第24話 雪消月:寂しがりやの君へ01
勿論、帰るつもりだったのだ。
頭痛薬が切れていたのに気が付いたのは、昼過ぎのことだった。斎藤から差し入れられた頭痛薬の箱はあっという間に空になった。用法用量というものを越えていたのは自分が一番、理解している。
ずく、ずく、と疼く頭を軽く押さえつつ、財布を手に取る。駅前の薬局までひとっ走りすればいい、と考えた。まだ二人が帰るまでには時間がある。何食わぬ顔で家にいれば、出掛けていたなどとは考えるまい。
心配されているのは、わかっていた。
自分が弱っていくのを危惧されているのは、すごくわかった。
立場が反対であったら、宗一も同じように心を向けるだろう。命日は目に見える場所に迫っていた。仮初の転生は、死の概念に弱い。故に、死に一番近い日には一番魂が不安定になるのだ。それは以前に見て知っていた。だからこそ、自分の時は何事もなくあろうと、苦しかろうがそれを飲み干して越えてやろうと思っていたのだ。
予想よりそれはなかなかに難しいこと、であった。それでも、何とか騙し騙しここまできた。あと一息だ、と目眩を覚えながらも何とか玄関で靴を履いた。そして鍵を掛けて、早足で家を後にする。
駅前まで行けば、薬を買える。呑めば何とかなる。
彼らに負担をかけるわけにはいかない。崩れ行く自分を止めなければ。
ぴり、と頭の奥で小さく痛みが、爆ぜた。
瞼の裏にざあっと砂嵐のような何かが広がった。ぐわん、と何かにかき回されたような気持ち悪さが胸からせり上がる。堪らずに草陰にしゃがみ込んだ。万一吐いてしまった時の為と、変に目立たない為にだ。
頭の中がぐちゃぐちゃと、何かに握りつぶされるような感覚に、脂汗が浮いた。きいん、という耳鳴りが、体中に響いてどうしようもなくなる。
たすけて。と言葉が喉から出かかった。
ざん、と意識が痛みの波に攫われた。ごぼごぼ、と沈みゆく中、呼吸もままならない。
たすけて、という言葉は、声にならずに浅い呼吸の中に溶けて消えていった。
どれほどの時間が経ったのか。
頭の痛みはゆっくりとであるが、遠のいた。そして立ち上がって、ふと気がつく。
周囲は暗くなりつつあった。呼吸を整えながら見回して、困惑する。見覚えのない景色がそこにあった。ゆっくり思い出そうとしたが、やはり何故ここにいるのかがわからない。
遠くに、灯りが見えた。恐らく賑やかな町並みがそちらにあるのだろう。何か手がかりがあるだろうか。自分が今どこにいるのかを確認しなければならない。そして、早く。
「――家に、帰らな」
***
家が暗かったことに、胸騒ぎがした。
それは隣りにいた花も同様で、不安げに見上げられる。龍一は鍵を取り出し、戸を開ける。中は静かで、そして靴がひとつ足りなかった。
「今日は、外に出ないって言ってたのに……!」
「うん、それはわかってるよ。僕達も迂闊だった」
まだ日があったからこそ、油断したのもあった。人の気配のない中、明かりをつけたが当然いる筈の残りひとりの姿は見当たらない。
「花ちゃん、落ち着こう。宗のことだから、何か足りなくて買い物に出たのかもしれないし」
「う、でも」
彼女にこんな不安げな表情をさせるのは二度目だ。一度目は、自分が原因だった。こんな思いをさせてしまっていたのかと改めて申し訳なく思うが、今は沈んでいる場合ではない。
「斎藤さんに連絡するよ。ちょっと待ってて」
スマートフォンを取り出し、斎藤の番号へとかけようとする。その間に花はぱたぱたと台所、そして応接間へと見に行った。何処かに行った手掛かりがあるかも、という気持ちからかもしれない。
「あ、斎藤さん? 今日、宗と会ったりしている?」
電話の向こうで、いいえ、という返事が戸惑い気味に返ってきた。それはそうだろう、二十四日までまだ日はあるのだから、予想外の展開には違いない。事の次第を伝えれば、すぐに向かいます、と返ってきた。
