第2話 領主候補


 朝、目を覚ますとフェリは隣にはいなかった。だが、微かに香る彼女の匂いが僕との約束を守ってくれたことを教えてくれた。

 用意された服に着替えていると、フェリが部屋にやってきた。

「おはようございます。坊ちゃま……っ! ご自身で起きられたのですね、凄いです、偉いです!」

 彼女は嬉しそうに拍手までして褒めてくる。

「では、早速朝食の準備をいたしますね」

 いつも寝起きの悪い僕が一人で起きられたことに感動したのか、朝ご飯を食べている時でさえずっとニコニコしている。用意されたご飯を食べ終えて、食器が下げられる時、僕はフェリに声をかける。

 昨日の夜、四六時中フェリと過ごしたいと思った僕は、とある作戦を立てていたのだ。それを実行するために、フェリには悪いが嘘をつく。

「フェリ、ごめん……。昼食はいらないや。あまり食欲が湧かないみたいなんだ……」

 フェリは少し眉を下げて頷く。

「承知いたしました。では、また夕食時に伺いますね」

 食事はフェリと過ごせる大切な時間だが、今まで彼女と過ごしていた時間を考えれば、今の状況は物足りない。先程の朝食の会話でフェリが昼間にこの部屋に来ることはない。だが、念のため机の上に書置きを残す。


『少し出かけてくるね。心配しないで』


 僕はこっそりと玄関ホールへと向かい、外界とつながる扉を見据える。

 長らく外には出ていなかった。おそらく、外に出るのは三年ぶりになるのだろう。深呼吸をして自分を落ち着かせる。

 昨夜一生懸命考えたフェリと一緒に過ごす方法。自分の手でそれを勝ち取るために、固く閉ざされていた扉を開いた。



 僕が住むアルピチュアは水の都と呼ばれている。この場所は元々海だったが、押し寄せる波によって生まれた陸地である。バラバラにできた陸地に建物や橋を造り、都市と呼ばれるまで大きくなった。

 他所からこの土地に訪れた人々はこの都市を見て同じ事を言う。


『海に浮かんでいるみたい』と。


 都市内には縦横に大きな川が流れており、大きく四つの地域に分かれている。

 東には鍛冶場や造船場などの工業地域が、西には軍事基地や裁判所など治安を維持する地域が、南には港や商業施設が集まる商業地域が、北には居住区地域が集まっていた。

 ちなみに、僕の屋敷は北の中でも最も奥の位置にある。

 都市を四つに分断する川だけではなく、建物が連なる場所にも小さな川が流れていて、その全ての水は海へと繋がっていた。

 都市内を移動するには小型の舟で移動する。そして、その舟が僕を引きこもりにした原因でもあった。水の都アルピチュアに住んでいながら、僕はーー


 泳げないのである。


 七歳の時、祖父と数人の使用人に連れられて出かけた水神祭。そのめでたい日に僕は溺れてしまった。

 水神祭は三年に一度しかないアルピチュアの一大イベントである。アルピチュアの繁栄を祝い、水神様を祀って、都市内全土がお祭り騒ぎになる。

 この日だけは皆が身分を気にしないで互いに楽しむために、仮面をつけたり、煌びやかな仮想をして過ごす。

 皆が笑い、皆が叫び、皆が食べる。

 そんな祭りの雰囲気に飲まれながら、僕たちは都市の中央にある水神様を祀る噴水広場に向かっていた。そんな祭りの雰囲気に皆が飲まれていた。


 だから、誰も気付かなかったのだろう。


 川に流れていた花に、窓から手を振る人々に、美味しそうな匂いがする屋台に、夢中になって、舟から身を乗り出してしまった僕のことを。


 僕の体は川に投げ出された。不幸なことに僕は泳げず、溺れかけ、死にかける。しかし、その場にいた少年に助けられ、僕は一命をとりとめた。それからなのだ。


 僕は外に出るーー舟に乗ることが怖くなったのだ。


 舟が怖いと言うのはこの都市では致命的で、僕はどこにも行けなくなった。


 しかし、今、そんなことは言ってはいられない。


 あれから舟には一度も乗っていない。外に出たのも敷地内の庭にだけ。

 僕が屋敷で何もせず引きこもって過ごせていたのは、祖父や使用人たちのおかげ。でも、そんな祖父ももういない。僕の代わりに外に出かけてくれた使用人たちは出て行ってしまった。

 自分の足でこの地を踏みならさなければならない時が来たのだ。あんなに恐ろしかった川を見ても、僕の足はしっかりと地面についている。フェリのためだと思うと、勇気が出た。

 一隻の小舟がこちらに近づいてくる。漕ぎ手に声をかけると、男は僕のすぐ傍に舟を横付けした。僕は男に尋ねる。

「人を雇うにはどこに行けばいいの?」

「え? 君が雇うのかい?」

 僕が頷くと、男は驚いたのか目を剥いてこちらを見た。その目を離さずに見つめていると、彼は記憶を辿っているのか目をぐるりと左上から右上に移動させながら言った。

「えーっと、たしか……。酒場には傭兵がいると思うけど……。傭兵を雇うの?」

 『傭兵』。馴染みのない言葉だが、人を雇うには違いないので男の言う酒場に連れて行ってほしいと頼み込む。男は考えを改めさせようとしてくるが、そんなことでは引き下がらない。

 僕は絶対に人を雇いたかった。

 彼の根気強い説得にも折れなかった僕を見て、彼は降参したように言った。

「……分かったよ。じゃあ、真ん中に乗って」

 流石に舟に乗るのは怖い。

 乗り込むのに時間が掛かっていると、男は僕の腰を掴んで乗せてくれた。舟が揺れてグラグラするのは恐ろしくて、真ん中でキュッと身を縮めて大人しくする。

 男は僕が怖がっているのが分かったのか、丁寧にゆっくりと漕いでくれて舟の揺れは少ない。そんな親切な男にそのまま話しかけてみることにした。

「お兄さんは人を雇ったことある?」

「いやぁ、今の生活でかつかつだからねぇ。それに僕は雇われる側の人間だし……」

 男は賃金が少なくて生活が苦しいのだと言う。

「ところで、君はお金を持っているのかい? 傭兵を雇うならせめて契約料として銀貨十枚は用意しておいた方がいいと思うよ。どのくらいの期間雇うの?」


ーー期間……?


 思ってもみなかったことを言われ言葉を濁す。そこはハッキリさせといた方がいいよと言われ、頭を悩ます。

「うーん……。僕が死ぬまで……?」

「えぇっ!?!?」

 男が驚いた拍子に舟が大きく揺れて、必死に落ちまいとして舟の端を掴む。男も落ちそうなぐらいグラついてたけど、何とか耐えたようだ。バランスを取り戻した後、

「そ、そんな一生護衛をつけないといけないなんて……っ! 君は命を狙われているの!?」

「い、命は狙われてないと思うけど……。でもこの都市で一番偉いし……。家が広いから、人手は沢山あった方がいいと思うんだ」

 男が口をポカンと開けて、眉を寄せて、首を傾げている。しばらくそうしていたが、頭を左右に振って僕を見た。

「君は坊ちゃん、なのかな……?」

「うん。皆、坊ちゃまって呼ぶよ」

「な、なるほど……」

 男と喋っている間に酒場に着き、お礼を言う。漕ぎ手は心配そうな顔をしてこちらを見ており、そんな彼に手を振って笑いかけ、看板に酒場と書いてあるお店に入った。


 カランコロン。


 店内は日中のためかほとんど人がいない。それでも三人ほど客がいた。彼らは屋敷にいた使用人とは似ても似つかない風貌で、人数も一人足りない。だが、彼らを雇えばフェリの負担が減るはずだと思い、僕は三人組に声をかけた。

「ねぇねぇ。お兄さんたち。僕に雇われてよ」

 僕の言葉を聞いて、茶髪の大男が大笑いする。それにつられて隣にいた二人の男も笑った。

「おい、坊主。ここはガキの遊び場じゃねーんだ。帰んな」

 その言葉にムッとする。僕は別に遊びに来たわけではない。人を雇いに来たのだともう一度言うと、彼らは顔を見合わせてもう一度笑った。

「じゃあ、坊主は俺らにいくら出してくれるんだ? 今いくら持ってんだよ」

「い、今は持ってないけど、屋敷に帰ったらお金はいくらでもあると思うよ! 僕はこのアルピチュアで一番偉いから」

「……ほう?」

 僕の言葉を聞いて、男たちは急に体の向きを直し、僕の姿を検品するかのように上下に眺めた。

「よぉく見たら、坊主いいもん着てんな。じゃあ、俺たちを坊主の屋敷まで連れてってくれよ」

 その言葉を聞いて僕は飛び跳ねて喜ぶ。礼を伝えると男たちはニヤニヤしながら、「いいってことよ」と応えた。

「わわっ……っ!」

 そうやってはしゃいでいたら、いつの間にか背後に立っていた男の人とぶつかってしまう。その男は三人組の男の誰よりも大きく、フードを被っていた。

「ご、ごめんなさい……っ!」

 フードの男は何も言わず、ずっとその場に立ったまま僕を見ている。下から覗き込んでも、この酒場が暗いのとフードで影になっていて表情がよくわからない。

 もしかして、僕たちの話を聞いていたのかもしれないと思い、フードの男も誘ってみる。

「お、お兄さんも来る……?」

 すると、フードの男は「あぁ」と低い声で言った。

 屋敷から出ていった人数分補充でき、僕はさらに喜んで目の前のフードの男の手を掴み、ブンブンと上下に振る。

 その際に三人組の男が何か呟いたような気がしたのだが、僕が見た時にはもう喋ってはいなかった。


 四人を連れて酒場を出ると、まだ漕ぎ手の男が僕を下ろしてくれた場所にいて、こちらを見て驚いた表情を浮かべた。

「あ、お兄さん! もしかして、待っててくれたの!? 僕、人雇えたよ! ありがとうねええっ!」

 僕が舟に駆け寄ると、漕ぎ手は口元に手を当てて微かに震えている。一体どうしたのだろうか。漕ぎ手の様子に首を傾げていると、三人組の一番厳つい男が僕に尋ねた。

「あぁん? 五人乗るには小さすぎるんじゃねえのか?」

 別にこの舟に乗ろうとしていたわけではないが、これはちょうどいい。そのまま乗せてもらおうか。でも小さいらしいので、漕ぎ手に確認を取る。

「お兄さん、この舟五人乗れるかな? それと、僕を乗せてくれた場所へ戻れる?」

「ヒェッ!? あ、えっと、この舟はよ、四人乗りでして……っ。べ、別の舟をご利用した方が……っ」

 たしかに座席は四つしかない。別の舟にしようかと思った時、フードの男の人に体を抱き上げられた。

「わわっ!」

 男は僕を抱いたままそのまま舟に乗り込んで一つ席を埋める。それに続くように残りの三人も舟に乗り込んだ。

「乗れたな。さっさと漕いでくれよ、兄ちゃん」

「ヒッ。い、今漕ぎます、漕ぎます!」

 人に抱き上げられるのは慣れているが、知らない人にされるのは初めてだった。でも、抱かれ心地は悪くない。むしろよかった。

 距離が近づいたので顔を覗き込もうとするが、嫌がっているのか顔を背けられる。太陽の下で男を見ると、フードの男はやたらに白い肌だと言うことが分かった。「ぼくより白いねぇ」と言うと、男はそっけなく「そうか」とだけ答えた。

 それにしても、一気に四人も人を雇うことができるなんて。これでフェリが一人で屋敷を切り盛りしなくてもよくなるし、仕事が減って彼女もきっと喜ぶはずだ。

 フェリと一緒に過ごす時間が増えると思うと口元が緩む。僕の笑顔につられたのか三人組も笑っていた。僕たち、とてもいい関係を築けそうだ。



 彼らを連れて屋敷に戻ると、玄関ホールにちょうどフェリがいた。

「坊ちゃま! 一体どこへっっ!?」

 フェリは感情をごちゃ混ぜにしたような顔でこちらに駆け寄ってくる。その表情は怒っているのか、心配しているのか、悲しんでいるのか判別できない。勢いに押されて一歩下がると、三人組の一人にぶつかった。

「ほう~? こりゃ立派な建物だなぁ。報酬が期待できるぜ」

「……あなたたちは一体何者です? 早くこの屋敷から出て行ってください!」

 フェリは三人組を睨みつけ、玄関を指さした。

「そんなこと言うなよ、ねーちゃん。まぁ? 契約金は一人小型金貨一枚で手を売ってやるからよ。酒場から屋敷まで坊主の護衛をしたし、早速頂きたいんだがなぁ」

「……坊ちゃまを騙して、金をせびりに来たのですね。傭兵の分際で騎士と同じ報酬を要求するなど言語道断。早く立ち去りなさい!」

「あぁん!? 話が違うじゃねえかよ。これは契約違反として、倍額請求しなきゃだなぁ! なぁ、坊主!?」

 三人組は腰に下げていた剣を取り出す。その剣の切っ先は磨き上げたように光っていて、その輝きの奥にフェリが怒っている姿が見えた。

 いつもお日様みたいなポカポカした彼女の雰囲気が失われ、暗雲立ち込める重々しい雰囲気を纏い始める。

 そんなフェリの姿を初めて見て、僕はどうしたらいいか分からない。こんなに怒っている姿は見たことがない。

「この場から即刻立ち去っていただきます。坊ちゃま、よろしいですね?」

 フェリの目が捕食者の目に変わる。その目が怖くて頷くことも返事をすることもできない。そうこうしているうちに、男の一人がフェリに向かって剣を構えたのが見えた。


ーーやだっ! やめてっ!!


