第3話:お別れ

青いケースの中では、数匹のカブトムシがノロノロと動き回る中で、ひと際大きく立派なカブトムシが一匹ひっくり返って動かなくなっていた。少しケースを揺すってみても反応がないところを見ると、完全に死んでしまっているようだ。


そういえば夏休みに入る前に一度、『すごく立派な角のやつが生まれた!』とバイト先にまで持ってきたことがあったっけ。あの時ばかりは絶対虫に興味がないであろうパートのマダムたちも『あらカッコいい』などと調子を合わせていたものだ。


あんな宝物みたいに自慢していた物が死んでしまったら、そりゃあショックを受けて当然だろう。この異様な状況はそういうことだったのか。


「……先輩、カブトムシもう死んじゃったんですか?」


臥せったまま反応のない幸一郎君をそっとしておいて、台所近くのダイニングテーブルに腰かけ先輩に話しかけた。コンロに火をつけ、肉を焼くフライパンにアルミホイルで蓋をする先輩。ちょっとしてから、今度はジュクジュクと焼き目のつく音がリビングに染み入るように鳴り始める。


「うん。あの子が一番遅く羽化したんだけど、オスはもともと寿命が短いらしくて、昨日とうとう動かなくなった」


先輩の話す声は静かで、キッチンから響く様々な音に混じってその感情を読み解くことが難しい。だけれども、こちらに向く無防備に丸まった背中は、どこか寂しそうな哀愁を感じさせた。


「カブトムシってデカいから、もっと長生きするのかと思ってました」

「カブトムシの成虫は、種類にもよるけど1ヵ月半から3ヵ月くらいしか生きられないよ。特にオスは、メスと多頭飼いした場合交尾で体力を持ってかれるから、メスより早く死ぬのが普通で」

「……めっちゃ詳しいっすね」

「調べた」


何でもないことのように、チラリとカウンターに置いてあるスマホを見て言う。


ああ、そういえばこの先輩はこういう人だった。きっと幸一郎君のために色々調べたんだろう。


今作っている料理だって、何だか凄く手が込んでいることが伝わってくる豪華さだ。鍋やらフライパンやら、肉やら魚やらと調味料がキッチン一杯に広がっていて、さっき開けた冷蔵庫にも色々仕込んであるのが見えた。


大切な弟君のためだったら自分の持てる限り努力して、しかもそれを全く苦にするようなそぶりを見せない。優しくてかっこいいお姉ちゃんだと思う。


……真顔で『交尾』とか言うのは止めてほしいけど。いちいち動揺して顔を熱くしている自分が馬鹿みたいだ。


「料理、あと30分ぐらいかかるから」

「手伝いましょうか?」

「大丈夫」


それきり、またキッチンとにらめっこを始めてしまった。


しばらくその背中を眺めていたけれど、やがて諦めて深く椅子に腰かけ、小さくため息をつく。やることもなく部屋を眺めていると、どうしても以前お邪魔した頃と異なっている部分に目がついた。


リビングのテーブル端に霧吹きと、まだ中身が半分近く残っている昆虫ゼリーの袋。そこから目線を窓際の本棚に移すと、低い位置の所に昆虫の飼い方の本が立てかけてあった。


ああ、この家ではカブトムシもすっかり日常の一部として溶け込んでいたのだな。そんなことを考えて、カブトムシを少し羨ましく思うのは、我ながらどうかしている感情だ。


立ち上がった私は、青い蓋のケースの前にしゃがみ込み、改めてその中を覗く。ケースの側面をカリカリと引っ掻くメスのカブトムシと目が合い一瞬腰が引けてしまうが、流石にもう慣れたもの。所詮はケース越し、こ奴らに何か事を起こすことはできないと高をくくり自らを鼓舞した。


ケースの中心でひっくり返っている例のカブトムシは、何だか少し先ほどと姿勢が変わっているように見える。けど、それはきっと錯覚なのだろう。


チラリ、と。幸一郎君から感じる視線。


私は呟いた。


「この子、庭に埋めてあげようか」

「いやだ」


即座に拒絶が返ってきて、幸一郎君を見る。顔を半分だけずらしてこちらを見返すその目は、赤く充血して涙でぬれていた。そこに湛えられていた感情の強さに、軽はずみな提案をしてしまったと後悔し、動揺してしまう。


