第12話 壁のない男

「い、嫌だ…!来るな…っ!」

我儘わがまま言わないでよ。ほら」

「ほらじゃねぇよ…!俺は男だぞ…!?」

「見ればわかるわよ」


 外観からして昭和レトロな築45年の2階建て木造アパート。その1階、4畳・6畳二間続きの2Kの一室。玄関を入ってすぐにあるキッチンを横断した先、畳香る6畳の和室の隅にカナタはいた。

 濡れた髪に、バスタオル一枚腰に巻き付けただけという痴態の上、顔に焦燥の表情を張り付けてへたり込んでいる。力の入らない震える四肢を酷使して、嫌々と首を振りながら必死に後ずさっていた。見る人が見れば、その弱々しさは噴飯ものだったろう。


「いくらなんでも、それはないだろ…!」

「だって他にないんでしょ?」


 その対面から、サナが困った顔でにじり寄る。小さめの座卓を迂回して、手に持つ布を差し出しながら、どうにかカナタを説得しようと言葉を尽くしていた。


「これが一番マシだと思うけどなぁ」

「着せるのはいい…!でも着せられるのは嫌だ…!」

「今スケベなこと言った?」


 カナタはついに縁側の窓際まで追い詰められた。背をガラス戸に塞がれ、逃げ場を無くす。それを見たサナが、ここぞとばかりに正面からソレを見せつけた。


「ほら。早くしてよ、カナタ」

「駄目だ…っ!それをやったらお終いなんだよ…!」


 精神的余裕を失い、目の前に迫る恐怖に耐えられず、とうとうカナタは叫んだ。





「男が女子の体操服をまとったら!それはもうただの変態なんだよぉお!!」





 そのセリフに、サナが溜息をついて諭す。


「お古だってば。今は着てないよ」

「ブルセラか!!」

「殴るよ?」


 そう。サナが持っているのは、胸元に“有澤”と名前の入った学校指定の体操服。ブルマというわけでもなく、男女共用の短パンだ。デザインにもサイズにも性差はない。

 だが、カナタにとってはそういう話ではなかった。


 ただひとえに“女子の体操服”というのが問題なのだ。

 

 家について早々、サナはカナタにシャワーを浴びさせた。しかし、当然の如くカナタは着替えなど持っていない。着ていた服は汗まみれで、もう一度着られるような状態ではなかった。リュックの中に変装用の服はあるが、一晩かもされたそれは余計に酷い有様だ。そもそも隠さなければならないモノでもあるため、その存在をカナタからは言い出せずにいた。必然。サナが手持ちの服から着替えを用意することになる。

 しかしむべなるかな、カナタは男で、サナは女だ。体格に大した差はないが、それでもサナとて配慮はした。結果、持ち出したのが、卒業してから1度も着ていない中学の体操着だったのだ。


 耳年増ならぬ目年増なカナタは、そういう格好でのAVを見たことがあった。その時見た絵面を前提に、もう一つ許容しがたい現実があるのだと、頭を抱えて嘆く。




「女子の着古した体操服でノーパンだと!?なにその羞恥しゅうちプレイ!!」




 そう、パンツが無いのである。


「…私の穿くとか言わないでよ?」

「バカか!それは穿くもんじゃねぇ!見るもんだ!!」

「正直が常に美徳だと思ったら大間違いよ?」


 自身の状況を端的に表したカナタに対し、サナは暗に貸さないからとジト目で予防線を張るも、珍妙な理屈で打ち返された。度々混じるセクハラ発言もあって、いい加減イライラしてきたサナは頬をヒクつかせている。

 もう無理矢理着せてしまおうかと、サナが据わった眼で迫った。その意図を悟ったカナタは、震える手を突き出して喚く。


「やめろ!人でなし!!お前のパンツは何色だぁ!!!」

「血でしょ、そこは!」

「血のような赤ってことか!?エッロ!!」

「ちっがーう!!!」


 斜め上のカナタの解釈に、サナが顔を赤らめて飛び掛かった。

 服を着せたい少女と、着たくない少年の攻防。どったんばったんと喧しいやりとりは、傍から見るとただの喜劇だった。


「すっぽんぽんの方がマシだぁ!!」

「私が嫌なのよ!!」

「げぇっほ!げほ!えほ!」

「…余計な体力使うから」


 すでに限界をぶっちぎっているカナタは、叫び続けるだけの体力もなく、うつむいて咳込んだ。その背中を、ジト目のサナがさする。細身ながら相当に絞られ、確実に着やせしている筋肉質なカナタの背中に、サナがちょっとだけ胸を高鳴らせた。


「こんな…、げほっ、屈辱…っ!」

「大丈夫よ。ユニセックスだから」

「え?何?セックス?」

「そこだけ切り取るな!!」


 夕日が差し込む二人きりのアパートは、なかなかに愉快な有様だった。









 女子に無理矢理服を着せられるという状況に耐えられなかった少年は、結局諦めて自ら変態に身をやつした。ノーパンのままサナの体操服を着たカナタは、滝のような涙を流しながら座卓に突っ伏している。