 フェリを傷つけさせないように男の足を掴む。男の足は太くて固い。

「な、なんだ!? このガキっ!」

 脚をブンブンと振り回され、しがみ付ききれなかった僕の体は壁に打ち付けられた。一瞬息ができなくなり、遅れて息を吐き出す。痛みに顔を歪めた。痛覚が刺激され、涙腺が緩まる。霞んだ視界に、もう一人剣を取り出したのが見えた。


「……排除いたしますっ!」


 聞いたことがないくらい低い、フェリの声が聞こえた。彼女は玄関ホールに置いてある甲冑の剣を手に取り、三人の傭兵たちと対峙する。

 その身のこなしは美しく、芸術的な曲線を描き振り上げられた刃は、男の剣を弾く。そのまま、男の首を跳ね飛ばしてしまうのではないかと思えるほど、大きく振り上げられた刃はーー


 カキーンッ!


 腰が抜けた男の前に、フードの男が立ち、フェリの剣を止めていた。じんわりと残った金属音が耳から抜けた時、三人組は情けない声を出して屋敷を飛び出していく。

 その玄関の扉が閉まった瞬間を合図に、二人は剣を打ち合い始めた。

「子供が見ているぞ」

 男の言葉を無視するフェリ。彼女が右から振り下ろしても、下から振り上げても、フードの男はその刃をいなしていく。拮抗。いや、男の方が勝るとも劣らないといった印象だ。二人の姿を見て、心臓が騒ぎ立てている。

「ま、待ってよ二人とも……っ!」

 二人には僕の声が届いていないのか、彼らは剣を交わし続ける。

 確かにあの三人組はフェリの言う通り、お金欲しさに剣を抜いたが、フードの男は違う。彼は自分から切り込むことはしないし、僕を抱っこしてくれたのだ。その手は優しく、嫌な気分はしなかった。きっと、悪い人ではない。

 僕は戦場に飛び込み、フェリのスカートを掴む。僕がこうすれば、きっとフェリは止まってくれるはず。

「ぼ、坊ちゃま! 危ないですから、離れてください! この傭兵も即刻屋敷から追い出さなくては!」

「フェリ。この人悪い人じゃないよ! 僕のこと抱きしめてくれたし!」

「抱きしめ……っ!? ……坊ちゃま、このショタコン野郎を即刻排除いたします!」

 フェリは一層怒りだし、僕を引きずってでも、目の前のフードを倒そうと躍起になる。そんな彼女の服を引きちぎる勢いでぶら下がる。その間も男はこちらに向かってくる様子はない。

「やだやだやだ! フェリやめてよぉおおっ!! 僕が呼んだんだよ! 人を雇えばフェリが大変じゃなくなるって思って! そうすれば、また僕と一緒にいてくれると思ったからっ! だから、あの人たちも悪くないし、この人も悪くないんだよ!」

 その言葉を聞いて、フェリはピタリと動きを止める。

「え……? 坊ちゃまが、フェリのために……。そ、そんなことを……っ!?」

 フェリの顔つきがいつもの優しいものに戻って、緊張した糸が切れて涙が溢れる。

「ふぇ、ふぇりぃいいっっ! いつもと違ってめちゃくちゃ怖かったああっっ!」

 ワンワンと泣いていると彼女は剣を置いて僕を抱きしめてくれる。やはり、フェリに抱きしめられるのが一番フワフワして気持ちがいい。

 そんな僕らの姿を見てフードの男も剣を鞘に戻していく。そして、顔を隠していたそのフードを脱いだ。

「俺の名はアルトゥーロ。この屋敷に雇われたくて来た。護衛、……必要ならば雑事も受け持とう」

 飛び出た鼻水をフェリに拭いてもらいながら、彼女から離れて目の前の白い巨木に向き合う。

「……ぐすっ。僕は、ティト・フィン・フィガロっ。この、アルピチュアでっ、領主でぇっ、この屋敷の主人だよっ……っ。ぜひ、僕に雇われてほしいっ……!」



 一階の応接室に通されたアルトゥーロは、フェリから尋問に近い形で問い詰められていた。どこから来たのか、どこで剣を習ったのか、生年月日や親の名前など諸々。

 しかし、彼が答えたのは先ほど言った名前と、ここで働きたいと言う言葉ぐらいで、フェリは僕を見て首を横に振る。

「坊ちゃま。こんな何を考えているか分からないような男を、この屋敷に置くことはできません。坊ちゃまの身が危険です」

 アルトゥーロの顔を見る。クマのような大きな体は色が白くて、海のような奇麗な青い目がこちらを見ていた。少し仏頂面だが決して怖くはない。

「でも、大きなシロクマさんみたいで可愛いよ? アルはシロクマみたいだねぇ。あ、アルって呼んでもいい?」

「坊ちゃま!? おやめください、そんな親し気に……! あっ、お止めくださいっ! そんないつ暴れ出すかもわからないクマに近づくのは!」

「でも、フェリも人手は必要でしょ? 人が増えたら、僕もフェリと過ごす時間が増えるし、そうなったらとっても嬉しいな。あ……、そうだ。これを聞いておかないとね。アルはどのくらいお金が欲しいの? たしか漕ぎ手のお兄さんは銀貨十枚って言ってたけど、それでいい?」

 ずっと黙っていたアルは少し目を伏せてから、僕の目を見て言った。

「金は要らない。ここに置いてもらえればそれでいい」

「何もいらないって! ほらぁ! やっぱアルはお金目的じゃない! ねぇ、フェリいいでしょう? これでフェリの仕事も楽になるよ?」

「ダメです、坊ちゃま! 報酬がいらないなんて怪しすぎます! フェリは一人でもこなせます! だから、そんな得体の知れない男を屋敷に上げるなどと言わないでください!」

 もう一度アルの目を見る。その目が潤んでいるように見えた。なぜか彼を守ってあげたくなり、フェリに妥協してもらえるようにお願い攻撃をしかける。彼女の腕を掴んで揺らし、下から見上げて乞い願う。

「僕の部屋で飼うから……」

 フェリは大きなため息をついた。今の僕の言動は僕の部屋に迷い込んだ鳥を飼うと言って聞かなかった時と同じだと言った。当時、無事に鳥を飼えたことを思い出し、礼を言ってフェリに抱き着く。

 しかし、あの時の鳥とは違い、アルは別に部屋が用意され、しばらくフェリが僕の部屋で寝泊まりすることになった。どうやら僕の身の危険を案じてのことらしい。フェリと過ごす時間が増えたのでそれはそれで嬉しい。

 フェリが作ってくれた夕食を三人で食べて、アルは次の日から雑事を半分受け持つことになった。


 今日は早く仕事を終え、僕が起きているうちにベッドに入ったフェリは、僕に沢山の約束事をさせた。

 フェリに何も言わずに出かけないこと。シロクマには不用意に近づかないこと。一人で出かけてはいけないこと。他にも言われたけど、もう覚えていない。

「坊ちゃまが私を思って行動なさったことを知って、大変嬉しかったです。ありがとうございます。……ですが、坊ちゃまが危険な目に合うのはとても耐えられません……っ。坊ちゃまはあんなに外を、川を怖がっていたじゃありませんか……。それに、あんな厳つい男たちまで……。あぁ、坊ちゃまの行動理由が私と一緒に過ごすためだと知っては、怒りたいのに怒れません……っ。どうか、このようなことは、二度としないでください。フェリの心臓が持ちませんから……」

「うん……。分かったよ」

 フェリが本当に僕を心配しているのが伝わってくる。母親とはこういう感じなのだろうか。フェリの優しい匂いに包まれながら、僕は目を閉じた。



 次の日、アルは雑事をしっかりこなしている様子だった。アルが叩きを持って客室を掃除している姿は、何だか違和感があって面白い。フェリはチクチクとアルに嫌味を言っていたけど、彼は気にしていないようだった。

 アルのおかげで少し時間が出来たフェリに呼ばれ、書斎に連れて行かれる。そこはいつも祖父とジルドしか立ち入らない部屋だった。

 部屋の匂いを吸うとまだ二人がここにいるような感じがして、懐かしさにジンと涙が出そうになる。必死にこらえたのだが、どうしても流れた涙は腕で拭った。

「坊ちゃま。大丈夫ですか?」

「うん……っ。大丈夫! 領主の仕事について教えてくれるんでしょ? 構わず教えて」

 フェリから領主の仕事について教えて貰う。どうやら大まかに言うと四つに分けられるらしい。


・代表者たちと月一会議を行うこと

・他国、他都市からやってきた客人をもてなすこと

・町で起こっている問題に対応すること

・大きな罪を犯した犯罪者の裁判に参加すること


「月一会議と裁判は顔を出すだけで問題ないとして、問題は二つ目と三つ目ですね。遥々船でこの都市にやってきた相手を、坊ちゃまは持て成さなければなりません。おそらく領主として会食の場に出なければならなくなるでしょう。その際に交わされる会話は千差万別。幼い坊ちゃまには少し難しいかと……。そして、町で起こっている問題についてですが、コスマ宮殿に寄せられた申請書の認否をしなければなりません。申請書には領民からの困りごとや要望が記載されており、ペット探しから船の発注まで、様々な申請書が日々届けられています。時には対応するのが困難なものも出てくるでしょう。一人で判断がつかないようなものは月一会議に議題として提示することもできます」

 ちゃんとフェリの話は聞いていた。だけど、よくわからない。一気に情報を与えられてパンクしそうだ。彼女から打ち寄せられた情報の波に溺れかけていると、フェリはきちんと僕を救出してくれた。

「大雑把に言うと坊ちゃまの元気な姿を見せる仕事と、書類を確認してサインする仕事です!」

「分かった!」

 なんだ、僕は皆に対して元気だと伝えればいいのか。それに、紙にサインすればいいだけなら僕にもできそうだ。おじいちゃんの仕事は楽だったんだなと思った。

 ちなみにコスマ宮殿は月一会議を行う場所でもあり、祖父は船の上か、屋敷の書斎か、コスマ宮殿かで領主の仕事をしていたらしい。

 自分にもできそうだと思ったので、早速領主の仕事に取り掛かりたいと言ったら、彼女は急ぐ必要はないと言う。

「書類の方は私もまだ目をつけておりませんし、月一会議も客人対応もしばらく先の話です。今はお部屋でお休み頂いていて結構ですよ」

 彼女が指さした場所には書類が大量に詰まれており、ゾッとした。今まさに雪崩が起きるのではいかというほど、書類が積み上げられている。

 フェリの言うことを聞いて彼女の邪魔をしないように、しょぼくれながらアルを探す。彼はまだ客室にいた。アルが箒を持って掃除している中、僕は彼に肩車をしてもらいつつ、話を聞いてもらう。

「僕はフェリの役に立ちたいのに、僕に何もさせてくれないんだ。せっかく僕にもできそうな仕事だと思ったんだけどな……」

「……」

 アルは寡黙だ。僕の言葉に大抵「あぁ」「そうか」「そうだな」ぐらいしか返してくれない。

 そんな彼に不満を持って、彼の髪の毛を弄ぶ。金色の髪の毛は手の間を零れ落ちる。跡の付かない髪に悪戯することはできなかったが、感触が心地よくてずっとその髪に触れていた。


ーーあ、そうだ!


