第11話 変態に水を差す

(想定外だったけど、欲しい情報はおおむね得られた…)


 カナタは、現状を考えながら少女の手を引いて歩いていた。敵の根城であろう風俗街は既に抜け、町並みは住宅街へと移り変わっている。


「ねぇ…」


 手を引かれる少女が、先を行く少年に声をかけた。が、少年は気づかない。考察に没頭し過ぎて外への意識が散漫だったのだ。


(素顔で街中を歩いて問題ない。それが分かっただけでも収穫だ。採れる手段が大幅に増える…)

「ちょっと…」


 原因は思考だけではない。カナタは既に精神的にも肉体的にも限界だ。その上で、素顔なら奴らの目を気にする必要がないとわかった。疲労と緩みが、周囲に対する警戒を解いてしまったのだ。他に気を向ける余裕がないカナタは、すでに少女の手を取っていることすら忘れていた。

 一方のサナも、危地を抜け出しはしたが、彼女を取り巻く現状は何も解決していない。その上、少年のこの態度だ。助けてもらったとはいえ、自分の呼びかけに反応すら示さない様に心がささくれ立った。その無反応さは、わざと無視されているのかと思うほどだ。


(今後どうするか考えたい…。腰を落ち着けられる場所…。そうだ。公園探そう。水くれ水)

「…っこの!!」


 話すらさせてもらえない現状にサナは痺れを切らし、自分の手を握る少年の手を叩いて払いのけた。パンと、二人の間に乾いた音が鳴る。

 その音で、カナタも少女の存在を思い出した。サナより更に余裕のなかったカナタは、突然感じた痛みに歯を剥いて怒鳴る。


「ってぇな!何すんだよ!」

「こっちのセリフよ!余計な真似して!」


 サナはサナで、心にもない言葉が口をついた。奴らから離れたことで強がれるだけの余裕は取り戻せたが、それでも目の前の相手をおもんばかれるほどではなかった。商談を邪魔されたというのも間違いではない。数回我慢して携帯さえ直してしまえば、それで辞めるという事もできたのだから。


「助けたってのになんだよ!その言い草は!」

「助けてなんて言ってないでしょ!私は構わなかったんだから!」


 カナタとて、恐怖を必死に抑え込んで助けに入ったのだ。奴らに囲まれていた彼女の顔は、決して“構わない”なんて様子ではなかった。その心遣いを無碍むげにされては、さすがに腹も立つ。


「ソープだかヘルスだか知らねぇが、そんな貧乳で何言ってんだ!」

「貧っ…!」


 カナタが指さした胸元を腕で隠し、顔を赤くしてサナがのけ反った。自覚があるだけに、人に言われれば普通にショックだ。

 後はもう、売り言葉に買い言葉。路上で向かい合って、意味の分からない怒鳴り合いに発展する。


「あ、あんたこそ子供のくせに!ソープとかヘルスが何のことかわかって言ってんの!?」

「男子中学生の性欲なめんな!その言葉だけでオナった回数なんざ1度や2度じゃねぇぞ!」

「何の暴露よ変態!ちょっとこっち来ないでよエッチ!」

「自惚れんな!おっぱいも見当たらねぇそんな体で服なんか着てたら勃ちゃしねぇよ!」

「服着てなかったら勃つの!?」

「勃つだろそりゃ!」

「最っ低!」


 早々に論点が脱線。お互いに身を乗り出して、身振り手振りを交えてのののしりあいになる。つい先ほどまでのような身の危険を感じることもないそれは、ただのじゃれ合いに近い。

 カナタは至極真面目な怒り顔を崩さなかったが、口をついて出る内容は馬鹿丸出しだ。サナはサナで、口論の内容が変な方向へズレてきて、夕日ではない朱で頬を染めていた。

 この瞬間だけは、二人とも抱えた悩みを忘れていた。気を張らない、年相応の、ただの口喧嘩に興じたのだ。


「まずはおっぱい育ててこい!話はそれからだ!!」

「そんな簡単に育つか!あんたと話すことなんかもう無いわよ!!」

「あーそうかい!じゃあな!あんな手合いに2度と引っかかるんじゃねぇぞ!!」

「…っ、大きなお世話よ!バーカ!!」


 そんな掛け合いを最後に、サナは振り返って駆け足気味にこの場を離れた。すぐに角を曲がって、意図的に少年の視界から消える。


 自己嫌悪で、涙が出そうだったからだ。

 少年が最後に吐き捨てた気遣いの言葉が、胸に刺さる。


(反則でしょ…、そのタイミングは…)


 何の気兼ねもなく言いたい放題言い合ったのに、結局あの少年は最後までサナのことを案じていた。みっともないそしり合いも、恥ずかしい経験の暴露も。サナのたがを外して発散させるためにワザとやったのかと、そう勘ぐってしまうような一言だった。感情だけで喚きたてていた自分が、恥ずかしくて仕方がない。

 ジグザグに何度か角を曲がり、少年に声も届かなそうなあたりまで来て、サナは足を止めた。目に溜めた雫が、一つ零れる。


「…っ」


 左手のリストバンドでそれを拭って、嗚咽おえつこらえた。


(何が“構わなかった”よ…っ!死にそうなくらい後悔してたくせに…っ!)


