第2話:バイト先での一幕
店のドアをくぐり、同僚に挨拶をしながら更衣室へ向かう。平日、夕暮れ時を過ぎたぐらいのファミリーレストランはまだ静かなもので、これから始まるピーク時間の騒がしさを逆に予見させるようだ。
今日も忙しくなりそうだ、なんて小さくため息をしながら休憩室へと入る。誰もいない。
「ふぅ……?」
シフトが始まるまでまだ時間があることを確認し、ロッカーに荷物を入れて一息ついた。
ふと、一瞬視界の端に映ったものが気になり、テーブルの上に目を向ける。結構大きなプラケースが置いてあって、中には土がギュウギュウに詰まっていた。
「何これ」
ファミレスの休憩室には似つかわしくない怪しい物体に、疑問符を抱きつつケースをグルグルさせてみる。どこを見ても土・土・土で、変化もなく退屈な景色に、一か所だけ空洞のようになっている部分があった。
中に何かいる。
それに気づいた瞬間、嫌な予感がした。私の中の本能の部分が、これ以上はやめておけと警鐘を鳴らしている。しかし、好奇心の虫には勝てずつい私は、穴の部分を目を凝らして覗いてしまった。
暗い穴の中、白い影がもぞもぞと動いていた。
「ぎやああああああああ!!」
「ちょっ、福沢さんどうしたの大声出して」
「なになに、どしたの!?」
すぐ隣の部屋にいた店長と、キッチンの人まで駈け込んできて、私は地面にへたり込んだ姿勢のまま震える手でケースを指差した。
「つ……土の中、虫、超キモい……」
誘導されるままに視線を机の上に向けた二人は、事情を察したのか気の毒そうな顔をした。
「ほらあ店長、だから休憩室なんかに置かないでって言ったでしょ」
「えぇー。そ、そんなに気持ち悪いかなぁ……ごめんね福沢さん、これはね……」
顔の前で手を合わせ、謝罪のポーズをとる店長。相変わらず上の空のままの私に、申し訳なさそうにケース内の怪生物について話し始めた。
何でも店長の息子さんが去年飼っていたカブトムシが卵を産み、それが孵って増えすぎてしまったため貰い手を募っているということだそうだ。話を聞きながら、私は自分の顔が歪むのを抑えることができなかった。
「ええ……私絶対いりませんよこんなクソでか芋虫、同じ空間にいるだけでも無理です」
大きくバッテンマークを作り、断固拒否の姿勢を作る。成虫になるまでこのまま世話はいらないとのことだが、そもそも虫自体が生理的にダメなのだ。
「だ、大丈夫。もう貰い手は決まってるから」
困ったように笑いながら、しかし店長はあっさりとその身を引いた。バイト先にカブトムシを持ってきたのは探し手を募ってのことではなく、既に決まった引き取り先に渡すためだったらしい。
一体誰だ、そんな奇特な奴は。
「失礼します……
「え、先輩? ヤバ、もうそんな時間」
自分よりも30分遅いシフトに入っている先輩が休憩室に現れたので、慌てて時計を見る。しかし、時刻は未だ私の勤務開始時間の5分前を示していた。先輩の方が早く来すぎているだけのようだ。
それを疑問に思う間もなく、続けて休憩室に入ってきた小さな人影がぺこりと頭を下げた。
「しつれいします! 店長さんも恵茉お姉ちゃんもこんばんは!」
「幸一郎君? あれ、今日お母さん夜勤の日だっけ?」
幸一郎君は私のバイト先の先輩……徳永
『勉強したり本読んだり、それにみなさんが話しかけてくださるから大丈夫!』
と明るく言い切ってしまうあたりが彼の愛嬌の良さたる所以なのだ。素晴らしい。
「ううん、ちがうよ」
「え、じゃあ単純に私に会いに来てくれたとか? 幸一郎くーん!」
「店長さーん」
腕を広げる私の横を通り過ぎて店長に駆け寄る幸一郎君。私の心に寒々しい風が吹く。うう、なぜあんなキモイ虫を持ち込むようなオジサンなぞに負けなくてはならないんだ。
「恵茉、何してるの」
「先輩聞いてくださいよ! あれ何だと思います!?」
私はせめて愚痴だけでも先輩にぶつけようと、テーブル上の物体Xを指差した。先輩にも一緒にキモがってもらって、せめてもの留飲を下げようといった旨の作戦である。
「知ってるよ、カブトムシでしょ」
「え?」
そんな私の計画に反して、先輩は普段通り感情の薄い細い目のまま視線を前に向けていた。間の抜けた声を上げた私が視線の先を向くと、そこではちょうど幸一郎君が店長からプラケースを手渡されていた。
「ありがとうございます、店長さん!」
「いやぁ、礼を言うのは僕の方で……徳永さんありがとうね、引き受けてもらっちゃって」
「いえ、欲しいって言ったのは弟なので、私は何も」
「え? えぇ?」
私を蚊帳の外に話は進み、いつの間にやらカブトムシを中心とした和やかな空気が休憩室には漂っていた。
ああ、シフトの時間が迫る。
そわそわしている私に気付いた店長は、またまた気の毒そうな目をこちらに向けた。
「福沢さん、虫が嫌いらしくて……幸一郎君、このまますぐに持って帰れるかな」
「ええー! 恵茉お姉ちゃんカブトムシ嫌いなの?」
「え、いや、それは」
幸一郎君の寂しそうな表情が私の心をチクリと刺す。
いや店長、それは別に今言わなくてもいいじゃないですか。そういうところですよ、本当。そういうこと言っちゃったら……。
「同じ空間で息するのも無理なんだよね?」
「店長、ひょっとして結構根に持ってます!? そこまで言ってませんよ!」
「え、じゃあ恵茉、家に来れなくなっちゃうね」
そう言って幸一郎君の横にしゃがんだ先輩が私を向いた。カブトムシのケースを持ったままの幸一郎君も、さっきと同じ悲しそうな表情でこちらを見ている。御幸先輩の表情は相変わらず変化に乏しいけれど、すぐ横に並ぶ弟君の表情も相まって、彼女が残念がっていることがよく分かってしまった。そんな二人分の視線に射抜かれてしまったら、それはもう反則だ。
私は観念し、更衣室のドアの取っ手を掴み、呟いた。
「い、いやいや余裕ですし。超好きですよ、カブトムシ……本当に」
その日、私は帰ってから虫系の動画を見て漁った。そして気絶した。
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