 手の感触を楽しみながらずっと一人で考えていた僕は、急にひらめきを得る。

 たしかフェリは領民の困り事を解決することが、領主の役目だと言っていた。それなら、領民に何か困っていることはないか直接聞きに回って解決したら、フェリが見ないといけないというあの書類の数も減らせるはず。

 そういえば、フェリに『一人で出かけてはいけない』と約束させられていた。他にもあった気がするけど、忘れちゃった。真下にいるシロクマに話しかける。

「ねぇねぇ、アル。今、暇?」

 どう見ても絶賛掃除中のアル。だが、そんなことは関係ない。アルは今日初めて聞いてるか聞いてないか分からないような返事ではなく、「え?」という疑問を口に出した。



「僕ちょっとアルと一緒に外に出かけてくるよ」

 アルを連れてフェリにそう言うと、フェリは激怒した。なぜアルと行くのか、自分と行けばいいじゃないか、と口にするフェリを制止する。僕はフェリの仕事を減らしたいのだから、それでは意味がない。

 どうしてもアルと行くと言うと、彼女はおよよと涙を流しながら僕の手を握った。最終的に彼女の方が折れるのが、いつものパターンなのだ。

「坊ちゃま。早くお帰りくださいね……。このクマ男に何かされそうになったら大声をあげるのですよ。あと、お金を渡しておきます。盗まれてはいけませんので、そんなに入れていませんから。うぅ……っ」

 僕はフェリの目元に溜まった涙を拭う。

「フェリ。僕がフェリの仕事を楽にしてあげるからね。ここで僕の帰りを待っててね」

「うぅ……坊ちゃまぁ……っ!!」

 僕を抱きしめながら、しばらく慎ましく泣いていた彼女だったが、アルを見た途端スンとした表情に戻り、涙は引っ込んだようだった。

「坊ちゃまを危険な目に合わせたら許しませんからね!」

 今度はフェリに見送られながら屋敷の玄関を出る。

 舟の漕ぎ手には乗せてもらった後、銅貨二枚を払うのだとフェリに教えて貰った。この茶色のコインを二枚渡せばいいらしい。

 そういえば、酒場まで連れて行ってくれた漕ぎ手に代金を支払っていなかった。もう一度会えたら、まとめてお金を渡してあげようと思う。

 僕とアルは見知らぬ漕ぎ手の舟に乗りながら、揺蕩う舟の上で景色を眺めていた。舟に乗るのがあんなに怖かったのに、一度乗ってしまうと慣れるものなのか、今は全然怖くない。でも、もしかしたらアルの膝の間に収まっているからかもしれない。

 フェリとは違うがアルの雰囲気も好きだ。特別優しくしてくれるわけではないが、ただそこにあって、あまり知らないはずなのに何だか馴染み深い。

「アル、僕の事離しちゃだめだよ。僕泳げないんだから」

「分かった」

 彼の腕に抱えられているのに安心して左右を見渡す。すると、数十メートル先に崩壊している石橋が見えた。

「おじさん、あそこの橋壊れてるよ」

 漕ぎ手が言うには三カ月前からあの状態だと言う。もちろん橋を渡ることはできないし、石が川の底に溜まってしまっているから、その下を舟で潜ることもできない。

 近くの住人が申請書を出して領主の返事を待っているが、認否が通らず宙ぶらりんになっており困っているらしい。

 三カ月前といえば、ちょうど祖父がこの都市を離れた時だった。三カ月前からこういった問題が起こっていて、解決されずに積もりに積もった問題たちが、あの書斎にあった資料の山なのだとピンと来た。

「全く領主様は仕事しろってんだよな。前はキビキビ働いていい領主だと思ってたんだけど、最近は海外や他所の土地に行ってばかりのようだし、自分の都市の面倒を見てもらいたいぜ」

 男は僕のことをその領主の孫だと気付いていないようで、僕の前で平気で文句を零す。でも、彼に何か言い返そうとは思わなかった。

 たしかに、ここ一、二年。祖父はほとんど家にいなかった。彼が亡くなった国であるアムールや遠く離れた国、色々な場所を旅して回っていたと聞いていた。

 領主である祖父が度々海外に出かけていた理由は分からないまま。男の不満は当然かもしれないと思った。

「……おじさん、あそこに止めて」

「あいよ」

 漕ぎ手にお金を渡し、アルと一緒に小さな歩道に立つ。目の前には壊れた石造りのアーチ橋があり、すぐ傍で荷台に石を積んで運ぶ男の人がいた。その石が橋の一部だったものだと気付き、男に話しかける。

「お兄さん。あの橋を直してるの?」

「ん……? あぁ、そうだ。本当は職人に直してほしいんだけどよ、領主に金を請求しても音沙汰がなくて、自分たちで直すしかないんだわ。皆仕事があるから、交代しながらやってるんだが、進みやしねえ。それに、橋づくりなんてド素人だからな。ここに橋が架かるのはいつになるのやら……」

 男は額から流れ出た汗を拭く。一筋の汗が目元に入り、「クソッ!」と悪態をついた。

「その橋を造るにはいくらあればいいの?」

「俺はよくわかんねぇけど……。職人に頼むなら、大型金貨二枚は必要だろうな。自前で払うにはとんでもない金額だろ? だから、自分たちでやるしかないのさ」

 今まで外に出ていなかったからお金に関してはてんで知識がない。必要なものは屋敷にあったし、ほしいものは皆が買ってきてくれた。

 でも、目の前にある問題は領主の仕事だと思ったので、僕はフェリから預かっていた袋を見せ、これで足りるか聞いた。

「ダメダメ。全然足りねえよ。大型金貨一枚はな、小型金貨三枚か、大型銀貨六十七枚か、小型銀貨二百枚か、銅貨千枚の価値がある。坊主の財布には銅貨と小型銀貨だけ入ってて、それぞれ十枚枚ずつしかない。とてもじゃねえけど足りねえよ。まぁ、坊主が持つには大金だけどな」


ーーそっか……。このお金じゃあ橋は直せないのか……。


 僕が財布を見つめて自分の無力さに項垂れていると、男の人が言った。

「しかし坊主。どうしてお前がそんなこと気にするんだ? この辺りで見かけねえし、この橋が使えねえことで不便はねえだろ?」

「ううん! だってこの橋が壊れたままだとフェリが困っちゃうから、関係あるよ!」

「フェリ……? 聞いたことねぇな……。まぁいい。どうしても気になるってんなら、この橋造りを手伝うか?」

「うん!」

 僕にもできることがあるのだと思って嬉しくなる。アルにも手伝ってくれるように頼み、二人で男の手伝いをすることに。

 この橋は元々は石橋だが、とてもじゃないが素人では元通りにできないらしい。途切れた石造りは残してそこに木の板をかけて、簡易的な木橋を作るのだと言う。

 バシャン!

 男は突然川に飛び込む。その行動に驚いて慌てるが、男は平気そうに川の中で立っており、溺れる様子などない。

「ここらの川は浅いんだ。それに今の時間は潮が引いている。崩れ落ちた石を拾うから、持ち上げてくれ」

 どうやら、始めに川に沈んでしまった石を除去する必要があるらしい。最悪橋が作れなくとも、舟が通れるようにする必要があるのだと言う。

 男の説明に納得し、彼から手渡された石を受け取る。手のひら二つ分の石は大きくはないがとても重い。

 男は川の中から石を持ち上げて、上にいる僕とアルに順番に渡してく。小さいものを僕に、大きなものをアルに、男は器用に選び取りながら、僕たちはそれを一生懸命荷台に運んでいく。

 普段かかない汗を吹き出しながら作業している間、この橋まで来てため息をして引き返す人、僕たちに頑張ってと声をかける人たちが沢山いた。どうやらここは人通りが多い橋のようだ。

 僕とアルが石を運ぶのを何十往復かして、男は腰を抑えて苦しそうに上を向いた。その表情はとてもつらそうで、「大丈夫?」と尋ねると問題ないと答えた。

「だが、屈んで持ち上げるのは結構しんどくてなぁ。いつもよりハイペースだから、ちょっと休憩させてくれ」

 男が川から上ろうとすると、入れ違う様にアルが川に飛び込んだ。

「じゃあ、代わりに俺がやろう」

「じゃ、じゃあ僕もまだやる!」

 男が休憩している間に僕たちは作業を進める。大きい石は足場にそのまま置いておき、僕は小さなものを次々と運んでいく。

 しかし、今までこんな肉体労働はしてこなかったので、また何往復かするとさすがに疲れて、男の隣に腰を下ろした。その間もアルだけは作業を続けていた。

 感じたことがない疲労感に襲われながら、未だ一人で川の石を持ち上げているアルを見つめる。すると、隣の男に話しかけられた。

「坊主、ありがとな、手伝ってくれて。奇麗な服が汚れちまって……。ん? お前、手から血が出てるじゃねえか」

 男に言われて初めて気が付いた。親指の付け根が切れて血が出ている。傷の存在を知った途端、痛みを感じ出し、涙が出てくる。なんだかすごく痛いような気がする。

「さっきまで平気な顔してたのに急に泣き虫か。そんなんじゃあ、女の子に好かれないぞ」

 男の聞き捨てならない言葉に耳を疑う。涙もヒュンと引っ込んだ。

「どいうことっ!? 泣くと嫌われちゃうのっ!?」

「あぁそうだ。男は強くなくっちゃな。女に涙なんか見せちゃいけねえ。まぁ、これから一人前の男になりたいなら簡単に涙を流しちゃだめだ」


ーーど、どうしよう……っ。僕、フェリの前でいっぱい泣いちゃってる……っ。


 衝撃の事実を知って、再び涙が出そうになる。それを男に指摘されて、必死に抑え込もうとする。その姿に男は笑った。

 これからはフェリの前で泣かないようにしないと、と僕が新たな決心を固めていると、やっとアルが川から上がった。

「水が増えてきている。荷台に乗らない石はここに置いたままでいいのか?」

「あぁ。脇に寄せておいてくれたら問題ない」

 アルは腰から下が濡れてしまっていてびしょ濡れだ。

「あとはこの石を造船場に引き取ってもらう」

 僕は首を傾げながら、船を作る人が橋も作るのか尋ねると、男は頷いた。

「奴らは何でも作れるからな。今メインで作ってるのが船だから、造船場って呼んでるそうだ。そんで、俺らは奴らから木材を買ってあの橋を作り直そうってわけだ」

「僕、造船場に付いて行ってみようかと思うんだけど、アル、疲れてる? 休みたい?」

「いや、問題ない」

 そうは言うが、目の前のシロクマからは水が滴り落ちている。毛並みが濡れた動物と言うのは何とも弱々しく見える。

「お兄さんちょっとだけ待って。ほら、アルそこに座って!」

 僕はアルの服を手あたり次第、絞って水を出し切ろうとする。下のズボンを脱がせた方が早いのかもしれないが、町の往来でそれはまずい。アルにも促して服を絞らせる。

「アル、靴の中に水が入ってるでしょ? ちゃんと出した?」

「いや。出してない」

「気持ち悪くないの? ほらっ……うぎゃっーー!?」

 アルに靴を脱がせたら強烈な臭いがして、びっくりして尻もちをついてしまった。投げ出した靴が倒れて水が零れ出る。その水は心なしか茶色で、しばらく放心していたが、ハッとしてアルに注意する。