 そんな内心を認めもせず、お礼の一つも言わなかった。ただ、明確な恐怖が去ってから無関係の少年に向けて八つ当たりをしただけだ。なんて恥知らずか。

 サナは、歯を食いしばって自分の無様を思い返した。

 こんな仕事を本当に構わないと思っていたなら、揉めている最中にそう言って、チンピラ側に付けばよかったんだ。だけど、実際にはそうせずに、割り込んでくれた彼の後ろで黙って震えていただけだった。

 その小さな背中の頼もしさに、一瞬で救われた。でも、決して脅威が去ったわけではない。ただ彼が、自分が受けるべき恐怖を全て肩代わりしてくれただけだ。

 少年は奴らと対峙し、決して引かなかった。引かないまま、サナが奴らの視線にさらされないよう配慮してくれていたのだ。どんな胆力をしているのかと、心底感心する。


 けれど、その強気な態度がハリボテだと、サナには分かっていた。



 自分を引いた手が、ずっと震えていたからだ。



 恐怖を押し殺して助けに入ってくれた少年に対し、心の底から助かったと感じた自分があの態度。


「…最低なのは、私の方だ…っ」


 サナの自嘲じちょうは、しばらく止まなかった。









 去って行く少女の背中が十字路に消えたのを見届けた後、カナタはその場で崩れ落ちていた。電柱に手をついてしゃがみ込み、片膝を立てて俯いている。

 視界は明滅して歪み、手足の震えが止まらない。寒気もしてきた。本格的に脱水症状を起こしている。いよいよもって限界らしい。


(スマホ、弁償し忘れたなぁ…。いや、そんな金ないんだけどさ…)


 そんな状態でも、彼女の心配が先行していた。またあんなことにならないよう、その原因であろう問題を解決しておきたかった。


(あいつには悪いけど…、これ以上、関わらない方がいいか…)


 口論を始めた最初こそ本気で怒ったカナタだが、すぐにこのまま喧嘩別れするべきだと思い至った。無関係の人間を不用意に巻き込んではならない。

 とはいえ会話を誘導したなんてことはなく、ののしり合いはすべからく少年の素だった。少女の態度に対するいきどおりも、卑猥ひわいな黒歴史の暴露も、気遣いの言葉も。あの場のカナタには、何一つ嘘も無理もなかった。それが本当に心地よかったのだ。


(早いとこロッカーを探し出さないと…)


 とはいえ、殺伐とした現状が無くなるわけではない。まずは金をどうにかしなければ、と。力を振り絞って揺れる視界を押さえつけ、とにかく立ち上がれと足に力を込めた。


「せめて…、どこか、公園まで…っ」


 そう呟いたカナタは、顔を上げ、体を起こし。



 そのまま、前のめりに倒れた。



 とっさに両手をつくも支えきれず、肘までついてようやく耐える。炎天下の中で半日も極度の緊張を維持していたカナタは、汗を流し過ぎていた。そこに疲労と睡眠不足が重なり、果ては緊張感のない歳相応のただの口論だ。そんなものに安らぎを覚え、張り詰めた糸が切れてしまった。完全に限界を超えてしまったのだ。

 それでもカナタは諦めない。四つん這いの状態から、左手だけ立てて、無理矢理体を起こそうとする。

 しかし、震える四肢が意図通りには動いてくれず、顔を上げることすらままならない。視界の揺らぎが収まらず、本格的に自分の状態がまずいことを自覚した。


(…これ、死ぬかなぁ…)


 必死に歯を食いしばる表情とは裏腹に、そんな漠然とした諦観が脳裏をよぎる。それを切欠に、徐々にまぶたまで落ちてきた。



「ちょっと、大丈夫!?ねぇ!ねえってば!!」



 もう少しで気を失うという寸前。耳元で叫ばれた誰かの声に、無理やり意識を引き戻された。いつの間にかすぐ横にいたその誰かの顔を、横目で一瞥する。


「…お、まえ…っ」

「水買ってきたから!ほら、飲んで!」


 それは、先ほどまで口論していた少女だった。少年の顔色を伺うなり、本気でヤバいと思ったのだろう。すぐにカナタを支え、電柱にもたれるように座らせた。すぐにペットボトルを目の前に差し出す。