「お股がスースーするの…」

「やめてよ。きもい」

「誰のせいだよ…」

「少なくとも私のせいではないわよね?」


 けったいなやり取りに付き合いながら、サナは卓上に丼を置いた。漂う匂いにつられて、カナタが顔を上げる。視界に映ったそれは、半熟の溶き卵で黄色に輝いていた。トロっとしたそれの隙間から鶏肉とネギとしめじが見え、出汁の香りが鼻孔をくすぐる。

 完全無欠に親子丼だった。結構な大盛だった。カナタの口からよだれが垂れる。


「朝のアレから何も食べてないんでしょ?あり合わせだけど」

「え?食べていいの?」

「見せつけた上でお預けなんて、そんな酷いことしないわよ。どうぞ」

「あ、えと、うん。ありが、とう」

「どういたしまして」


 目を輝かせて丼を見つめ、辿々たどたどしく礼を口にしたカナタ。その様子に、サナは微笑みながらエプロンを外した。


(時折年相応というか、急に素直になるのよね…)


 そう見つめるサナを尻目に、カナタはいただきます、と手を合わせた。すぐに箸をつけ、口に運ぶ。

 直後、その両目から涙がこぼれた。


「え?ちょっ、どうしたのよ!?」

「…うめぇ…」

「あ、そう…。もう一杯くらいはあるから…」


 感涙にむせぶほど美味いというのなら、振る舞った側も浮かばれるというもの。だが、さすがに大げさではないかと、サナは頬を染めてそっぽを向いた。

 つまるところ、満更でもなかった。


「…誰かの作ってくれた飯なんて、いつぶりだろう」

「カナタ…」

「…ごめん。普通に二日ぶりくらいだった」

「何だったのよ!今の感慨は!」


 サナは、カナタの頓狂とんきょうな言動に溜息をついた後、座卓の対面で肘をつき、てのひらあごを乗せた。そのまま、美味い美味いと食事をっ込むカナタを眺める。


 不思議な人だと思った。

 サナは基本的に他人が苦手だ。人付き合いができない程ではないが、素をさらけ出し、気の置けない付き合いができる相手など一人もいなかった。

 それが、カナタを相手にするとどうだ。何の気兼ねもなく思ったことをそのまま口にできている。中学時代のほとんどを孤立し、悪意に晒されて過ごしてきたサナにとって、赤の他人とそんな接し方をすること自体が初めてだったかもしれない。


「ごちそうさまでした」

「はい。お粗末様でした」

「メチャクチャ旨かった…。マジで天才だわ、お前」

「大げさね。慣れてるだけよ」

「ただの背伸せのビッチじゃなかったんだな」

「…何それ?」

「無理してビッチになろうとしたバカ」

「…もうしないから」


 手に食器を持って台所に引っ込みながら、サナは眉をハの字にして力無くカナタを睨みつけた。座卓に上体を預けながら、カナタはスマンと片手を上げる。クマを浮かべながらも歯を見せて笑うカナタに、サナは毒気を抜かれた。

 もう、と。ため息一つ吐き捨てて、サナは流しに食器を置き、蛇口を捻った。


 カナタは何一つ飾らない。思ったことをそのまま口にする。カナタ自身が何の気も張っていないからか、こっちも気を張るのが馬鹿らしくなるのだ。ふところにするりと入り込んでくるのに、不快さが無く収まりがいい。自然と気兼ねないコミュニケーションがとれてしまう。

 これは人柄かな、と、サナは思う。

 スケベなことを口にしていても、含み無くそう思っただけだからいやらしさがない。口喧嘩をしていても、相手を思ってのことだから悪意がない。だからこそ、感謝を口にする時は、本当に心から感謝していることが良く分かるのだ。


 ただ、それは何かの反動のようにも思う。今朝、ファミレスに客としてきた時と様子がまるで違うからだ。気を張ることに疲れ果てた。そんな印象があった。


「あ、そうだ。カナタ、他にも洗濯する物があったら…」


 洗い物を終えたサナは、エプロンで手を拭きながら和室に入りカナタに声をかけるも、様子の変化に気付いて口をつぐんだ。

 カナタが、畳に崩れ落ちて寝ていたからだ。それは“眠る”というより“気を失った”という方がしっくりくる有様だった。

 サナは苦笑しながらカナタに近寄り、寝苦しそうなその姿勢を整えた。そのままタオルケットを被せる。


「…すぅ」

「…事情は、聞かれたくないのよね」


 何があってそんなに疲労困憊だったのか、サナは結局聞けなかった。

 帰る家や家族がいれば、こんなことにはなっていないだろう。何か事情があって天涯孤独なのかと思っていた。だが、手料理を二日前に食べているというのなら、全く身寄りがないというわけでも無さそうだ。


「…まぁ、いいか」


 事情は分からなくても、人柄はなんとなくわかる。

 こんなに他意なく自然体で自分と接してくれる人に、サナは初めて出会った。というか、あんなにスケベなことばっかり言ってたくせに、いやらしさを欠片も感じない人が他にいるのだろうか。苦手なはずのこの手の話題に苦も無く付き合えたことに、サナ自身も驚いていた。

 カナタの頭を撫でて、不思議と心地よかった時間を思い返す。ほんの1、2時間前に感じた身の竦むような恐怖も、死にたくなるほどの後悔も、今はない。


「変なやつ」


 サナの目は優しく細められ、その口元は弧を描いていた。

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