「ア、アル! 凄く臭いよ! 足が臭すぎるよ! 昨日ちゃんとお風呂に入った!?」

「どこに風呂があるか聞いてなかったから、入ってない」

「!?!?!?」

 目を剥きながらアルを見つめるが、彼は目を逸らして知らんぷり。彼は『臭い』と言ったのが気に入らなかったのか、もう一方の靴も脱ごうとしない。

 鼻息を止めながらもう一方の靴も脱がせて、色の変化した水を出す。「今日は絶対にお風呂に入ってね」と念を押し、アルから出来る限り水を絞り取った後、男と三人で造船場へ向かった。



 造船場に入ってすぐに大きな船を組み立てている姿が見え、その大きさに感嘆の声を漏らす。

 今は肉付けされていない骨格しか見えない状態だが、その船が海に浮かんでいる姿を思い浮かべる。今まで僕が乗ったことがある舟と比べ物にならないほど大きいソレは、見ている僕の心を湧きたたせた。

 惚けながら辺りを見回し、僕たちは男に付いて行く。男は大きな声で指示を出している女性に声をかけた。

「親方。崩壊した橋の石はどこに置いておけばいいですかね?」

「裏に資材置き場があるから、そこにまとめて置いといてくれ。ん……? なんだ、そいつらは」 

「あぁ。この石を川から引き上げるのを手伝ってもらっていたんですよ」

 親方と呼ばれた女性は筋肉隆々でそこらの男より男らしい。普段足元からつま先まで肌を隠しているフェリと比べて、目の前の女性は裸に等しい。足元はそうでもないが上半身の服は袖がなく、体のラインがそのまま分かるようになっている。

 僕が彼女をジロジロと見るように、彼女も僕たちを見ていた。

 一緒に来た男は石を置くため、僕たちを置いて向こうに行ってしまう。何とも気まずい雰囲気だが、親方に話しかけてみることにした。

「親方さんは橋を造ったことあるの?」

「あぁ? 当たり前だろう。この都市の橋はほとんど俺が造ったんだ」

 胸を張って応える親方は、堂々として頼もしく見える。やっぱり男らしい。

「じゃあ、親方があの石橋を造ってよ! あのお兄さんは木橋を造るって言ってたけど、やっぱり石の方が丈夫なんでしょ?」

「それはそうだが、金がねぇとな」

「今は持ってないけど、屋敷に来てくれたら大型金貨二枚フェリに出してもらうよ!」

 親方は顔を顰めて僕を見た。

「おい、坊主。あの橋を直したいんなら大型金貨五枚は必要だ」

 親方の言葉に言葉が詰まる。

 大型金貨五枚が必要と言うことは、僕が持ってる銅貨や銀貨が一体何枚必要なんだ?

 僕が目を閉じながら必死に計算していると、親方が話しかけてきた。そのせいで頭の中の数字は吹き飛んだ。

「あの橋が崩れた理由が分かるか?」

「ううん」

「あの橋はな、地盤が緩んでるから崩れたんだ。あの場所にもう一度石造りの橋を造るとなると、まず、あの一帯に木の杭を固い地面まで打ち付けて石を被せ、地盤自体を補強する必要がある。その基礎固めができてから、橋を作る必要があるんだ」

「え? 手始めに川に落ちた石を拾うのが一番最初にやらなきゃいけないことなんじゃないの?」

「それは当然のことだから省いたまでだ。今話しているのは、あの橋を造り直すのに大型金貨五枚がかかる理由だ」

 それは是非とも聞きたいと思い、難し気な話に耳を傾けることにした。

「基礎固めだけじゃねえ、石橋を作るにはまず支保工と呼ばれる石の荷重を支えるための木で作った仮設構造物が必要だ。あの川は浅いと言っても水があっちゃあ作業できねえから、水が流れてこねえように封鎖もしなきゃいけねえ。そうなると、いつもより金がかかるんだよ」

 専門用語を出され上手く理解できない。いや、分かるような気がするけど分からない。すると、アルが僕に簡単に説明してくれた。

「あの橋を造るには川を塞き止めて、地盤を固めて、橋の土台を作って、その上に橋を作るらしい。普通より手間がかかるからお金もかかると」

 彼の説明に驚く。彼はこんなにも喋れるのか。無口なイメージがあったが、そうでもないらしい。

「なんとなく分かったよ。じゃあ、大型金貨五枚用意したら、あの橋を造ってくれるんだよね?」

「まぁ、そうだが……。なんで坊主がそんなこと」

 不思議そうに僕を見つめる親方に、今僕が持っている全財産を渡す。そして、僕は親方の目を見て、彼女の疑問に答えた。


「それは、僕がアルピチュアの領主、ティト・フィン・フィガロだからだよ! 領民の困りごとを解消するのが僕の仕事なんだ!」


「「「なーー!?」」」

 僕の言葉を聞いて、周りで作業していた人も、親方も、皆一斉に固まった。そして、親方は僅かに震わせた口から言葉を吐いた。

「おい、待て。領主の名前はフィルベルテ・フィガロだろうが! お前……っ、いい加減なことを言うなよ。領主の名を名乗るとは罪に当たるぞ!」

 その言葉を聞いて、この人たちは祖父が亡くなったということを知らないのだと気付く。僕はそれを伝え、その地位を引き継いだことを伝えると、親方は激怒した。

「冗談はよせ! あのフィルベルテが死んだだと!? ふざけるな! それに、孫は家に引きこもり、碌に人と喋れないと聞いている。お前は偽者だろう!? おい、このガキと男を捕まえろ。そこらを歩いている憲兵を呼べ!」

「ーー!?」

 親方が言ったことは理解できなかったが、僕を憎んだ目で見ているのだけはよく分かった。周りの人たちも仕事に使うための道具を手に持って、こちらに向かってくる。


ーーな、なんで……!?


 周囲の様子に驚いて、後ろにいたアルにぶつかる。

 さっき泣かないと決めたのに、自分たちを取り巻く雰囲気が怖くてまた涙が溢れそうになった。なぜ、こんなに敵意を向けられているのか分からない。

 剣を抜こうとするアルを止める。敵意は向けられても誰も傷つけたくはなかった。

 そんな僕をアルは抱きかかえて造船場を飛び出す。追いかけてくる作業員から逃げるが、ここは水上都市。走って逃げれられる道は少なく、このままではいずれ捕まってしまう。

 行き場を無くして大勢の男に囲まれた時、アルが剣を手に取った。男たちは少し怯んだが引き下がるつもりはないらしい。

「アル、だめだよっ! この人たちを傷つけちゃだめ! あの橋を直してくれる人たちなんだから、剣をしまって!」

「し、しかし……」

 それでも剣をしまってほしいという僕の言葉を聞いて、アルは剣を鞘に戻す。

 それを見た瞬間、男たちは一声に僕たちを拘束しに来た。素手でも強かったアルは川に何人も投げ飛ばすが、僕が止めるとそれも止めた。

 僕たちは拘束され、憲兵と呼ばれた怖い雰囲気の男たちに乱暴に引っ張られ、よく分からないままに連れていかれてしまった。



ーーここは……?


 目の前に鉄の格子が一定間隔で並んでいる。いつか本で読んで知った、牢に囚われていることが分かり、内臓がギュッと締め付けられる。腕にも足にも枷がついている。思い通りに身体が動かせず、鉄格子を掴んで揺らすがビクともしない。格子は僕の体温を奪っていくように冷たく、傷つけるように錆びている。

「なっ、なんで……!? なんでっ!?」

 混乱しながら動かない格子を揺らし続ける。

「……っ」

 誰かの呻き声がする。自分以外の存在に気付き、狭まった視界を広げていく。

 通路を挟んだ正面にも牢があり、その中にアルが倒れているのが見えた。僕たちは別々の檻に閉じ込められていたのだ。姿を見るまで彼の存在を忘れていた僕は、今度はひたすらにその名前を繰り返し続ける。

「アル! アル! 大丈夫!?」

 僕の声に反応してアルは身じろぎをし、体を起こす。

 ここに連れてこられるまで、頭に黒い布を被らされて状況が掴めなかった。だが、その間にアルは暴行されていたようで、口の端から血が出ているのが見えた。それを見て胸が痛くなる。


 僕がアルをこんな姿にさせてしまったのだ。


 そう考えると、僕の石橋でした決心はグラグラ揺らいで、涙がポロポロと頬を流れていく。どうすればいいのかわからない。ここがどこなのかも、どうして連れてこられたのかもわからない。でも冷たくて汚くてここにはずっと居られない、居たくない場所だということだけは本能で理解した。

 ここには僕たちしかおらず、僕のすすり泣く声が響く。

「俺は、大丈夫だ……。……うっ」

 アルは励ましてくれるが、どう見てもお腹を抱えて痛そうにしている。なんとかしてあげたくて、でも自分じゃ助けられなくて。喉が壊れても構わないと思う声量で、助けを呼ぶ。


「誰かぁっ、来てぇ~~~っ!! アルが、苦しんでる~~っっ! 早く、来てぇっ! 助けてぇ~~っ! 誰かぁ、助けて、よぉ……っ」


 何度呼んでも返事はない。何十回と呼んでも返事がない。それでも、喉に痛みを感じながら、もう一度助けを求めた時、狙ったのかそうでないのか、扉が開くような音が聞こえた。

「おまち……さいっ、セ……さま……っ!」

 誰かの声がする。コツコツとすぐ傍にある階段を下りる足音が聞こえ、それは段々と近づいてくる。キッチリとした服を着こなして、目深く帽子を被った男が僕の前に立った。

 憲兵と呼ばれていた男たちが着ていた服とよく似ているが、目の前の男のデザインは少し異なっていた。

 僕に向けられた目は鋭く威嚇しているようで、口元は固く結ばれて冷たい印象を受ける。いつもの僕ならその姿に怯んで言葉を噤んでしまうが、今は何よりもアルが心配だった。それに僕の声を聞いてこの人は来てくれたんだ、きっと話を聞いてくれるはず。

 男に近づくように格子を掴み、助けを求める。

「アルが苦しそうなんだ! 助けてあげてよ! 僕たち悪いこと、何もしてーー」


 ガァン!!


 目の前の格子が男によって蹴られ、金属音がキィンと耳に響く。鉄格子を掴んでいた手は痺れたように痛み、その男の威圧に押されて尻もちをついた。痺れが全体に伝わったのか、歯がカチカチと音を出し、蛇に睨まれたようで動けない。怖くて怖くて仕方がない。

 男はその固く結んでいた口元をゆっくりと解き、低く冷たい声で言い放つ。

「お前、自分を領主と名乗ったそうだな」

 その目も、その声も、この場所も、おもらししてしまいそうなほど、怖くて怖くて仕方がない。

 しかし、そんな僕を何とか奮い立たせてくれたのは、アルを助けなきゃいけない気持ちと、僕は嘘をついていないという自信だった。腰を抜かしながらも、男の目を見てちゃんと答える。

「そ、そうだよ! 僕が、領主、だもん……っ!」

 僕が必死に絞り出した掠れた勇気を打ち砕くように、男はもう一度格子を蹴り、僕に冷水を浴びせる。

「お前、犯罪者の意識がないのか? 俺がこの都市にいる限り、如何なる罪も許さない。お前のようなガキが、アルピチュアの領主の名を語るなど死罪に値する。連れもお前を幇助した罪で大きな罰を与えてやろう」

 男は異様な笑みを浮かべ、帽子を被った男は再び階段を上って去ってしまった。


ーー犯罪者……? し、死罪……? ぼ、僕は死ぬほど、何か悪いことをした……の……?


