第26話 雪消月:寂しがりやの君へ03
必死に記憶を手繰りながら、よたよたと暗い道を歩く。
正直、頭は半分に割れてしまうんじゃないかと思うくらいに痛いし、身体は寒いのか熱いのかすらも自分で判断出来ないほどだし、意識は時々ぶつぶつと途切れがちになっている。
砂嵐のように、ざ、と思考が途切れる。しかし、それに怯んではいけない。歩け、歩くのだ。
壁伝いにゆっくりと、だが確実に一歩を刻んでいた時に、壁を辿っていた手とは反対側の手を何かがきゅっと、握る。
「お困りのようですの」
聞き覚えのある声であった。かなり年齢は上の男の声で、手をゆっくりと引き始める。こちらのペースに合わせて、進んでくれるのは助かる。助かるが、彼はまるで自分が何処に行こうとしているのかを知っているかのようだった。
微笑を浮かべているのが、何となく伝わる。
「もう少しですよ」
「……何処に、行くのか、わかってんです……?」
浅い呼吸の中、何とか質問を形にすることが出来た。
「そりゃあ、勿論」
引かれていた手から、すうっと温もりがすり抜けていく。ポンコツになりつつある脳の幻覚かもしれない。しかし、声ははっきりと耳に届いたのだ。
「そこは、私の家ですから」
え。
ざあっ、と再び砂嵐が、意識を途切れさせる。かくん、と膝が抜けたのがわかった。受け身を取る余力が今は残っていない。地面に叩きつけられる、その激痛を覚悟してぎゅっと目を閉じた。今更痛みがひとつふたつ増えたところで、代わりはないのだ。どうせこの身体は、もう。
「宗!」
名を呼ぶ声が、聞こえた。
瞬間、背中を何かに支えられ、受け止められる。が、しかしそのままバランスは崩れ、どたぁん! という派手な音と衝撃が全身を駆け抜けていった。
「いったぁい!」
「芥川! 直木! しっかりしたまえ!」
悲鳴と聞き慣れた声が、続く。
しかし、身体はしっかりと抱きとめられているのだけは、よくわかった。ずくずく、と頭の痛みは治まる気配はない。だが痛みより、驚きの方が上回った。
「怪我は、ない? 大丈夫?」
身を離して、顔を見ればへにゃ、と笑みがこぼれる。
その男を自分は、知っている。砂嵐に呑まれそうな記憶の中でも、鮮やかに残っている。
あくたがわ。
「……龍?」
じく、と痛みが、また頭の中を巡っていく。しかし、今はそれに負けるわけにはいかなかった。目の前に、忘れちゃいけない存在がいるというのに、先刻のように奪われるわけにはいかなかった。
「うん。有難う、忘れないでいてくれて」
「そりゃあ、お前、アレ」
それだけ言えば、ああ、と手を引きながら彼――龍一は苦笑いを浮かべる。
「アレ、開けたんだ」
「……おん」
手作りのお守りに入っていたのは一枚の便箋だった。
そこには見覚えのある一文があった。前後がなければ多分初めて見た者はわからないだろう、その文を自分は。植村宗一は良く知っていた。
芥川龍之介の随筆に『亦一説』という題名のものがある。その欠片。
あれは、まるで挑戦状のようでもあったし、招待状のようでもあった。
『大衆文芸は小説と変りはない』
『唯僕は大衆文芸家が自ら大衆文芸家を以て任じてゐるのは考へものだと思つてゐる』
『大衆文芸家ももつと大きい顔をして小説家の領分へ斬りこんで来るが好い』
『さもないと却つて小説家が(小説としての威厳を捨てずに)大衆文芸家の領分へ斬り込むかもしれぬ』
「煽るようなもんばかり、選び、おってからに」
ぜえぜえと言いながらよろける身体をよいしょ、と背負われる。まさかこの男に運ばれることになろうとは、正直考えもしていなかった。非力非力と揶揄していたのに反発したのかもしれない。考えてみれば、昔から負けず嫌いなところはあったような、気がする。
「だって宗は、そっちのほうが効くだろうと思ってさ」
そしてこちらの負けん気の強さも理解されている。自分と、この男は、そういうところは似ていた。だから、何をすれば効果的なのかもわかっていたに違いない。現に、引き戻されてここにいる。ちゃんと帰る場所を思い出すことに成功しているのだから、思惑通りというところか。
