第15話 犬も食わない1
「カナタ。話があるの」
3人並んで帰宅した後、買ってきたものを整理したサナが、和室に入って早々に切り出した。その視線は座卓の向こうに向けられており、そこにはTシャツとGパンに着替えたカナタがうつ伏せで寝転がっている。
サナの声を受けたカナタは、その態勢のまま微動だにせず言った。
「ごめん。ちょっとメンタル整うの待って」
「…いつまで気にしてるのよ」
精神ダメージ著しいカナタの様子に、サナが溜め息をついた。
目を伏せる少女の様を
「ノーパンってのはな、女がやるからエロいんだ。男がやってもキモいだけなんだよ」
「自信満々に語ってるカナタが一番キモいわよ」
「いっそお前がやれよノーパンおっふ!」
サナは顔を赤くしてカナタを踏みつけた。ただのご褒美だった。
そんな二人の様子を、座卓の右側からオミが生暖かく見守っている。宿題の続きをしているのだが、年長者二人の様子に気を取られ全く進んでいない。
帰り道で、昨日何があったかを改めて詳しく聞いたオミは、姉がカナタに気を許す理由にも得心がいった。だからと言って少々砕け過ぎではとも思うのだが、どうもカナタの気取らない態度が、姉の心の壁を急速に侵食しているようだ。
「あ、でもノーブラはしなくていいぞ。どうせ分からんぎゃあ!!」
言い終わる前に、サナが飛び上がってカナタの背中を両足で踏みつけた。さすがに苦しかったらしく、カナタが咳込みながら文句を言う。
「死ぬ!死ぬってそれは!!」
「うるさい変態!!」
「仲いいね、お二人さん」
横向きになって腰を抑えながらサナを見上げるカナタ。眉を吊り上げながらカナタを見下ろすサナ。そんな年長者二人の様子を半目で眺めるオミは、冷やかしながらも姉の変わりように驚いていた。
オミの知る姉は、下ネタが苦手だった。こんな気軽なスキンシップもまずしない。だというのに、昨日会ったばかりの異性を相手に下ネタに付き合い、積極的に触れに行く。まさに劇的ビフォーアフターだ。
中々に信じがたい状況ではある。だが、カナタが相手だと不自然さが全くない。というか、下ネタを乱発するカナタから
オミは会話して1時間も経っていないカナタを、奇妙な生き物と断定していた。
それはそれとして、と。オミは二人のやり取りを眺め、大仏のような顔になる。身振り手振りを交えたそれは、どう見ても痴話喧嘩だった。ぎゃあぎゃあと喧しいったらない。
「そのサイズじゃ、元からブラなんか要らねーだろ!」
「あ…」
その一言にオミが頬をヒクつかせ、サナは俯いてプルプル震え出した。何かしら反論が返ってくると思っていたカナタは、想定外の様子に目を白黒させている。
「…え?あれ?マジでねーの?サイズ」
「…余計なことしか言わないね。カナタは」
呆れたオミの呟きを尻目に、サナが涙目で顔を上げた。
「バカ!アホ!変態!!」
「いって!ゴメン!ごめんってば!!まさかホントに無いなんて思わねーって!!」
「うるさい!!逃げるな!!そこに直れ!!」
「あれ?サイズないってことは…、お前ノーブラが基本なの!?小学生か!!?」
「その卑猥な口を閉じなさいよ!!!」
逃げ惑うカナタにサナが平手打ちで襲い掛かった。犬も食わない喧嘩を尻目に、オミはキッチンへと避難。冷蔵庫から牛乳を取り出してコップに注ぎ、どったんばったんと喧しい二人を
割と本気で怒っているようだが、姉のそんな様子をオミは嬉しく思っている。声を荒げて怒る姿なんて何年ぶりだろう、と。
黙々と家事をするか、真顔で手を震わせながら仕事に行くか、無表情で他愛もない話をポツポツと交わすか。そんな姉しか、オミは知らなかった。
そんな姉が、仰向けの少年に馬乗りになって、その頭を叩いている。
「やめろって、はしたない!ノーブラで腕振り上げたら揺れちゃうでしょーが!」
「何が揺れるって!?言ってごらんなさい!!」
「ゴメン!全っ然揺れてねぇわ!揺れるほど無ぇわ!!」
「カナタぁぁああああ!!!!!」
歳相応な姉の姿に、オミは知らず笑っていた。
◆
「私ね。この服に凄い見覚え有るんだけど。カナタはこれが誰のか知ってる?」
「俺のです」
「そうよね。カナタのナップサックに入ってたもんね」
「はい」
「でね。この服着てた人に言いたいことがあるのよ。カナタにわかるかなぁ?」
「センスの良さに脱帽したんだな?わかるぜ。俺もこの服見た時」
「黙りなさい」
「あ、はい」
畳の上で窓をバックに正座させられたカナタは、仁王立ちのサナに問い詰められていた。痴話喧嘩はカナタのギブアップで終結したものの、怒りが収まらないのかサナの目は相当に据わっている。二人の間には座卓があり、卓上にはカナタの荷物が広げられていた。
現状サナが問題にしているのはその荷物だった。そして、カナタの荷物と言えば一つしかない。
そう。変態服だ。間違えた。変装服だ。
「話見えないけど、これが何なの?」
サナの後ろからひょいっと顔を覗かせたオミが、そう言って変態服を手に取った。それを見たカナタが取り急ぎ忠告する。