 崩れ落ちるように地面に伏して、自分の行動と覚えのない過ちに嘆き、冷たい床に涙を落とした。



 いつの間にかこの冷たい牢の中で眠っていたようで、金属音が耳に届き目が覚める。

 目の前に、あの恐ろしい男がいた。

 男は僕の牢に入ってきて、足枷を外し、襟首を引っ張りながら階段を無理矢理上らせる。おいたした犬でもこんな扱いをされることはない。

 声を出して叫ぼうに昨日散々叫んでいたせいか、声が掠れて僅かしか音が出ない。

「っ! ア……ぅっ!」

「知ってるか、お前」

 僕を人間扱いしない男は、やっと僕の方を向いて顔を近づける。

「犯罪者はなぁ、領主にはなれないんだぞ?」

 男の言葉にゾッとする。首元に刃を突きつけられ、自ら川に飛び込むことを強要されているような気分だ。

「声もまともに出せないお前を、誰も助ける者などいない。よかったなぁ? すぐ楽になれるぞ? 誰もお前に期待しないし、お前の存在を認知しない。いい気味だなぁ、クソ野郎」

 狂気じみた声で、恐ろしい刃が喉元に突きつけられた。もう、喉は使い物にならない。

 アルと引き離され、どこか分からぬ場所に連れて行かれる。投げ入れられるように体を押され、机の前に立たされる。

 上を向くと三人の老人が僕を取り囲むように座っていて、僕は部屋の中央に立たされていた。正面に座っていた老婆と目が合い、目が離せない。今、どういう状況なのか理解できない。

「この子が領主を名乗ったと言う子かの? まだ幼いではないか。それに、誰も来ていないということは孤児なのか?」

「お主も忙しいだろうに、何をそんなに……。はぁ」

「悪戯心であったのではないか? こんな裁判まで開かんでいいだろう……」

 老人たちは僕の姿を見て首を横に振る。しかし、それを後ろの男は許さない。

「子供であろうが罪は罪。この犯罪者を裁け」

「ヤレヤレ……。これだから規則にうるさい男は……」

 目の前の老人が木槌を二回鳴らし、皆が口を閉じた。そして、


「ではこれから、アルピチュアの領主を名乗った罪について審問を始める。少年よ。名と年齢を述べよ」


 四方八方から圧力をかけられ、声が上手く出せない。喉がキュッと閉まったように軌道が塞がれていて、彼らの顔を震えながら見つめることしかできない。先程まで辛うじて出ていた声も緊張のためか出てこない。先ほどナイフを突きつけられたためか、発声機能を失ってしまった。

 喉は呼吸機能まで失われていくように息が乱れて浅くなる。酩酊したようにふらつき、老人の目さえも酷く蔑んでいるように見えてくる。

「なるほど喋らないのか。親に伝えられるのが怖いのか? 黙秘していると立場が悪くなるぞ」

 声の出し方を忘れて、何をすればいいのか分からない。

 きっと僕は犯罪者だから弁解をできないように首を絞められ、声を出せないようにされたのだ。このままでは、なんの弁解もできず、後ろの男が言ったように犯罪者だと認めてしまうことになる。犯罪者の烙印を押されれば、領主になれなくなる。屋敷を追い出され、ぼくは……


 フェリと離れ離れになる……?


 別に領主になれるとは思っていなかった。

 なりたいとも思っていなかった。

 フェリに言われたからなろうとしただけ。

 フェリが喜ぶと思って領主になろうと思っただけ。


 そんな動機でも、行動して領民たちが困っている問題を見つけたら、知らない人でも助けてあげたくなった。人に尽くされてきた僕が、人に尽くしてみたいとそう思えた。やっと、やっと、そう思えたのに……っ!


ーー神様……。今度は僕から領主とフェリを取り上げるつもりなの……?


 僕の足から力が抜け、まるで懺悔するように膝が床についたその時ーー

 バァアアン!!

 後方から豪快に扉が開かれる。

 振り向くと、そこには女性が立っており、その姿は見なれた僕だけのメイド。

 彼女はツカツカと足音を立て僕の元までやって来る。


「坊ちゃまを裁くなど許しません! 即刻解放しなさい!」


 フェリの凛々しい姿が視界に入り、僕は情けなく彼女の前で涙を見せる。泣かないと決めたのに、僕は何度涙を見せれば、気が済むのだろう。

 男はフェリの登場に舌打ちをしたが、フェリは気にせず僕を励ます。

「あぁ、坊ちゃま泣かないでくださいまし……。フェリがすぐに助けて差し上げますからね。皆様方、このような不当な扱いは許しません。坊ちゃまをどなたと心得ますか! 彼はティト・フィン・フィガロ様! フィルベルテ・フィガロ様の孫に当たるお方ですよ!」

 彼女の堂々とした発言に老人たちはフェリの名を尋ねる。

「私は坊ちゃまに雇われているメイドーーフェリーチェ・ヴァレンティーナと申します。フィルベルテ様に雇われた時の契約書はこちらです。私が坊ちゃまの身の保証をいたします!」

 フェリの渡した紙を見て、老人たちはうんうんと頷く。僕を見る目も心なしか優しくなった気がする。

「確かにこのサインはフィガロ様に違いない。では、この子は本当にーー?」

 老人の声を遮り、男が言う。

「おい、待て。このガキが領主の孫であろうと関係ない。領主と名乗った時点で、罪が決定したんだ。罰を与えるべきだろうが!」

 男は僕を恨んでいるのか、親の仇のような目で睨み続ける。眉をピクリと歪めたフェリが、裁判官に言った。

「裁判官。罪に問うのであれば私にしてください。フィルベルテ様がお亡くなりになり、私が坊ちゃまに次の領主は坊ちゃまだと言ったのです。坊ちゃまは未だ十歳の身。まだ代表者様方に認められ、領民にお披露目してから領主を名乗る必要があるとは知らなかったのです。どうか、坊ちゃまを罪にかけるのはお止めください、どうか!」

 フェリの言葉によって僕が罪に問われた理由をやっと理解する。


 そうか。僕はまだ領主でも何でもなかったのか。領主だった人の孫でしかなかった。僕は……、領主じゃない……。


 フェリの必死の懇願により、老人は沙汰を言い放つ。


「被告、ティト・フィン・フィガロを無罪と処す」


 その瞬間僕はフェリに抱きしめられ、後ろの男は舌打ちをした。放心している僕に老婆が振り返り、言った。


「フィガロ様のお孫様よ。そのメイドを大切にしなさい。そして、賢く生きて、おじい様のようにおなりなさい。そうすれば、そなたが『領主』を名乗れる日がくるだろう」


 いつの間にかこの場にいるのは僕たち二人だけになり、段々と金縛りが解けていく。やっと掠れた声を出せるようになって、大切なメイドの名前を口に出した。

「……へ、ふぇぃ……っ! っ、……っ」

「あぁ、坊ちゃま……っ! 喉が枯れてしまっているじゃありませんか! み、水を用意してもらいましょう!」

 僕を支えながら、すれ違った人に飲み水を求めるフェリ。親切な女性が持ってきてくれた水を飲むと、喉が潤って声が戻ってくる。

 水を口に入れて気がついたのだが、僕は喉が渇いていた。あの牢屋では水を飲むこともできなかったのだ。何度も水を飲み、フェリに礼を言って謝る。

「ぼ、僕、領主じゃ、ないのにっ……! 迷惑かけて、ごめんっ……っ!」

「坊ちゃまは悪くありません……っ! フェリが全て悪いのですよっ!」

 フェリが悪いはずがない。悪いのは世間知らずで、フェリに、皆に迷惑をかける僕だ。その瞬間、アルのことを思い出し、僕たちは急いでアルがいるはずの獄舎に向かう。

 憲兵がアルの牢を開けて、僕たちは傷ついている彼に駆け寄る。白い肌には痣がいくつもできていた。

「うぅ……ごめんね、アル……っ。僕が、僕が……っ」

「ティト、そんなに泣くな……。見た目ほど痛くはない。俺こそ、怖い目に合わせてしまってすまない」

 フェリもアルも僕に謝る必要なんかないのに。悪いのは僕なのに。

 拳を握り締め、奥歯を噛み締める。自分の愚かさに腹が立って体が震える。膝の上で震えている拳に優しい手が触れた。

「坊ちゃま。私の好きな坊ちゃまを責めないでください」

「お前は笑っていろ」

 二人のその言葉を聞いてワンワンと泣き出す。僕はこの二人を絶対に大切にすると誓う。このまま泣き虫でもいい。でもこの決心だけは決して崩さないと誓った。

 牢の中で散々泣きはらし、後悔と自分の愚かさを噛みしめながら、僕たちは三人でその忌まわしき建物から出た。


 そこにちょうど酒場に連れて行ってくれた漕ぎ手が、舟を漕いでいるのが見えた。フェリが男を呼ぶと、男は目を丸くして僕たちの方へ舟を寄せてくれる。

「あっ! あれからどうなったの!? 絶対あの三人組にお金を奪われたよね!? お、俺、あの人たち怖くて仕方がなかったもん~~っ」

「……」

「わぁ……、何か凄く暗い雰囲気……。どうした、どうした? あ、メイドさんは始めましてですよね。いやぁ~、奇麗な人だなぁ。あはは……。てか、なんでこんなところにいるの? ここは軍基地と獄舎と裁判所しかないよね? なんで?」

 この場に相応しくない陽気な男の質問に答える。

「……捕まって、裁判にかけられてたの……。危ないところをフェリが助けてくれたんだ……」

「え……?」

 しばらく沈黙が続いた後、絶句していた漕ぎ手が、空気を求める魚みたいにパクパクと口を開いた。

「えっと……、あ、……? な、何? 何、やらかしたの……?」

「名前を名乗ったら、捕まったんだ……」

 男はギョッとしてこちらを見る。丸い目が飛び出しそうに、魚みたいなマヌケ面をする。そして、目を少し泳がせてから、遠慮がちにヒレで触れるように尋ねてくる。

「よ、傭兵を、雇いたいとか、言ってた、くらいだから……。も、もしかして、や、や、ヤバい人……だったりするの……っ? あっ、ヒィッ! やっぱ、何も言わないで! き、聞きたくない! 死にたくない!」

 途端に男は怯えたように震え、櫂を漕ぐ手も震えて川に歪んだ波紋が広がっていく。これ以上話を聞いてくれない男の代わりに、僕はフェリに尋ねた。

「ねぇ、仕事内容の中に犯罪者の裁判に参加するってあったと思うけど、今日みたいな裁判を見るってこと? もしかして、死刑になったら人が死ぬところまで見なきゃいけないの……?」

「それは違うかと。執行場所は軍基地ですし、部外者を中に入れることはありません。おそらく、裁判の行く末を見るだけかと」

 僕たちの会話を聞いて漕ぎ手は小さく悲鳴を上げる。歯をガタガタ震わせているのか、カチカチと音が聞こえる。

「……あの、怖い人は誰なの?」

「坊ちゃまが言っているのは、坊ちゃまの後ろにいた、あの裁判の場にいた男のことでしょうか?」

 僕はフェリの言葉に頷く。

「あれは軍のトップ、元帥のセヴェーロと呼ばれる方かと」


ーーあの人が軍のトップで、元帥のセヴェーロ……。


 なぜ、そんな偉い人物に睨まれているのか想像がつかない。あの目を思い出しただけで涙が出てきそうだ。

「軍は戦時の際には軍兵、平時の際には憲兵と呼ばれます。元々は別れていたのですが、アルピチュアがマリーナ国に組み込まれてから長らく戦争は起こっていないので、両兵は一緒くたにされるようになりました。軍兵はもちろん戦時に命を賭して戦う方々であり、憲兵は都市の治安を守る方々を指します。彼らは犯罪者を捕まえる人たちですが、坊ちゃまを捕まえるなど無能中の無能もいいところですね」