「まあ、小説家として負けられないってのはあるにしてもさ」
「……なんや」
身体に力が入らない。よいしょ、と背負い直されて、また彼は歩き出す。
「僕や、あの子には負けてよ」
それは、懇願に近いものだったのかも、しれない。
「別に、勝たなくたっていいじゃないか。僕達は、別に強い君を望んでいるわけじゃないんだ」
ぽつ、ぽつと、それは雨雫のように落ちていく。
ああ、そうか。どうしたって自分は強がらないと生きていけないと思っていた。そうしないと、中身が脆いことが知られてしまう。知られたら最後、だと思っていたのだ。
今までが、そうであったから。
直木三十五、という守りの壁は非常に良く出来ていた、と思う。唯我独尊、不敵が常の男。少しだけ愛嬌を混ぜ込んだそれは、あの時代の自分の殻として機能していた。それは今でも同じだと、思っていた。
しかし、今は違っていたのだ。
「良いんだよ、弱くても。それでも、僕も、あの子も、君を見限ったりなんか、しないんだから」
遠くに、明かりが見える。そこに、小さな影があるのを霞んだ視界の中でも、見つけることが出来た。近づくにつれて、それが帰りを待つ『彼女』だと理解した。
「おかえりなさい」
微かに震える声で、泣いていたとわかってしまった。ああ、泣かせてしまったのだ、と痛みの波が絶え間なく打ち付ける中で、胸が締め付けられた気がした。
泣かせたくなかったのだ。遠い遠い、あの日。寂しがらせたくないばかりに遠く吉野から住んでいた大阪まで毎週末通い続けた、自分を慕う少女に似た、彼女を。
「……はな、ほんま、ごめんな」
手を伸ばしたのを理解して、龍一が身を屈めてくれたのが分かった。指先が、彼女の――花の頬に触れた。雫が爪を濡らし、そっと指の腹で拭う。
「泣かせて、もうたな」
「いいんです」
涙がほろほろとこぼれたまま、柔らかに笑う。
「泣きたい時は、私、遠慮なく泣くんで。だから、宗一さんも泣きたい時は、泣いて下さいね」
どうしようもなく、赦されてしまっている。
この二人には、敵わない。全く、白旗を掲げるしかないではないか。じわ、と目頭が熱くなってきたのは、身体を巡る痛みのせいだろう。そうでないと、困る。
「ああ、うん。言い忘れてたや」
龍一が、ちょっと泣きそうな、それでいて笑みが含まれた声で続ける。
「おかえり、宗」
***
ほ、と安堵の息を吐き出せたのは、日付が変更して暫く経った頃だったろうか。
宗一が漸く寝息を立てたのを確認して、龍一はそこで身体を巡っていた緊張をほどくことが出来た。
「龍一さん」
台所から、花が熱いお茶を入れたマグカップを三つ持ってくる。
「あれ、斎藤さんは?」
「ちょっと諸用で出てる。すぐ戻るって」
確認したいことがある、と言って先刻家から出ているが、戻ってはくるだろう。置いていったものが、あるからだ。
龍一は、ちらり、と視線を下へと移動させる。
丁度、眠る宗一の頭の辺りに、ぼんやりと手のようなものが浮かんでいる。丸っこいその手は、何度も何度も、眠る彼の髪を撫でていた。親友を慮る、その気持ちは大変理解は出来るのだけども。
「……あのさあ、菊池。手しか出せないの? 見てる側からしたら、ちょっとしたホラーなんだけども」
「仕方がないだろう。僕は今生後六ヶ月過ぎたばかりのベイビーなんだぞ。身体の形成が出来るほど、こっちにエネルギーを使えないんだよ」
べいびー、と思わず呟いてしまった。それに、手、もとい菊池寛は少しの沈黙の後、ぼそぼそと聞き覚えのありすぎる甲高い声で言葉を続けた。
「それにしても、芥川。君、驚かないんだな」
ホラーとか言っていた癖に。そう言われて苦笑いを返す。
「いや、もう何か菊池だなあ、って思ったら納得できちゃってさ」
そういう男だ。この菊池寛は、自分の懐に入れた者への情が深すぎる。深すぎる故に、出来る限り尽くそうとする。自分に対してだって、そうあろうとした。だから、居なくなった後、彼が嘆き悲しみ、そして自責の念を抱いたのが想像に難くない。それから、宗一、もとい直木三十五に対しても、彼がこの世を去るまで傍にあろうとしたのも。
