第9話 降って湧いた機
「どこだよ!ロッカー!!」
夕方のスクランブル交差点。その中心で、太陽に向かってカナタが叫んだ。そろそろ帰宅ラッシュが始まるせいか、人通りが増えてきている。それなりに大きい声だったが、喧騒にかき消され、近場の数人が顔を向ける程度の反応しかなかった。
ファミレスを後にして、そろそろ5時間が経つ。その間、少年は持ち前の我慢強さで、休みなく真夏の東京をひた歩いた。
とにかく暑い。風の抜けるビルの上を駆けるより、熱されたアスファルトを歩く方がずっと厳しかった。昨日よりも汗の量が確実に多い。
しかし見つからない。東京駅まで戻って自分の足跡を辿ってみたものの、未だ見当がつかなかった。つかないまま、そろそろ日が陰ってしまう。こうなるともう記憶が当てにならない。昼と夜で景色がまるで違うのだ。
家を出てから既に36時間。その間一睡もしていないカナタの顔色は、随分と酷い有様になっていた。ただ、不味いとは思いつつも、とても眠れるような状況ではない。
荒い息を吐きながら、それでもカナタは人の隙間を縫っていった。奴らが人込みに紛れて殺しに来るんじゃないかと、昨日植え付けられたトラウマが騒いでいる。
しかし、どのみち心休まる場所などない。肉体を休められる金もない。目的を果たすまで歩くしかないのだ。
「くっそ…」
線路に沿って歩いてきたが、道が無くなり裏路地に入った。堪らず掠れた声で悪態をつく。
ロッカーが設置されているとしたら駅周辺とアタリをつけ、しらみつぶしに探した。電車に乗る金など無く、移動は全て徒歩だ。普段なら「まだまだ」と強がりもするが、さすがに今はそんな元気もない。
疲労過多、睡眠不足、そして一度は補給できた筈の水分まで枯渇し始めた。Tシャツはすでに4度ほど絞っている。
――水分補給は怠らないように。あ、でも公園の水だけは飲むんじゃないわよ?――
家出を相談した際、姉から小遣いと共に寄越された忠告が脳裏をよぎった。
不衛生だからというのはわかる。だが、それは脱水症状より優先されるのだろうか。否。“金はあるんだから不用意な真似をするな”という、前提付きの忠告だったはずだ。
即ち、金がないなら無問題。
そんな戯けた結論を出し、カナタは優先順位を変更。急ぎ公園を探し始めた。
「川の水よりマシだよな。小便飲むプレイもあるくらいだし…。あ、やべ。勃ちそう」
馬鹿なセリフを呟いて、あてもなくビルの隙間を縫っていく。鈍った思考が迷走を始めているあたり、本格的にヤバいらしい。
しばらくして、見覚えのある界隈に差し掛かった。ロッカーが近い、というわけではない。古いビルに風俗店の看板が軒を連ねる狭い路地。暗くなり始めた色味と相まって、恐怖の記憶を刺激してくる。
――2回目のランで通ったな、ここ。
目の前の十字路を、正面から来て、向かって右方向へ折れて行った覚えがある。そしてその先で、心惹かれる看板の下から2人の男が飛び出して来たんだ、と。
カナタは
見えた3人組に、心臓が
「だーいじょうぶ。君可愛いから」
「そうそう。すぐ人気出るって。お兄さんたちが保証するよ」
「…はい」
鈍った思考が一瞬でクリアになり、急速に事態を考察する。
3人のうち2人は、昨日目の前の店から飛び出してきた男だ。
(動じるな。表情を取り繕え。あの二人に直接顔を見られた可能性はない。問題は…)
そう考え、携帯を取り出しビルの壁にもたれかかった。携帯に意味はない。通行人を装うポーズだ。顔だけ携帯に向けながら、横目で残りの1人を見やる。
俯き気味な少女。こちらも見覚えがある。というより、むしろ彼女の方が印象深かった。昨日は変装したまま彼女の携帯を壊し、今日はそうと悟られないまま
(…どういう取り合わせだ?)
状況が分からない。少女の表情は暗く、怯えているように見受けられる。その少女に、両脇から男たちがご機嫌を取るように歯の浮くような言葉をかけていた。
(昨日近くにいるのを見られて、仲間だと思われた…!?)
巻き込んだかもしれないと考えたカナタは一瞬焦る。しかし、それにしては男たちに緊迫感がないし、無理矢理というわけでもなさそうだ。暗い表情ながら、少女は自分の意思で付いて来ているように見える。
一体何がと、思考を切り替えたところで、昨日男たちが飛び出してきた店に入ろうとしているのを見たカナタは、ようやく事情を察した。水商売のスカウトだ。
少女の表情から、好んでいるわけではないことは分かる。もしそれが、自分が壊した携帯を修理するためだとしたら、申し訳が無さ過ぎた。
助けるべきか。そう考えたとき…。
同時にその店から出てきた男の顔を見て、冷汗が噴き出た。
「おう。いたな」
「兄貴、お疲れ様です」
「何か用っすか?」
最初のランで、取引現場から逃げるカナタを最後まで追ってきた3人。そのうちの1人だ。モリタとやらに次いで強面だった男で、少女を連れてきたチンピラ2人よりは良く覚えている。2度目のランも、屋上を伝って追って来た6人の中に、その姿があったのを確認していた。
「昨日の”黒づくめ”、背格好は覚えてるか」
「兄貴の指示で追ったアレっすか?」
「兄貴達すぐ引き上げちまったんで聞けなかったっすけど、アイツ何やらかしたん…」
「詮索はしなくていい」
被せるように質問を遮られたチンピラは、思わず口を噤んだ。二人の間で様子を伺っていた少女も、その眼光に感じた純粋な殺意に思わず身を竦める。
「見かけたら問答無用でとっ捕まえろ。口さえ開けりゃどんな状態でも構わねぇ。全員に伝えておけ」
「「…うっす」」
指示を告げた時の兄貴分の雰囲気に、二人は黙って従った。詳細は知らなくていいことだと、それだけで悟ったのだ。
同時に、そのやり取りが漏れ聞こえていたカナタも、あの取引の位置付けに感づいた。部下であろう人間にも知らされていない。情報統制が徹底されていると見るべきだ。なら当然、知ってしまった部外者を放って置くなどあり得ないだろう。
(奴らは是が非でも口を封じに来る…!)
改めてそれを確信したカナタは、恐怖に歯を食いしばった。
あの格好で路上を走るのは控えるべきだ。今のやり取りだけで、カナタを追う人間は加速度的に増えることが予想できる。どこに敵がいるか、分かったものではない。
(収穫はあった…。ボロが出る前に立ち去らねぇと…)
そう考え、カナタは携帯から目線を上げた。震える脚と竦む心を必死に押さえつけ、4人がいる方へと足を向ける。
現状の目的はもう一つあった。それは、どの程度顔がバレているか確認すること。
(落ち着け。奴らの目の前を、顔を見せながら通り過ぎるだけだ)
そう己に言い聞かせ、目的の集団を決して見ないよう僅かに視線を逸らす。
滴る冷や汗と、全身を貫く恐怖。それらに塗りつぶされた少女に対する負い目。
その全てを制御できぬまま、カナタは一歩を踏み出した。
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