「あの人も月一会議に出るの……?」

 否定してほしかったのに、フェリは気の毒そうに頷いた。僕たちが話している間に、舟が屋敷の近くに止まり、漕ぎ手が目的地に着いたと教えてくれる。

 そういえば今まで男にお金を渡していなかったと思い、袋を探すがポケットにない。そういえば、あの袋ごと親方に渡してしまったのだ。

「フェリ、お金持ってる? 今回合わせて三回も乗せてもらったのに、お兄さんにお金が払えてなくて」

「あ! いらないですっ! タダで大丈夫ですからっ! 早く僕を逃がしてぇえ~~~!!」

 僕たち三人を下ろした後、漕ぎ手は代金も受け取らずに逃げ帰ってしまった。しかし、優秀なフェリは舟の中にキチンとお金を置いてきたらしい。流石だ。


 屋敷に戻り、アルの手当を行う。出血を伴うような傷は口元にしかないようで、骨折もしていないようだった。でも、その白い体は所々変色していた。

 手当をした後、どうやら僕がアルの足を臭いと言ったのが気になっていたのか、彼はその体でお風呂に入りたがる。どうにも放っておけなくて彼と一緒にお風呂に入り、彼は絶対安静で、僕が体を洗ってあげた。しっかりと汚れも臭いも洗い流し、執事が残した服や靴を着たアルは少し身綺麗になった。

「アルには小さかったねぇ。でも、ジルドのが一番大きいんだけどなぁ」

 アルにはサイズが小さいのかパツパツになっていて、その姿を見て笑う。腹を抱えるくらい僕が大笑いしている姿を見て、フェリは言った。

「坊ちゃま……。元気がありませんね。フェリに抱きついてもいいのですよ?」

 彼女の言葉に動けなくなる。

ーーどうしてそんなことを言うのだろう。

 今、僕は涙が出るほど大笑いをしていて、どう見ても楽しそうな姿をしているのに。何をどう見たら、それを元気がないと思えるのだろうか。なんで、彼女にはバレてしまうのか。

 老婆から言われた言葉がずっと頭の中で繰り返し、反芻していた。それが今までずっとずっと離れなかった。泣いている時も、笑っている時も、耳に囁きかけるようにずっと付いて回っていた。

 フェリの言葉で、僕が必死に縫い付けていた仮面が剥がれ落ちた。


「ねぇ、僕って本当にアルピチュアの領主になれるのかな……?」


 この言葉を皮切りに、フェリに体験した出来事、思ったことを全て話した。フェリもアルも黙って僕の拙い説明を聞いてくれる。

「坊ちゃま……。また、私に内緒で私の仕事を減らそうとしてくれていたのですね。お優しくてフェリは涙が出てきそうです……」

 フェリは目を瞑り、上を向いて数秒。顔の向きを戻して僕と目を合わせた。

「確かに坊ちゃまは正式には領主ではないです。領主候補と言いましょうか。前領主フィルベルテ様が亡くなられたのを知っているのは、私たちと月一会議に参加するこの都市の代表者様方だけです。領民に伝えるのは時期を見て行います。領民が何も心配することがない状態ーーつまり、次の領主を立ててから、フィルベルテ様の訃報を伝える必要があるのです」

 彼女の言葉に唾を飲み込んだ。

「あの場でも申し上げましたが、その代表者様方に認められ、領民に新しい領主のお披露目会をすることによって、正式なアルピチュアの領主となられるのです」


 代表者たちに、皆に認められて領主になる。


 代表者の一人はあのセヴェーロだ。彼のような人が他にも何人かいて、僕が領主に相応しいか判断してもらう必要がある。僕は彼らの御眼鏡に適うのだろうか。そもそもその場に立てるのだろうか。

「……フェリ、僕はその月一会議に参加できるの?」

 彼女は真剣な顔をして方法は二つあると言った。

「断言はできませんが、親族として参加できないことはありません。領主が亡くなった最初の会議では、必ず次の領主を誰にするかの話し合いが行われます。その際に前領主様の親族として、フィルベルテ様の遺言や発言を口にしたり、遺書や領主に関する文言を提示するために、出席することは可能です」

 フェリが言ったのはあくまで祖父の、前領主の言葉を伝える親族としての参加だ。彼女は僕の手を取り、もう一つの方法を口にした。

「もう一つの方法は、領主候補として参加する方法です。この都市の領主は長年フィガロ家が実権を握ってきました。坊ちゃまは間違いなく領主候補として扱われるべき存在です。懸念されるのは坊ちゃまの年齢が低いことのみ。その一点のみなのです。坊ちゃまは素晴らしい領主になられるとフェリは信じております」

 フェリの言葉を聞いて、僕は腹を決めた。


 領主候補として、僕は月一会議に参加する。


 どんな目に合おうとも、どんなに苦しんでも、僕の中であの橋を直したいという気持ちは変わらなかった。あの人たちを助けたいと思い、領主になりたい気持ちが湧き上がってくる。それに、フェリは僕をこんなに信じてくれているのだから。

「ねぇ、フェリ。書斎にあった資料の中で石橋の補修工事についての申請書はあった? 見せてくれる?」

 彼女から手渡された資料を見る。申請した人の名前、詳細内容、資金が書いてある。そこに記載されていたのは大型金貨三枚の文字。

「え? どうして……?」

 僕の零した言葉を聞き逃さずに、フェリがどうしたのかと聞いてくる。書類に書いてある金額が、親方から聞いた金額と違うのだ。申請書は大型金貨二枚も足りない。昨日の三人組がそうであったように、親方も吹っ掛けてきたということなのだろうか。

 思ったことを全て口に出す。

「それはおそらく、こういった申請は金額が大きいと認可が下りるのに時間が掛かりますから、最低限に抑えて低く申請したのでしょう。それだけその橋を早く直したかったようですね」

 親方の姿を思い出す。僕たちを憲兵に引き渡した張本人。それでも、僕は彼女を責める気にはなれなかった。だって、必要資金を削ってまで、この申請書を出した張本人でもあるのだから。

「……ねぇ、この申請書におじいちゃんみたいにサインしたらいいの?」

 僕の言葉にフェリは首を左右に振って、それでは意味がないのだと言う。

「じゃあ、大型金貨五枚ある? 今すぐ用意できる?」

 フェリはまた首を横に振る。

「そのような大金はすぐには用意できません……。今の状況でこの申請を通すには、月一会議でこの件を議題に挙げて承認を得るしかありません」

 次の月一会議は三週間後にあるという。僕が領主候補として参加する初めての会議だ。

「でもこの申請書が来たのは三カ月前なんでしょ? おじいちゃんのサインを真似て、出すのを忘れていたことにすれば、申請書は通るんじゃないの? 皆凄く困ってたんだよ、早く直してあげようよ」

「……通ったとしても、怪しまれて調べられる可能性があります。それこそ、坊ちゃまがサインしたことがバレたら、もう一度裁判にかけられ、罪を問われるでしょう。そうすれば、坊ちゃまが通した申請書も却下され、石橋工事も中止になるに違いありません」

「……」

 あの橋が使えなくて困っている人は沢山いるだろう。すぐにでも書類にサインしてあげたいし、すぐにでもお金を渡してあげたい。

 でも、それはできないと言われてしまった。

 僕には彼らを助けてあげられるほどの力がなく、無理を通そうとすれば逆に皆に迷惑を掛かる。

「坊ちゃま。あんな目に遭われたのに、立派に領主の務めを果たそうとしているなんて、フェリは大変感動いたしました……っ。坊ちゃまは間違いなく領主に相応しい方です! 私も全力でサポートいたしますので、一緒に頑張りましょう!」

 僕の手を取ったフェリに深く頷いて、アルの顔を見る。アルも頷き、僕も頷いた。

 今の僕はアルがあんな理不尽な目に遭わされても何もできない。フェリにあんな尻拭いをさせて心配をかける、情けない、何もできない子供だった。


 逆にフェリがあんな目に遭わされた時、僕は彼女を助けることが出来るのだろうか。


 いや、それだけの力も頭の良さも今の僕にはない。今の僕の言葉には一切の力はない。僕には足りないものだらけだということを痛感した。


 彼らに甘えてばかりはいられない。このまま子供のようには過ごせない。


 十歳のままではいられないことを悟り、子供ではなく一人の人間として振舞おうと心に決めた。


 次の日から僕は領主になるために、今できることに全力を尽くした。

 今までは机に座ることを嫌がってフェリを散々困らせていた。そんな僕が、窓際の勉強机の椅子に座り、帝王学、経済学、法学、一般教養、全ての学問に囲まれ、読みにくい読めない文字や言葉を必死に割り砕き、頭に刻みつけていった。

 フェリやアルに時間をもらって僕の知らないこと、分からないことは調べてもらい、教えてもらい、自分の考えを聞いてもらった。間違っている部分は正してもらった。

 そして、時折り窓から見える川をジッと眺めた。あの漕ぎ手が近くを通るのを期待して。約三週間ぶりにその姿を捉え、僕は用意していた袋を握りしめた。



ーーなぜ俺が……?


 ただの舟の漕ぎ手である俺レミージョは、手に持った袋を見つめて嘆いていた。あの獄舎から出てきた恐るべき一団のボス、と思わしき子供に渡されたこの異様に重さがある袋。

ーーこれは一体なんなんだ……?

 中身を見ようと思ったが、首を振って考えを改める。

 見たのがバレれば、あの恐ろしい子供は俺に危害を加えるかもしれない。見た目は愛らしい子供だが、ヤバいやつほど人間社会に取り込もうと、「僕は何の害も与えません」という顔をしているものなのだ。

 この袋の中身を知ったと分かれば、間違いなく一緒にいた大男が俺の口を封じに来るのだろう。

 え、やだ、こわいっ。殺されたくない……っ!

 ゾッとして体がブルリと震えた。


『これを造船場にいる親方に。迷惑をかけて申し訳なかったと伝えてほしい』


 なぜ、何の関係もない俺は彼の言葉に頷いてしまったのか。

 なぜなら、俺はただの漕ぎ手だからである。


 権力あるものには首を縦に振ってしまう性分なのだ。相手は子供と言えども、逆らってはいけないと俺の嗅覚が嗅ぎつけた。しっかりと自分の立場を、正確に捉えていた。

 このできる鼻のせいで、俺は小舟協会の会長の威圧に屈して、最低賃金で働いている貧乏漕ぎ手なのだ。別にビビリじゃないぞ。物事の真理を分かっていて、それに無理に逆らわない賢さを持っているだけなのだ。

 川でも海でも同じ。波に逆らおうとしたって疲れるだけで、思い通りに進めるわけではない。今耐え忍ぶのが俺の戦略なのであり、最善の策なのである。

 そうこう言い訳を立て並べているうちに、造船所近く川に辿り着いてしまった。舟を止めて、抜き足差し足で造船場に行く。

 物を打ち付ける音、何かを削る音、そして、

「わぁ……」

 今は骨組みの姿だが、これは、この船はとんでもない大きさだ。これに乗れたらどれだけ幸せだろうか。こんな船で海を航海するのは、どんなに気分だろうか。立派な船に乗って世界を股に掛けた時、俺はーー


「おい!」


 野太い声にビクリと体を反応させる。振り返ると恐ろしい目つきの女がこちらを睨みつけていた。お願いだからそんな怖い顔をしないでよ。

「部外者がどうしてこんなところにいるんだ!? 早く出ていけ! 憲兵を呼ばれたいのか!?」

「あ、呼ばないで呼ばないでっ! 俺は頼まれごとされてて……っ、親方さんを探してましてっ!」

 女は訝し気な顔で俺を見て、自分が親方だと名乗った。驚きながらも、自分が無害なことを伝える。

「俺はレミージョ、しがない小舟の漕ぎ手です! とあるどこかの恐ろしいお子さんから、親方さんに渡すように言われた預かりものを持って参りました! 何も言わずに受け取って、俺を逃がしてくれれば幸いですっ!! もう何も聞かずに受け取ってくださいっ!」

 親方は、袋を渡した瞬間に逃げようとした俺の襟首を掴んで離さない。

ーーく、苦しい……っ。何だこの馬鹿力……っ。

 親方は袋の中身を見た瞬間、俺を掴んでいた手を離し、言葉を失ったまま袋を見つめていた。その様子を見て袋の中身が気になったので、逃げることも忘れて、殺されるかも知れないことを忘れて、そっと中身を覗き見た。


 そこには小さくて、凄く立派な、精巧な船の模型があった。


ーーこ、これは、凄い……っ!