だから、自分達が迷いを抱きながら生きるかどうかの岐路に立っているなんて知ったら、じっとなんかしていられる筈もないのだろうというのも自然だと思ってしまうのだ。どんな姿でもなりふり構わずに助けに駆けつける。大袈裟でも何でもなく、菊池はそういういきものなのだろう、と、言ったら恐らくちょっと怒られるかもしれない。
「君達が、悪いんだよ。相変わらず、すぐ考え込んですぐ抱え込むから」
見給え、と声がぷくりと膨れた気がした。
「こんな可愛いお嬢さんを泣かせることになるんじゃないか」
「あああ、それはいいんですいいんですよ菊池さんっ」
花が慌ててそう返すのを眺めながら、本当にこの子は肝が座りすぎているんじゃないかと改めて認識する。普通に驚くなり怖がるなりしていいところだと思うのだけども。ただ、この強さがあるから、自分や宗一を受け入れてくれたのだろう。それはとても有難いことであり、また嬉しいことでもある。
「いいんですよ。龍一さんも、宗一さんも、ここに帰ってきてくれたんで」
そう言い切られ、さしもの菊池もすぐに言葉が出なかったようだ。ううん、と手が唸る。なかなかにシュールな風景だな、と思いながら龍一は出されたマグカップのお茶をふうふう冷ましながら口にした。
「……君はどうして、こんな素性がよくわからないというか怪しげな男達を家に上げる気になったんだい?」
ううん。まあ、それはそうなんだけど、この男に言われるのはなんか嫌だ。
眉間に皺がきゅっと寄った龍一の横で、花はきょとんとした顔で首を傾げた。
「別に放っておいても良いのに、縁もゆかりもない私のことを、心底心配してくれたから、ですかね」
「それだけ、なのかい」
「寧ろ、他に理由要ります?」
きっぱり、それは凛とした口調で言い切られる。
「警察沙汰になるかもしれない、面倒事になることはわかっている。でも、お二方はそれでも、私がひとりにならないようにということを最優先にして選んでくれたんです。私が嫌だと言えば、すぐに出ていくからとまで言って」
一軒家に、ひとりだけ。
女性がひとりでいるということを知られたら、押し入るような良からぬ輩だっている。決して安全は保証されないのだ。やむを得ない事情ならば、ひとりにしない方法は自分達がそこに居続けることしかない。
だから、龍一も、そして宗一もどんなに怪しまれようが、花の傍にいることを選び続けたのだ。
「まあ、うん。ふたりとも、とんでもない馬鹿だからねえ」
菊池が、苦笑いしたような気が、した。
「馬鹿、なんだとは思うんですけどね、私も」
花も、小さく笑う。
「でも、そんな馬鹿を通しちゃうふたりが私も好きなんで、馬鹿なんだと思います」
馬鹿じゃないよ、と言いたかったが、どうもくすぐったくて結局、茶を啜るしか出来ない。
寝息を立てる宗一を、少しだけ恨めしげに横目でちらりと見て、はあ、と小さく溜息を吐き出す。
――どうして、こんな照れくさい場面にひとりにするんだか。ひどいよ、全く。
「ねえ、芥川」
不意に、呼ばれて視線を向ける。いつの間にか手は、ころんと、丸い玉になっていた。ゴムまりだ、と思ったのはかろうじて呑み込む。
「ちょっと、ゆっくりと話さないか。出来れば楽しいことを沢山話そう」
そう提案されて、思わず笑ってしまう。
「そうだね、僕も君と話したかったよ」
傷付けてしまった、苦しめてしまった。その後悔はあるけれども、恐らく菊池はそれを抱えてなどほしくないと思っているには違いない。彼が、そういう男なのは龍一は知っている。だから、楽しい昔話を、そしてこれからを語らいたい。こうやって言葉を交わせる僥倖に、感謝しながら。
「じゃあ、お茶菓子を持ってきますね」
花がすっくと立ち上がる。出来れば僕は羊羹が食べたいな、と屈託なくリクエストする菊池を、無言でむにゅっと指で強く、つまんだのだった。
語らいの夜は、これからだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます