第13話 姉の乱心
蛍光灯の灯りを照り返すサラサラの髪。目の下まで伸びた前髪は真ん中で分けられ、耳も隠れるほど全体的に長い。140センチに満たない華奢な体は、灰色のプリントTシャツと濃緑のハーフパンツに包まれている。母譲りの長い下睫毛と、女の子と見紛う程に整った顔立ち。それを無理解に歪める少年がいた。
名を「
彼は今、10年という短い人生でも三指に入るほど不可解な光景に頭を悩ませていた。その内心を、僅か4文字で表現する。
曰く。
「…誰?これ」
帰宅して早々のこと。和室に転がっていた見知らぬ男に、オミは眉根を寄せて立ち尽くした。思わず口をついてでた疑問に、洗面所で洗濯をしていたサナから回答が飛ぶ。
「カナタって言うんだって」
「それ名前?苗字は?」
「知らない」
「どこから来たの?」
「知らない」
「姉ちゃん正気?」
「どうだろうね?」
楽し気なその声からは、全く警戒心が感じられない。オミには、姉のその様子が信じられなかった。
過去のトラウマもあり、姉は他人を大の苦手としている。昔から警戒心が強く、他人の悪意に異常なまでに聡い。そして、姉の周囲にいたほとんどの人間は、姉にとって不快な感情を向けてきたのだ。
即ち、色欲か、嫉妬か、害意か。
人間の良くない気配に晒され続け、それに敏感になってしまった姉。結果、視界に捉えた人に悪意があるかどうかの判断が異常なまでに正確になったのだ。
その彼女が自ら招き入れたというのなら害はない、とは思う。だが些か前触れが無さ過ぎた。何をどうすれば、見知らぬ男をここで寝かせるという結果になるのだろうか。
あまりにも不可解な姉の行動に、オミは洗濯籠を持ってきた彼女へジト目を向けた。その視線に気づいたサナが苦笑する。
「助けてもらったのよ」
「それだけで連れ込みはしないでしょ普通」
「そうなんだけどね。死にそうだったから」
比喩じゃなくて、と。そう言いながら、サナは脱水をかけられて
「…それ、こいつのTシャツ?」
「そうよ?」
「…モス○ーノって、普通に2万くらいするブランドじゃない?」
「……………え“!?」
たっぷり3秒は固まったサナが、目を見開いて手元のTシャツを凝視した。確かに、胸元にでかでかと“MOS○HINO”と書いてある。
「お、おしゃれ着洗いとかの方がよかったかな!?普通に回しちゃったけど!!」
「いや、TシャツはTシャツだから…」
大丈夫でしょと口にしたオミは、その衝撃から“助けてもらった”という姉の言葉をスルーしてしまった。何があったのかを確認しないまま、別のことに気を取られている。
その様子に、サナは内心ほっとしていた。夕方のチンピラとの一件、聞かれれば話すつもりだが、話せばオミが怒るのは確実だったからだ。そのオミは、Gパンのラベルとタブレットを見比べ「うわ…こっちも3万する…」と呟いていた。
「…で?泊めるの?」
オミは姉を見上げ、手にしたGパンを渡しながら訊ねた。サナはそれを受け取り、ハンガーにかけながら答える。
「多分起きないもの」
「家の人が心配するんじゃない?」
「訳アリみたいだったから」
「拾った所に戻してきなよ」
「犬や猫じゃないからなぁ」
苦笑して冗談に付き合いながらも、姉はカナタを
人付き合いを
悩ましげに眉根を寄せ、オミは軽く溜息をついた。
「大丈夫よ。私の目は知ってるでしょ」
「姉ちゃんの目は疑ってないよ」
でもね、と。オミは洗濯物を干している姉から、その足元で寝転がる男に目線を移す。その目に映る光景を、客観的に見た現状を、認めがたい異常を。のほほんとした姉に突き付けた。
「姉の体操服着て寝てる知らない男を、どうしたら警戒せずにいられるのさ」
「ごめん。それ着せたの私だから」
カナタは泣くほど嫌がってたよ、と。そう続けたサナ。間髪入れずに返ってきた回答に、オミはパタリと四つん這いになった。
「…ほんとに意味が分からない」