 その模型を見て、自分の喉元が音を立てて唾を飲み込んだ。

 模型と言っても、その精緻な造りは本物同様に組み立てられている。小さなハンドルまでそのデザインは細かく作られていて、これは一種の芸術作品に違いない。

 親方は震える手で模型を掴み、船首についた像を見て、やっと言葉を発した。


「こ、これは……、伝説の船ベラルドの模型……なのか……っ!? いや、まさか……。なぜ、あの子供が……っ!?」


 親方が口に出したその名前に聞き覚えはない。模型を取り出した際にひらりと落ちた紙を拾い上げ、無意識に読み上げた。


「『これは祖父の友人に貰った船の模型です。祖父からはこれが如何に価値がある物なのかを懇切丁寧に教えていただきましたが、僕はこの模型に真の価値を見出すことはできませんでした。僕が持っているには勿体ないものです。本当の価値が分かるであろうあなたにこれを差し上げます。それと、僕は謝らなければなりません。残念なことにあの石橋を直すためのお金を用意することも、申請書を通すことも今の僕にはできないようです。しかし、あの橋が崩れてしまったことで沢山の人が困っていることを知った今、あのまま放っておくことはできません。どうか、この模型を差し上げますから、あの橋を直してください。大変価値があるものだと聞いています。だから、どうか、お願いします』……」


 あの子供が書いたと言うのだろうか。その下にはティト・フィン・フィガロと記されている。たしか、フィガロはここの領主の名前だったはず……。

 親方は顔を伏せたまま、模型を持つ手を震わせていた。



 正装をした僕はフェリとアルと共に、月一会議が行われるというコスマ宮殿に向かう。今まで一度も見たことがなかったその建物は外観からも荘厳な雰囲気を纏っている。門を潜り抜け、見張りをしている憲兵の脇を堂々と歩く。重厚感のあるドアが開かれ、部屋に誘導された。

「ティト・フィン・フィガロ様ですね?」

 扉の前に立っていた男の問いに頷き、僕は恐ろしき猛者(おとな)が集まっているだろう、円卓の間に足を踏み入れた。


 着席しているのは六人。

 丸い机を取り囲むようにそれぞれ椅子に腰を掛けていて、奥に空席の椅子が一つ見える。壁際にはこの六人の従者なのか、何人もの人間が壁沿いに立っていた。

 その一室の床に足が触れた時、室内にいる全員がこちらを見たような気がした。

 実際には目を伏せていたり、目は合わないのだが、確かに痺れるような感覚を得た。まるで、猛獣小屋に、敵地に足を踏み入れるような、背筋が正される感覚に違いなかった。


 空席の椅子は一つ。あそこが僕が座るべき椅子のはず……。


 その場所を目指して僕の足は進む。座っている者の中には、あのゾッとした睨みをぶつけてきたセヴェーロの姿があった。その隣にはあの裁判所で僕に声をかけてくれた老婆もいる。部屋の中では目を伏せている者、こちらをニヤニヤと見る者、微笑みかける者、興味なさそうな者様々だ。

 部屋の中で、妙に背筋が凍るような感覚を得る。

 セヴェーロではない。彼の後ろに控えている青年。いや、まだ少年と言えるだろうか。その者がこちらに向けてくる視線には言い知れない恨みの念を感じた。


「坊ちゃま。皆様がお待ちです」


 知らぬ間に足が止まり、その場に縫い付けられていた。フェリの声にハッとして、僕は一番奥にあった空席の椅子に手をかける。十二の目が間違いなく僕を見ている。ものすごい圧力と気配を感じながら、ゴクリと唾を飲み下し、小さく息を吐く。


 望んでこの場に来たはずだ。望んで領主になると決めたのだ。


 そして、僕はその椅子に座った。


 座っている椅子は一番大きくて豪華であるはずなのに、こんなにも他の六人が大きく見えるのはなぜなのか。

 机の下で拳を握りしめる。会議が始まってもいないのに、こんなに怯えるなんて情けない。息が乱れるなんて度胸がない。

 舐められてはいけない。

 僕の後ろには心強い二人がいる。必死で自分を鼓舞して、しっかりと前を見据えた。散々屋敷で繰り返してきた口上を述べる。


「フィルベルテ・フィガロの孫である、ティト・フィン・フィガロが亡き祖父の代わり、領主候補としてこの月一会議に参加致します。今回の議題は新しい領主の決定と、三カ月前から、申請されていた石橋工事費用の審議を行いたい。他に議論がある人はいますか?」

 練習した通りに堂々と威厳ある姿勢で話す。恐れずに六人を見渡すが、誰も何も口を開く様子はない。

「では、これから月一会議を開始します。まずは、新しい領主についてーー」

 話している途中に「ちょっと待った」と、隣にいた代表者の一人が横入する。

「まず、私たちは領主候補様に自己紹介した方がよろしいのでは? まずは、私。外交を務めさせて頂いております。アロンツォ・ファブリチオと申します。以後お見知り置きを」

 アロンツォと名乗った男は深々と頭を下げる。その姿は飄々として、身なりが他と違って派手な印象を受ける。

「代表者様方のことは存じております」

 僕は右手から順々に彼らの名前を言い当てていく。

「右手から司祭のフラミニオ様。領民代表のアブラーモ様。財務大臣のガスパロ様。最高裁長官のジュスティーナ様。元帥のセヴェーロ様。ですよね? アロンツォ様」

 頭に叩きこんだ情報を口に出す。敵を知らずにこの場に足を踏み入れたわけではない。

 アロンツォは微笑んだ。

「これはこれは失礼いたしました。領主候補様が私たちのことをご存知だとは。では、まず、領主候補様が仰った石橋について話し合おうではありませんか」

 それは領主が決まってからと言おうとした時、領民代表アブラーモが言った。

「その話題について触れてくれるのは嬉しいが、まずは新しい領主を決めるのが先なんじゃねえか?」

「いいえ。せっかく領主候補様がのこのこ……ごほんっ。わざわざ議題を持って来て下さったのですよ? 彼が都市の問題についてどのように考えているか聞けるではないですか。なので、こちらから話し合った方が良いのではないかと。それに、領主になるには代表者の半数以上の支持が必要です。彼が相応しいか判断する材料の一つになるでしょう?」

 財務大臣のガスパロは頷いて言った。

「では、こちらの議題から始めましょう。私としてもこちらの石橋は商業街へ続く道として、早く手を打ちたかった場所になります。まず、この場所は港にある魚市場から商業街に最短距離で続く道にある橋です。橋が壊れてしまってからは川も封鎖されて、今は港から商業街に行くのに遠回りして対応するしかない状況。逆もまた然りです。こちらが領民たちから上げられた申請書の写しになります」

 円卓の中央に一枚の紙が出される。その紙を誰も手に取ることなく、最高裁長官のジュスティーナがどのくらいの金額が申請されているか、ガスパロに尋ねた。

「大型金貨三枚です」

 すると、アブラーモが割って入った。

「それは少し多くないか? 橋を直すのに、そんなにかかるものなのか?」

「いや、適正かと。石造の橋は通常の木造りより、技術と作業工程が増えますから」

 司祭のフラミニオが尋ねた。

「木で造るのではだめなのですか?」

「たしかにその方が安上がりに造ることができますが、この道は馬車も通りますし、外からやってきた人々が通る道なので、しっかりとした造りにした方がいいかと。長く持ちますので」

 ガスパロの言葉に頷いて、セヴェーロが言う。

「お前がそう言うならそうなんだろう。なんだ? これで終わりか? 拍子抜けだな」

 皆がこの話題を切り上げようとした時、僕は異議を唱えた。


「いいえ、よくありません!」


 座った時と同様にこちらに一気に視線が集まる。その目は僕の意見など必要ないと言っているように見える。それでも、この申請書のまま通すことはできない。その金額は適正価格ではないのだ。本当はーー


「今回の申請には大型金貨六枚を提供するべきです!」


 僕の言葉にどよめきが広がり、この議論を回していたガスパロが口を開く。

「領主候補様。多く与えればいい、というものではありませんよ。財源は無限ではないのです。適切な金額を配当しなければ、財源はすぐに尽きてしまいます。回すべきところは他にもーー」

「ガスパロさん。あなたもこの橋を早く直したかったんですよね? ここに資金を投下すべきだと判断しているのは同じはず。そして、本来この橋造りに必要な資金は大型金貨五枚なんです」

 ガスパロの眉毛がピクリと動いたが、僕は気にせずに続ける。

「申請書に記載された金額は、あくまで早く認可を通したかったから、本来より少ない見積もりで書かれていたんです」

 アブラーモが首を振って割り込む。

「バカな。ガスパロは適正価格だと言っただろう。この都市の資金繰りは彼に任せているんだぞ」

「僕は問題の橋を見て、その申請書を提出した親方本人から直接話を聞きましたよ」

「直接……? なぜ、そんなことを……?」

 僕はフェリたちと何度も議論して導いた、彼らを納得させる理由を述べていく。

「あの橋が崩壊したのは両岸の地盤が緩んでいたからです。地盤の補強をするために木の釘を打ち込んで、石を積み上げて地盤を固める必要があるのです」

 ガスパロは僕の言葉を黙って聞いている。僅かに頷いたのを見逃さなかった僕は、手ごたえを感じた。

「そして、石橋を作るには、石を支えるための木材を用いた仮設構造物を作る必要があります。川の中でそんな作業はできませんから、川を塞き止めて、他の川の流れも意図的に操作する作業も必要です。そして、やっと石橋造りができます。基礎固め、仮設構造物、川の操作、石橋。人件費と材料費を考えたら、大型金貨三枚ではとても足りません」

 誰かがものを言う前に、当件に関係ある問題を次いで報告する。

「さらに、こちらがあの橋を使えないことによって、起こっている問題の一つです」

 僕は隣にいるフラミニオにその紙を渡し、その隣にいたアブラーモも覗き見た。

「ん……? これは水難事故ですか? これが一体……?」

「件数がやけに多いな……」

「そうなんです。あの橋が使えないために、人通りが一気に増えた隣の橋の傍で起きた水難事故が急激に増えているんです。この橋はとても小さい橋で、利用する人は増えましたが、幅は狭く、手すりもないため、軽く衝突しただけでも川に落ちてしまいます。しかも、恐ろしいことにこの川の水深はとても深い。この川は海に直接繋がっているため海まで流されるとかなり危険です」

 僕が持ってきた資料が隣に回されていく。

「よって、一刻も早くあの石橋を造る必要があり、水難事故を減らすためにも両橋の手すり費用を込めて、最低大型金貨六枚は必要だと申し上げたのです。他にも危険な橋は多くあります。追加資金を投資して手すりの設置を優先すべきです」

 拳を握る。言いたいことは全部言った。

 フェリとアルに知恵を貸してもらい、愚かな僕がここまでの弁論をやってのけられたのは彼らのおかげだ。

 六人の顔色を見る。掴みは悪くない。だが、誰も何も言わない。何か、何かもう一押し……。もう一押しーー!


「いやいや、これは実に素晴らしいじゃないですか!」


 アロンツォがニヤニヤとした笑顔を向けて拍手を送ってくる。

「あの石橋は早く直した方がいいでしょう。彼の言っている話から考えても大型金貨六枚は妥当なのでは? ね、セヴェーロさん」

 指名されたセヴェーロは「俺じゃなくてガスパロに聞け」と言う。その言葉にアロンツォは首をすくめる。

「そうですか、そうですか。では、私から一つ。先ほどガスパロさんが仰ったように、この橋は魚市場から商業街へ続く道。この道が封鎖されていることで発生する被害総額は、いくらにのぼるんでしょうねぇ」

「……」

「普通、他所からこの都市にやって来た人たちは、問題の橋がある道に向かいますよね。なぜなら、地図には最短距離と示されてあって、まさか、その道途中の橋が崩れているなんて思わないでしょう? せっかくこの都市で金払いの良いお客様方が、遠回りをさせられて気持ちよくお金を落とすことができず、その上、川に落ちていくなんて……。もう、この都市を嫌っても仕方がないのでは? 経済的にも大きな打撃になるでしょう。領主候補様が言うように、直ちに対応しないと被害はさらに広がると思うんです。どうです? ガスパロさん」

「……たしかにそうです。経済的な被害は着実に大きくなっています」

「では、大型金貨六枚でこの申請書を通すという意見に関して、皆さんどうお考えですか?

