第25話 雪消月:寂しがりやの君へ02

 鎌倉駅、と書かれた看板を見て、呆然とした。

 記憶を辿れば、自分の家は横浜だったように思う。あちこち粗はあるが、自分で設計した家だ。富岡の高台に建てたそこからは海も見え景色も良い。辿り着くまでの坂がつらいところではあるが、車で移動すれば問題ないだろう。

 しかし、見るもの聞くもの何もかもが新しいものばかりで、今が自分が知っている『今』ではないことを何となしに悟る。

「こりゃあ、随分変わってんなァ……」

 路線地図も、自分が考えているよりかなり様々な場所に行けるようになっていることに驚きを隠せない。移動のことを考えようとすると、頭痛がそれを阻む。まずは、休息を取ることが大事だという考えに至り、まず自分の記憶と誤差のない場所へと足を向けることにした。

「……まあ、八幡さんならええやろ」

 途中に茶屋でもあればいいが、などと思いながら、まずはゆっくり歩くことにした。

 

 夕闇から夜の色に変化してはいたが、人手はそこそこあって賑やかだ。ただそれは駅の方に向かう波であって、店もどんどんと明かりを消している状態であった。それでも記憶より随分明るいように思う。

 横道に入り、大通りに出ると真正面に見覚えのある朱色が緑の斜面に鮮やかに咲いているのを見つけることが出来た。鶴岡八幡宮だけは記憶にはあったが、その周囲はすっかり変貌を遂げていて、正直面食らってはいる。ただ道そのもの自体は変化はないのだろう、と思うが。なにぶん、脈打つような痛みが記憶と照らし合わせるのを避けている。

 に、しても。

 それでも、何となく慣れた足取りであることに我ながら驚いていた。以前来たことがあるかのようだ。くわん、とまた頭の中で銅鑼が鳴らされたような強い痛みが響いた。う、と呻きそうになるのをかろうじて堪えながら、ようやっと大鳥居の前まで歩き切ることが出来た。薄っすらと闇が満たしているが、社殿の方には明かりが灯っている。どうやら、遅くまでここは参拝客を受け入れているようだ。

 しかしながら、茶屋などは閉まっているようで、まずは座って休憩できるような場所をと、ゆるゆると歩き始めた。左手に見える源氏池の方向へと進むと社務所と幼稚園、と書かれた建物が見えてきた。そこの奥に休憩所があるらしい、と地図で確認しながら、まずはそちらへと向かった。そこは椅子が並べられた簡易的なものであったが、少し休む分には丁度いいくらいだ。

 息を、ひとつ吐き、座り込む。ずくん、とまた頭蓋骨が割れるかと思うような痛みが、全身を駆け抜けた。

 休んだら、家に戻ろう。そうすれば、転がることが出来るのだ。

――ああ、でも家は、寂しいか。

――なら倶楽部に行くか。あそこなら、菊池もいる。

 菊池。菊池寛。あいつがいるところなら、まず寂しくはないだろう。なら行き先は変更だ。またあの路線図とにらめっこをするのかと考えると、目眩がするが仕方がない。

 ふう、と吐いた呼吸は浅かった。

 座っているにも関わらず、目眩で身体が倒れそうな気がする。何とか体勢を整えながら、かじかむ手を少しでも温めるべくポケットに手を突っ込んだ。そこで、指に何かが当たる。

「何、やろ、これ」

 見覚えのないお守り袋が出てきて、面食らう。どこのものかもわからない、というよりは明らかに手作りだ。子どもが作ったものだろうか、と考えたが貰った記憶がない。

 と、不意に、誰かの声が聞こえた気が、した。


『もし、宗が大変だな、きついな、しんどいなって時には、それ中開けていいやつだからね』


 懐かしい、声だった。しかし、記憶が導き出した声の主は今はもういない筈だ。

 どうしてその男なのか、わからなかった。けれども、何となく理解する。

――今は、開けて良い時なんやな。きっと。

 どうせ、気休め程度の何かだと、思った。だから、その声に従ったのは気紛れにも近かった。

 袋からつまみだしたのは、随分と綺麗に畳まれた便箋、であった。

「な、ん……?」

 激痛と、寒さに震える指で、それを開く。

 それは微かな明かりの中で、うっすらと文字を浮かばせた。


 遠くで。

 奴が笑った気がする。


『さあ、踏み込んでこいよ』


***


 斎藤が彼等の家に到着した時、まず最初に目にしたのは不安げな表情で身体を強張らせた花の姿であった。しかし、ぐいと目をこすり、こちらに気がつくと立ち上がる。

「斎藤さん」

「全く、君のような可愛いお嬢さんを泣かせるとは、ここの男性陣は揃いも揃って困った方々ですね」

 それを言われるとさあ、とその後ろで苦々しい表情を浮かべるのは龍一――芥川龍之介だ。夏には彼が命日に引っ張られ危ういこととなった。その時は宗一が連れ戻してきたが、夜中しかもどこにいるかわからない、ということで花は斎藤と共に家で帰りを信じて待っていたのだった。本当は一緒に探しに行きたかったろうに、気丈にも帰ってきた彼等へと食べさせる料理を作っていたのを思い出す。

