆けるサナに、カナタはオミから返してもらったばかりのスマホを差し出す。


「これじゃできないか?仕事」

「アプリさえ入れれば、だけど。…いいの?」

「電話に出なきゃ別にいいぞ」


 カナタはあっけらかんと貴重品をサナへ手渡した。おずおずと受け取ったサナは、その表情から他意がないことを察しつつも、変なトラップがないか不安になる。


「…スケベな画像は入ってない?」

「入ってるけど、それは別に見てもいい」

「全部消す」

「やめろってマジで!!」


 カナタはサナの手から携帯をひったくって、いそいそとバックアップを取り始める。その必死さに、サナは心底引いていた。

 よし、と。一頻ひとしきり必要な作業を終えたカナタは、もう一度携帯をサナへと渡す。受け取る少女の目は、汚物を見るようだった。

 同時に、オミがタブレットを充電するためにカナタの尻から退いた。身軽になったカナタは立ち上がり、机に広がっていた変装服一式をナップサックに仕舞い込む。


「スマホの方も弁償はするから」

「いいって言ってるじゃない。って、どこ行くのよ?」


 ナップの口を閉めたカナタは、そのまま玄関に向かった。外は既に暗い。何の用があって外に行くのか、サナには見当がつかなかった。


「一宿一飯貰ってんだ。これ以上迷惑かける気はねぇよ」

「…え?」


 しゃがんで靴を履き始めたカナタの一言に、サナは一瞬頭が真っ白になった。そんなサナの様子に気づかないまま、カナタは立ち上がって部屋の中に振り返る。


「金ないんだろ?長居するわけにもいかねぇって」

「お金ないのはカナタも同じでしょ!?食べ物も飲み物も買えないのに、どうする気よ!?」


 板張りのキッチンを挟んで問いかけてくるサナの必死さに、カナタは内心首をかしげた。が、それ以上に悩ましい現実を思い、あごをさすりながら眉根を寄せる。


「金はあるんだよ。どこにあるか分からないだけで」

「…何それ?」

「埋蔵金でも探してるの?」


 トンチのような言い回しに、姉弟が首を傾げた。それを見た少年は、照れたように頭を掻きながら笑う。


「いや、PCとか着替えとか財布とか、まとめてコインロッカーに預けたんだけどさ…」


 二人の視線に見つめられる中、カナタは腰に手を当て胸を張り、開き直って言い切った。


「どこのロッカーだったか忘れちまった」


 姉弟の目が冷え込んだ。


「「…バカじゃないの?」」

「うっせぇな!しょうがねーじゃん!初めての東京だぜ!?浮かれるだろ普通!!」


 田舎者丸出しの言い訳にオミが溜息をつき、サナは目を伏せ額に手を当てた。そういえば、と。少女がもう一つ気がかりだったことを確認する。


「昨日あんな体調だったのは…」

「徹夜で探し回った後だったんだよ!お前のファミレス以外で飲食も休憩もしてねぇよ!正直死ぬかと思いました!!」


 やけくそ気味に叫ぶカナタ。思いのほか浅かった事情に、しばしジト目を向けはしたものの、すぐに吹き出しサナが笑った。カナタとオミもつられて笑う。


 この空間が心地いい。

 それは、3人の共通認識だった。



 それを振り払い、カナタは告げる。



「見つけたら金持ってくるよ。その時に貸した携帯と交換ってことで」

「あ…」



 カナタの一言に、途端に現実に引き戻されたサナが、無意識に手を彷徨さまよわせた。

 急転するサナの内心をあらわすように、ぎこちなく、意味もなく。


 ただただ虚空を彷徨さまよった。

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