「持てる?蓋、開けてあるから」


 水。求めてやまなかった命の源。それを震える手で受け取り、口に含んだ。


「げほっ」

「慌てなくていいから!ゆっくり…ほら」


 すぐにむせて取り落としそうになったカナタの手を、サナが支えて少しづつ飲ませていく。たっぷり5分はかけて500mlのボトル2本を空にした。


「あり、がとう…。助かった」

「え、あ…、うん。こっちこそ…」

「じゃあ、な」

「え?あ、ちょっと」


 息も絶え絶えにそれだけ言って、カナタはもう一度立ち上がろうとした。しかし、水分補給ができただけで疲労も睡眠不足も解決していない。すぐに回復するわけがなく、プルプルと震えながら辛うじて立ち上がる。しかし、歩こうとした矢先、膝が抜けて倒れかけ、サナに支えられた。


「バカ!無理しないで!顔真っ青よ!」

「ほっとけ。関わるな」

「そうもいかないわよ!うち近くだから来なさい!」

「やだ」

「そんな子供みたいに…」

「子供だし。お前にそう言われたし」

「ゴメンってば!さっきの態度なら謝るから!」


 離れようとするカナタに、無理やり支えようとするサナ。しかし、カナタが離れようとする都度バランスを崩し、前屈みに倒れそうになる。必然それを支えるサナも前傾姿勢になり、最後は手四つで組み合って、にらめっこになった。


「関わるなって言ってんだろ…!」

「ほっとけるわけないでしょ…!」


 そんなことをしていては、なけなしの体力を使うのも必然。カナタは再び眩暈めまいを起こし、立っていられなくなる。


「う…、あ…」

「ほらもう…。よっと。あ、こら。暴れないでよ」


 ため息をつきながら、サナはカナタの右腕を首に回して支えた。しばらく抵抗したものの身じろぎ程度にしかならず、カナタはすぐに諦めた。というか体力が尽きた。ただそれだけで息が切れている。


「って、くっさ!アンタ汗臭っ!!」

「離せアバズレ。女子に臭いと言われて挫けない男子はいねぇ。お前がおっさんのチ〇コしゃぶってる様子を思い浮かべながら一生オナってやる」

「ホントにやめて!謝るから!」

「美術5の力をめるなよ。その光景をすぐ絵に描き出して…」

「言っとくけど、あんたの口、普通にセクハラだからね!?」


 地味に精神ダメージの高い仕返しに、サナの肌が粟立った。慌てて心の底から懇願する。


 微かに抜ける夏の風。

 二人の間を優しく通り過ぎたそれが、少年の肌を撫で、少女の髪をなびかせた。

 横から照り付ける太陽に、重なった二人の影が伸びる。


 その影を踏み、逡巡しゅんじゅんしていた少女が意を決して、少年に大事なことを訊ねた。


「私は有澤ありさわ沙那さな。君は?」


 その問いに、少年は横目で少女の顔を見上げ、すぐに逸らした。


「…知らない方がいい」


 躊躇ためらいがちな拒絶。その答えに、サナが泣きそうになる。


「…さっきの、怒ってる?」

「違う」

「臭いって言ったことも謝るから…」

「そうじゃねぇよ!…そうじゃ、ないんだ…けど」


 本当に、カナタは怒ってなどいなかった。ただ、どうすれば彼女にるいが及ばないか、どの程度なら関わっていいのか、その判断がつかなかったのだ。今更関わらないなんて選択肢はない。それは客観的な現状だけでなく、心情的にも、だ。


 彼女との掛け合いが、妙に心地いい。それは本当に、カナタにとって救いだったのだ。

 単身東京に飛び出し、友人知人の類もゼロ。そんな環境の中、絶望と後悔で諦めかけた時に差し伸べられた手。


 カナタはそれが、泣きそうなほどに嬉しかった。


「…じゃあ、何て呼べばいい?」

「…カナタ」

「なら、私もサナでいいわ」


 故に、続けてかけられた問いに、半端な譲歩をする。フルネームじゃなければいいか、なんて考えから、互いに名前呼びになってしまった。これはこれで、客観的には親しげに見えるのではなかろうか。

 追々おいおい、悪い方に転ばないか不安になりながらも、カナタは受け入れざるを得なかった。今の心地よさを、弱り切った心が手放してくれなかったのだ。


「…とう」

「え?」

「あり…がとう…。ほんとに…、死ぬかと…」


 カナタは、必死に涙をこらえていた。サナとの触れ合いが、心にみる。

 その様子に、サナも安堵の息をついた。


「私の方こそ、助けてくれてありがとう。正直泣きそうだったの」


 素直なカナタの様子に感化されたのだろうか。言いそびれていた言葉を、サナも自然と口にできた。意地張ってゴメンね、と。サナは舌を出す。


 そのまま、歯を食いしばって涙を溜めるカナタの横顔を眺めた。


 訳ありであろうことは、容易に想像できる。カナタの態度だけでなく、現代日本で立ち上がれないほど披露困憊だなんて、いい予感は全くしない。


 

 それでも、戻ってよかった、と。

 サナは心の底から、そう思ったのだった。

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