 早く見つけねば、と玄関から上がらぬままに斎藤は本題に入った。

「僕も周辺を探しましょう。彼は確かに様々な場所に縁がありますが、行動範囲は限られてくるでしょうし」

「と、いうと?」

「例えば住んでいた田端、あと文藝春秋倶楽部のあった木挽町……京橋方面になりますか。他、生まれの大阪やお仲間にお借りしていた七里ヶ浜借家などなど、正直数え出すとキリがありません。ただ、彼が今ここで得た知識で移動するとなると少々幅が狭くなるかと」

「ここで得た知識?」

 首を傾げると、そうですねえと斎藤は少し考えた。

「電車でどの辺りまで行ったか、また移動できることがわかるか。それによってもっと範囲は狭まります」

「横浜くらいまでなら、宗一さんひとりで出掛けたことがあります。中華街のお土産買ってきてくれたし」

 そういえば、そんなことがあった。今にして思えば、一番大きな図書館で自分について調べに行ったのだろう。その帰りにどういう経緯でそうなったのかはわからずじまいだが、中華街の土産袋を持って帰ってきたのだ。

 と、なると。

「横浜に絞るとなると、最後の住処にと建築した富岡の跡地、あとはお墓のある長昌寺、ですか」

「今の時間、から?」

 そこそこの時間が経過しているように思う。電車で動くにしても、着くのは夜中だ。そんな状態でひとりにしては危ないに違いない。

「車を出しましょう。それならば、ここから走っていけますから」

 それならば他も回れるし、花も一緒に連れて行くことが出来る。すくり、と立ったその瞬間。

 ポケットからぽろり、と何かが落ちた。そしてぽおん、と跳ねる。


「戸を開けてくれないか!」


 う。

 うわぁぁぁぁぁぁぁ!

 この状況でとんでもないものが出てきた、と斎藤は頭を抱えたくなった。ふ、と振り返ると揃いも揃って固まっている。そりゃあそうだ。このただでさえ頭の中が混乱する状況に更に混乱する要素を加えてどうする気だ、と握り潰したくなった自分は悪くない。

 しかしぽよん、と戸にぶつかって跳ね返り、また玄関でぽん、と跳ねたそれ――菊池は、甲高い声で繰り返す。

「早く開け給え!」

 がらり、と開けたのは何か思惑があるのだろうということと、一刻も早く退場願いたかったからだ。少なくともこの大変な時に説明出来るようなものではないのは斎藤が一番理解していた。声で判別されないことを祈りながら振り返れば。


「待って! 僕も連れて行け!」


 コートを掴んだ龍一が靴を履いたところであった。

「あの芥川さん、その」

「花ちゃん、ごめんね! すぐ戻る!」

「は、はい!」

 龍一の声に、躊躇いもなく頷く。その背中を追いかけながら、ああそういえばと斎藤は自分の考えが杞憂であることを理解した。


 彼等は、親友だった。そして長い時間を共に過ごしてきた同志だったことを。


「菊池! こら! 僕を置いていくんじゃない!」

 龍一の声が、遠くに聞こえた。

 ああ、全く。揃いも揃って動じない人達だ。ふう、と小さく溜息をつくと、傍らに花が立ち顔を覗き込むように見上げていた。

「あの、斎藤さん」

「……なんですか」

「あの丸いのは、一体」

 彼女には説明してやらねばならないだろう。まあ、あの姿で見当をつけろ、というのは無理な話ではあるが。

「あれは、文藝春秋創設者にして、かの芥川賞直木賞創設者でもある、そして彼等の親友でもある菊池寛、ですよ」

 ぱちり、と目を丸くする花の様子を見て、確かにその説明で納得出来かねるだろう、と更に言葉を続けようとした斎藤を、花の声が遮った。

「ええと、なんと言いますか。その、菊池さんって、丸いんですね」

「ええー……第一印象、それでいいんです?」

 あんまりにも見たままの感想に思わず返してしまった。

「でも、そういう姿でも心配になっちゃってこっちに来ちゃうくらいに、あのふたりを好きなんですね」

 とんでもなく素直で、ありのままを受け止める子だ。それを聞いた斎藤の方が目を丸くした。

 信じられるんですか、あれを。思わず問いかける。

 しかし、彼女は笑って答えたのだ。


「だって、あの二人が一緒にいること自体がもう、摩訶不思議じゃないですか。今更ですよ」

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