 なにか問題があるのであれば口に出していただきたい。……おやおや、皆さま何もおっしゃらないので? 私は賛成ですよ。でも、どうしても気になることがあるんです。領主候補様、質問させて頂いても?」

「……何ですか?」

 この男の雰囲気は独特でペースを崩されてしまう気がする。気を張って隣の男の目を見つめた。

「あなた石橋の作り方についてよくご存じでしたが、その知識は親方さんに聞いたのですよね? つまり、あなたは実際に現地に赴いて、この申請書を出した親方さんに話を聞いた。しかし、これは問題なのでは?」

「どうしてですか……?」

「この申請書は領民の困りごとを、領主や代表者に訴えるためのもの。なぜ作られたかと言うと、全ての領民の困りごとを領主や代表者が聞いて回るなど到底無理な話だからですよ。あなたが一生懸命御用聞きに領民を尋ねに行ったとしても、解決できる問題は精々一日に二件でしょう。あなたが問題を解決する量よりも、問題は多く増え続けていくのです。ですから、全ての問題を書類という形で私たちが把握できるように申請書が作られた。直接領民に困りごとを尋ねるあなたの行動は、本末転倒なのでは? 全ての問題に対し、今回同様、現地まで赴いて御用聞きをすると言うのですか? ねぇ、教えてください、領主候補様?」

 言葉が詰まる。塞き止められたようで、何を言えばいいか分からない。彼の言うことはもっともな話だった。

 そもそも僕が領民の困りごとを探しに行ったのは、フェリの仕事を減らすため、申請書の数を減らすためだった。

 つまり、フェリを思っての行動であり、領主としての行動ではない。

 申請書の成り立ちを聞いた今、僕の行動はかなり本末転倒なものだと知った。嘘をついて申請書を全て舐めてから、重要度が高そうだと判断できたから行動したと言えればいいのだろうか。いや、目の前の相手に嘘をついたら、しっぺ返しを食らう気がする。

 その時、頭の中に口にすべき言葉がひらめいて、何と答えるべきか啓示を得た。

「正直に言うと、僕は申請書の制度を正確に理解せずに行動していました。しかし、当問題を直接この目で見ることで石橋の崩壊という問題だけではなく、あらゆる面から問題を捉えることが出来ました。本来であれば、これは机上で判断しなければならないでしょうが、あなた方は僕が上げた諸問題に関して考えたことはあったのでしょうか。たしかに、そのまま申請書を通せば、当面の問題は解決できたでしょう。しかし、これから起こりうる問題の多くには対応できない。今回の件では、申請書に置ける欠点を示したと言えます」

「ほう? 欠点ですか?」

「僕はこの申請書に優先レベルを記載するとともに、専門家の意見が必要な場合は本人を招いて説明をしてもらう必要があるかと。領主一人の知識にも限界がありますからね。僕はこの問題を一から十まで理解するのに三週間もかけてしまいましたから。皆様のお知恵をお借りできれば、より迅速に対応できることでしょう。申請書の質が上がり、紙面上で重要度が分かりさえすれば、僕も小さな問題について、領民に尋ねに行ったりは致しません」

 自分でも驚くくらいスラスラと言葉が出てきた。不思議な達成感を感じていると、アロンツォは堪えていたものを吹き出すように笑い出した。

「くふふっ……くっあはははっっ!! いやぁ、手厳しいっっ! 申請書の欠点ですか。流石ですねぇフィガロ様! 今、私はフィルベルテ様とお話ししているような気分になりましたよ?」


ーー僕がおじいちゃんみたいに……?


 祖父はいつも心穏やかで優しい人だった。アロンツォの言った意味が分からず、眉を顰める。

「いやぁ……。十歳でそれほどまでに弁が立つとは本当に……っ。私の養子に来ませんか? 領主よりも外交の方が才を発揮できそうですねぇ」

 咳ばらいをしたガスパロが言った。

「では、こちらの申請書、石橋工事に大型金貨六枚の申請に異議がある者は?」

 彼の言葉に誰も文句は言わない。

「それでは、私が代表してサインをしておきます。では、次の新しい領主についての議論を」

 すると、アブラーモがいち早く言った。

「年功序列で考えるとジュスティーナさんになる……、のか?」

「わしはもう老い先短いだろうし、若い者がやった方がいいだろう」

「私も遠慮する」

 どうやらジュスティーナもフラミニオも領主の座に就く気はないらしい。これはありがたい。立候補しようとした時ーー


「あれぇ~~? セヴェーロさんは立候補しないんですかぁ~~?」


 セヴェーロはアロンツォを睨みつける。

「俺は領主になる気はない」

「本当に? 私の勘違いだったかなぁ……?」

 アロンツォは僕の方へ振り返り、今一番言ってほしくないことを口に出す。


「そういえば、領主候補様は一度牢に入ったとか?」


 皆の視線が一斉にこちらに向いた。

 僕が裁判にかけられたことを知っているのは、セヴェーロとジュスティーナだけのはず。アロンツォはどこからその情報を知り得たのか、領主を決める最悪のタイミングでそれを口に出した。

 この件に関して、何か言い出す可能性があったのは二人だけだと思ったのに……っ!

 アブラーモが声を上げる。

「何!? それは本当なのかっ!?」

「加えて裁判にまでかけられたと。その罪は領主を名乗ったということらしいじゃないですか。くふふっ。いやぁ、失礼。私はどうにもこの話を聞いた時から、面白くて、笑ってしまうのです」

 顔を顰めたセヴェーロが言った。

「何がおかしい?」

「おかしいじゃありませんか。あなたは彼がフィルベルテ様のお孫様だと知っておられたでしょうに」


ーーどういうこと……!?


 セヴェーロに視線を向けるが、その表情からは何も読み取れない。

「嫌ですねぇ。もしかして、私怨で動いたわけではありませんよね?」

 アロンツォの言葉にセヴェーロの背後に立っていた、あの恐ろしいほどこちらを睨みつけていた少年が口を開く。

「それ以上、父上を侮辱されるおつもりなら、父上の名誉のため、剣を抜かねばなりません!」

 少年は腰の剣に手を当てる。すると、セヴェーロは少年を手で制止した。

「戯言は止めていただきたい。私は治安を乱すものを牢に入れ、裁にかけただけだ。そこに貴様の言う私怨などという私的なものは含まれていない」

 アロンツォはフッと笑う。ちらっと少年を見ると、目が合いギロリと睨まれた。父親に負けず劣らずの目力だ。でも、その視線に怯んではいられない。僕は彼らの上に立ちたいと思っている、領主になるんだと心に決めたのだから。

「確かに僕は牢に入りました。裁判にもかけられました。僕が自分のことを領主と名乗ったからです。あの時はその名を語るのが罪だとは知りませんでした。その重みもわかっていませんでした。しかし、僕はっ! 心から領主になりたいと思っています! あの時の僕の言葉を、決して罪にはさせません!」

 こちらに視線が一気に集まる。それは驚いたものから、値踏みするような視線に変わっていく。拳を握り、僕に任せてほしいと強く念じる。すると、ガスパロが言った。

「では、彼が次の領主にふさわしいと思う方は挙手を」


 手を挙げたのは僕一人。


 僕自身しか僕が領主になることを望んでいなくて、その手で思わず机を叩きたくなる。


 フェリは言っていた。『年齢が低いこと』が懸念されると。


 これが現実なのだ。子供の僕が彼らに手を挙げさせるほどの力はないのだ。

 現実に突きつけられた悔しさを噛みしめていると、この場を掻き乱すアロンツォが口を開いた。

「あらまぁ、残念ですね。領主候補様。やはり、この場に来るのはいささかお子様すぎましたか? わんわん泣かないのでしょうか? わんわん~ん。お孫さんは泣き虫で引きこもりと聞いていたのですが、泣かないんですねぇ」

 その言葉にずっと後ろで静かに見守っていてくれたフェリが前に出る。

「訂正なさい。坊ちゃまに失礼なことをーー」


「フェリ!」


 僕を庇おうとしたフェリを止める。彼女の気持ちは嬉しいが、ここで守られるようではこの場に立つ資格などない。アロンツォは僕達に言った。

「あぁ、怒らないでください。私は別に領主候補様を侮辱したいわけではないのですよ? 私はただーー」


「アロンツォ、お前がやればいいだろう」


 アロンツォの言葉を遮り、セヴェーロが言った。アロンツォにしては歯切れが悪い返事をする。

「え……? いやですねぇ、私は領主に就くつもりなんてありません。私はアルピチュアにずっと腰を下ろしているつもりはありませんから。私は世界に飛び立ち、交渉して回る方がこの身に合っています」

 少し動揺した素振りを見せるアロンツォに、セヴェーロは追撃する。

「そうか? その達者な口で領民を説き伏せるのはさぞかし上手かろう。そこのガキ候補より、お前の方が領主に立候補してほしいがな」

 すると、アロンツォは笑いながら下を向き、隣にいる僕にしか聞こえないくらいに小さく舌打ちをした。そして、先ほどと同様に笑顔を作って顔を上げる。

「皆様どうやら領主候補様が幼い点を気にしておられるようですねぇ。それは私も同じです。どんなに賢くやる気があられても、領主はこの都市の代表、子供に務まるわけはありません。では、これならどうでしょう?」


 彼は急に立ち上がり僕の後ろに立った。そして、僕の肩に手を当てた。


「私が彼の後見人になるという条件で、次期の領主候補のままこの場に参加してもらうというのはいかがでしょうか。仮にも領主候補なのですから、実際に領主の仕事をしてもらい、彼が成人を迎えたら、晴れて彼を領主として歓迎しようじゃありませんか。私が彼を全力でサポートしますから。ね? ティト様?」

 アロンツォが僕の肩を握る手が強くなる。しかし、これは思ってもみない申し出。僕はしっかりと頷いた。

「よろしい。でしたら、もう一度。ティト・フィン・フィガロ様が次の領主にふさわしいと思う方は挙手を」

 フラミニオ、ジュスティーナ、それにアロンツォが手を上げ、僕も手を上げた。そして、彼は僕にだけ聞こえる小さな声で「このつけは返してもらいますからね」と囁いた。

「いやぁ、これで四対三。おめでとうございます、ティト様。あなたが次期領主に決まりましたよ。おっと、正確には六年後にですね。あぁ、皆様ご心配なさらずに。私が彼に領主としての仕事をサポートしますから、サッ、終わったならさっさと解散しましょう。はい、さようなら、ご機嫌。あ、ティト様は明日屋敷に伺いますね。じゃ!」

 そう捲し立てて、アロンツォは一番最初に部屋から出て行き、それに続いて皆が出て行った。

 この部屋に残ったのが僕とフェリとアルだけになって、急に力が抜けてヘナヘナと椅子からずり落ちる。フェリはすぐ傍で小さく拍手して僕を褒めたたえる。アルは頭を撫でてくれた。

「坊ちゃまっ、立派でしたよっ! 坊ちゃまの威厳ある態度にフェリは何度も涙が出そうになりましたっっ!」

「よく頑張ったな」

「二人のおかげだよ……っ! 二人ともありがとう……っ!」

 何とか首の皮一枚繋がったが、アロンツォと言う男はかなりの曲者だ。彼は果たして僕の味方なのだろうか。全く掴めない不思議な人だった。

 それにあの少年。元帥の息子だからか、ものすごく怖かった。そんなに歳は変わらないだろうに、何が憎くてそんな鬼のような表情を顔に刻めるのだろうか。

 恐ろしい人たちに目を付けられたのだと理解し、身震いした。

 ここへ来た時とは打って変わって、フラフラとした足取りで屋敷に戻っていく。フェリが「今日は坊ちゃまの好きなグラタンに致しましょう!」と言ってくれたので、僕はみるみるうちに元気になった。


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