「やめとけってオミ。汗びたのままナップに突っ込んだ奴だ。くっせーぞ、それ」
「平気よ。洗ったもの」
腕を組んだサナによるインターセプト。そのセリフが、カナタは妙に引っ掛かった。背中に嫌な汗が流れるのを感じる。
「…洗っ…た?」
「ええ」
じゃなきゃ卓上に並べたりしないわよ、と。半目で口を尖らせながら続けたサナの声は耳に入らず、肝心の言葉だけを無意識に
サナの淡白な態度とは逆に、カナタはその問題に気付いて顔を青ざめさせた。
それはマズイ。絶対にマズイ。何がまずいって、洗った後がマズイ。洗濯機から出したなら当然干す。至極当たり前の流れだ。
そして、洗濯物を干す場所なんてものは、雨でもない限り決まっているのだ。
そこまで思い至ったカナタは、焦燥の表情で身を乗り出し、声を荒げてサナに詰め寄った。
「ちょっと待て!お前まさか、これ外に干したのか!?」
「んなわけないでしょ!!恥ずかしくて干せるか、こんなもの!!」
「え、あ、そうですか」
カナタはしょぼんとした。
下手に奴らの目に触れていたら二人まで危険だと思ったが、どうやら部屋干しだったらしい。
それそのものは朗報だ。朗報なのだが、あの格好を心底イケていると思っていたカナタは、何とも
とはいえ、カナタも壊してしまったスマホのことは、最初から気に病んでいた。その点は素直に謝るしかない。一度目を瞑ると、表情を真剣なものに改め、サナの目をしっかりと見返した。
「…弁償はする。ただ、しばらく待って欲しい」
修理代のあてはある。だが、それがすぐにとはいかないのが問題だ。この二人とどう関わって、どう清算するか、非常に悩ましかった。
急にしおらしくなったカナタに、座卓の対面で横並びになっていたサナとオミは互いを見合って
「弁償って何のこと?」
「私のスマホ」
「ああ。だから配達の仕事休んでるんだ。なに?カナタが壊したの?」
「…スマンと思ってる」
「カナタのせいとは言ってないわよ。結局落としたのは私だし」
本気で責任を感じている様子のカナタに、サナはため息をついて荒れていた感情を鎮めた。怒りの99%は、携帯の損壊ではなく貧乳をいじられたことによるものだったが、どうにかこうにか飲み込んで本題に入る。
「私が聞きたいのは、どうしてこんな格好で上から降ってきたのかってこと」
「降ってきた…?」
サナの言葉に引っ掛かったオミは、一瞬だけ姉に顔を向けると、すぐに視線を移して下を見た。
目に映るのはカナタの変装用具一式。黒のスウェットとパーカー、マスクにゴーグル、ヘアバンド。この全てを身に着けたカナタを想像した。
カナタの要素がどこにもなかった。明らかに変質者。それが上から降ってくるという。
「…怖っ」
「泣きそうだったわ」
頬をヒクつかせるオミに、サナは腕をさすりながら半目で視線を泳がせた。そりゃ携帯も取り落とすよ、と。オミは姉の状況に納得する。むしろ得心が行かないのはカナタの状況の方だった。
(…降ってくるって何?)
オミは半目で眉間に皺を作った。その疑問はサナも同じく感じている。その上、問題はカナタを取り巻く環境にもあった。初めて会った一昨日のあの時、カナタと共に現れたヤクザのような大人たちは何か。昨日、立てなくなるほど披露困憊だったのは何が原因なのか。
「教えて、カナタ」
聞くまいと思っていた。きっかけが何であれ、サナはカナタに感謝している。スケベなことばかり口にするが、その人柄を好ましくも思っていた。話したくないことなら敢えて聞くこともない、と。そう思える程度には信用していたのだ。
しかし、あの黒づくめと同一人物であるのなら話は別だ。昨日はもとより、一昨日の弱々しい気配も気がかりだった。
サナは、表情を真剣なものに改めて、カナタに問いかける。
「この格好で、一体何をしているの?」
日の暮れた夕飯時。
LEDの温かみのない光に照らされるカナタの表情は“苦悶”。
話せないことが多い。けれど、義理と義務を通すには、説明しなければならないこともまた多い。どう話すべきか、カナタは必死に情報をより分けていた。
その少年の様に、サナは少しだけ後悔した。そんな顔をさせたいわけじゃない。ただ、困っているのなら、ちゃんと力になりたいだけだったのだ。死にたくなるほどの後悔から助け出してくれたカナタのように。
拳を握り締めながら、サナはカナタが口を開くのをただ待った。
そんな二人の様子に、オミは真面目な顔で二人を見比べ困惑する。二人の間に何があったのか、オミだけが知らないのだ。急激な空気の変化についていけないのも道理だった。
ほどなくして、カナタは話しても問題ない事実に思い至る。マンションの屋上で地表を眺めながら、あの格好で確かに行った自分の所作。
目を逸らしながら言い難そうに、少年がその重い口をついに開いた。
「…おっぱい鑑賞、かな。あと脚」
サナの平手が、カナタの頬へと吸い込まれた。
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