この痴態の下手人がまさかの姉。何が何だか分からない弟は、理解することを諦めた。泣いて嫌がったという姉の証言から、急激に彼が哀れになる。
「大丈夫」
その声に、オミが顔を上げる。
「悪い奴じゃないよ」
そう言って姉は笑った。久しく見ない、楽しそうな笑顔だった。
と、思いきや、次に手に取った洗濯物を見た姉の顔が、唐突に強張った。何かあったかと、オミもその手元を覗き、首を傾げた。
それは黒のスウェットパンツだった。何の変哲もない、よくある運動着だ。しかし、その腿の部分にはラメで「らめぇ♡」と書かれている。意味は分からないが、オミは何となく卑猥な印象を受けた。
手に取ったそれを干さずに、サナは次の洗濯物をとる。濃灰色のTシャツだった。胸元には「SEX」と書かれている。こっちの意味は分かった。分かったが結局卑猥だった。
「…こいつ本当に大丈夫?」
オミの問いに、サナは黙して語らず。
その顔は、少しだけ真剣だった。
◆
「…?どこだ、ここ?」
むくりと起き上がったカナタは、記憶の薄い景色に半目で問いかけた。
「やっと起きた」
返ってきた声に周りを見渡すと、座卓の窓側で寝ていたカナタの頭側、向かって卓の右面に座った子どもが、カナタを見ていた。手元には宿題であろうプリントがある。
「もう17時だよ。どれだけ寝るのさ」
「…だれ?」
「普通にこっちのセリフだと思うけど。ここ僕の家だし」
「えーっと…。あぁ、そうだ。サナは?」
話しながら頭の中を整理していたカナタは、寝る前のことを思い出し、恩ある少女の名を呼んだ。その問いに、目線を手元に戻しながら子どもが答える。
「姉ちゃんならバイト。今日は配達しないって言ってたから、そろそろ帰ってくると思うよ」
「姉ちゃん?アイツの弟?」
「そう。オミでいいよ、カナタ」
よろしくね、と。オミが左手をヒラヒラ振った。その顔を見たカナタは、欠伸を噛み殺しながら思ったことを口にした。
「…あんま似てねぇなぁ」
「父親違うしね」
「そうなの?すげぇな」
「…何がすごいか分からないんだけど…」
不思議な返しをされたオミは、この人まだ寝ぼけているのだろうかと、眉をハの字にした。
そんな子どもを尻目に目元を擦るカナタは、少しづつクリアになってきた頭で現状を考察する。
目の前の子どもがサナの弟。これはいい。だが、年頃の娘が男を連れ込んだのだ。寝こけるそいつを親が放置するだろうか。
「両親は?」
「いない。父親は顔も知らないし、母さんは半年前に死んじゃった」
考えればわかることだったと思ったカナタは、深々と土下座した。その様子に、逆にオミが困る。
「…顔上げなよ。カナタには関係ないでしょ。気にするだけ損じゃん」
「ただの自己満足だ。許してもらおうと思ってやってるわけじゃない」
またも想定外の返しに、オミは目を丸くした。ひとしきり下げて気が済んだのか、カナタは顔を上げてオミに笑いかけた。
「しかし、ナチュラルに呼び捨てるなぁ。オミ」
「気に障った?」
「いや。心地いい」
「…変な奴」
悉く予想外の返しばかりされたオミは、早々に理解するのを諦めた。ふと、姉もそうだったのだろうかと、振り回される姉を想像する。なんとなくしっくりきた。
「…ん?17時?」
「そうだよ?」
唐突にカナタが首を傾げた。その様子を見たオミが、あまりに長すぎる睡眠時間に驚いたのかと考えるも、続いた疑問はまたまた予想外だった。
「バイトってファミレスか?」
「そうだよ。今日はそっちのはず」
「シフトは何時までかわかるか?」
「たしか16時…。え?あ、ちょっと!」
それだけ確認したカナタは立ち上がり、素足に靴だけ履いて飛び出していった。一連の挙動があまりにも迅速で、止める暇すらなく。
後には、事態の理解が追いつかず、中腰で手を伸ばしたオミだけが残された。
「…なんなのさ…」
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