私の口は、ついついどこかで聞いたようなつまらない言葉を連呼する。


「でもさ、このままじゃ可哀そうだし」

「いやだ…」

「お墓作ってあげてさ、それで」

「いやだ! ぅあああぁああ!!」


ガバッと起き上がって、とうとう幸一郎君は覆いかぶさるようにプラケースを抱きかかえ、わんわんと泣き始めてしまった。


「どうして、どうして埋めなきゃいけないの!? こんなに大事なのに、お別れしたくないよ! どうしてずっと一緒にいてくれないの!? どうして!!」

「こ、幸一郎君……」


私はすっかり困ってしまって、助けを求めて先輩の方を見た。なのに先輩は知らんぷりするように、こちらを向くそぶりすら見せない。


「っ……」


思わず声が出かけた。でも直前で、ついさっき言われた言葉が脳裏によぎる。


――手は尽くした


――けれどダメだった。


「ただ、それだけのこと……?」


思わず口から漏れて、幸一郎君と目が合っていることに気付いた。いつも明るく朗らかで、後ろ向きなものを全く見せないその顔が、真っ赤に涙に濡れているのには胸が痛む。


「僕、一生懸命お世話したよ? 霧吹きも、餌替えもきちんとやったもん。なのに、どうして死んじゃうの? 僕のお世話の仕方がいけなかったの?」

「ち、ちがうよ幸一郎君。そうじゃなくて」


その続きを言いかけて、ハッとする。きっと、先輩も同じことをしたのではないだろうか。


カブトムシが夏の終わりに死んでしまうのは、どうしようもない自然の摂理だ。どれだけ足掻いたところで、人間には変えることができない。受け入れるしかない。それが答えなのだから。


だけど、今幸一郎君にそれを伝えるのが果たして正解なのだろうか。


幸一郎君の涙。先輩の寂しそうな背中。


どうしてもそうとは思えない。ならば、私が掛けてあげるべき言葉は……。


「きっと、きっとさ」

「……」

「カブトムシは嬉しかったと思うよ。幸一郎君にそんなにお世話してもらえて」


口から出てくるのは、昔母親に掛けてもらった言葉。飼っていたハムスターが死んでどうしようもなく悲しくて、毎日泣いていた時に言われて、ずいぶん気持ちが救われたのを覚えている。


「『幸一郎君ありがとう』って、きっと今ごろ天国で言ってるよ。だから、幸一郎君がそんなに悲しい顔してたら、カブトムシだって心配しちゃうんじゃないかな」

「……そうなの?」


幸一郎君の表情が変わった。


「そ、そうそう。だから、カブトムシに体を返してあげよう。そのために埋めてあげるんだよ」


我ながら、口から出まかせを言うものだと思う。私は信心深い人間では全くないし、今口にしていることだって自分自身全く思ってもいないことばかりだ。そのことに、若干心に疚しさが走る。


だけど、涙を止めて鼻をすすり、じっとケースの中を覗き込むその顔を眺めていたら、自分はきっと間違ってはいないと信じることができた。


「うん、そうする」

「幸一郎君……!」

「恵茉お姉ちゃんも手伝って」

「え……」


し、仕方がない。これは幸一郎君のため、幸一郎君のため……。


慣れたとはいえ、死骸とはいえ……いや、死骸だからこそ、今にも動き出すんじゃないかという恐怖感と戦いながら、私は幸一郎君と一緒にカブトムシを庭に埋めた。悲鳴を出さずにいるのが精いっぱいで、自分が何を手伝ったのかさえ覚えていないが。


気付いた時にはカブトムシを埋めた穴の前で、熱心に手を合わせる幸一郎君を隣でぼーっと眺めていた。


何だかその横顔が少しだけ凛々しくなったような、妙な感慨を胸に抱きながら。

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