龍一の背中に、半泣きの声が掛けられたは電話が終わった後のことだ。
「花ちゃん?」
「龍一さん、これ、知ってますか……?」
手に握られたそれに、ああ、と声が漏れる。確か、宗一に自分が渡したメモ帳だ。黒地に白の椿と黄梅の布地が張られたしっかりとしたものだ。ネタ帳が欲しいと言っていたから、誕生日祝い代わりにと渡したのだった。
実際それは結構使ってくれていたらしい。朝起きれば応接間にある書斎机でかりかり書いている姿があった。時折読み返しながら確認しているのを見て、新作がもうすぐ拝めるのかもしれない、と内心喜んだものだ。
しかし、花は泣き出しそうにそれを差し出した。
ぱらりと、ページを捲る。
びっしりと、見覚えのある小さな丸い文字が並んでいた。しかしそこにあったのは、自分が想像していたような新作の構想ではなかったのだ。
「……日記? いや、違うなこれは」
彼の独特の生き生きとした人の描写は、ここにも生かされている。しかし描かれているのは、自分や花、斎藤などの見知った人物であった。いつ、ここに来たか。そしてそこからの日々が事細かに書き出されている。日記にしては心情はそこに込められてはいない。事実だけを克明に描いていた。
まさか。
背筋に冷たい汗が落ちていく。
「もしかして」
自分達は、彼の性格を侮っていたのかもしれない。いや、侮ってはいなかった。単純に宗一の方が上だったのだろう。
助けを求めることはなかった。頼りにならない、とか、そういう理由ではなく。求めることが出来なかったのだ。
「ああもう! 馬鹿だなあ!」
ぎゅっと、帳面を握り、ポケットに突っ込む。驚いたように、花が顔を上げた。
「花ちゃん、一緒に探しに行こう」
「龍一さん?」
「近辺にいれば、いいんだけど……でも宗だしなあ……」
この辺りで行きそうな場所を、当たるしか出来ない。しかし、この辺にいるという保証は全く無かった。
予想通りならば、ここは今の彼からしたら『どうしてここにいるのかわからない場所』になっている可能性が高いからだ。そうなると、彼の中にある場所を炙り出すしか方法がなくなる。全く、どうしてこんな厄介な苦しみを与えたのか。
「あの、もしかして、宗一さん」
花は敏い子だ。いや、子というのにはもう年齢は成人しているのだけど、自分からしたら可愛い可愛い守るべき女の子なので、ついそういう風に思ってしまうが立派な女性である。だから、現実を真正面から受け止め、それを言葉にしようとする。
「多分、花ちゃんが考えている通りだと、思うよ」
植村宗一――直木三十五は晩年、結核の菌が脳に至る病に倒れた。結核性脳膜炎、現在で言えば結核性髄膜炎、と言うらしいが。発熱、頭痛、吐き気からの嘔吐、食欲不振。また脳への影響で性格変化や記憶障害等の認知機能低下も起きると言われている。
今の状況で全ての病状が出るわけ、ではない。実際に病に侵されている状況ではないからだ。いわば、魂から引き出される死に向かう記憶から身体に映し出されるものとなる。出やすいものとしては頭痛、そこからの食欲不振や吐き気だろうが、宗一のことだから上手くカバーをしていた可能性は高い。尻尾をなかなか掴ませて貰えなかったのはやはり相手が自分を隠すことに長けていたからではあるが。
しかし、隠しきれないものも出始めていたとするならば。そしてそれが宗一のカバー出来る範囲を越えたとするならば。可能性として、上げられるのは。
記憶障害、だ。
もし、メモ帳に書き連ねてあるものが『彼の記憶』であるなら。忘れかけた時のお守りとして効力を発揮していたとしたならば。
「僕達が、宗を繋ぎ止めよう。早く迎えに行ってあげなきゃね」
こんなに、鮮やかに日常を書き留めたのは、彼の願いであり祈りだろう。
ならば、応えたいと思う。あの時、彼が当たり前のように自分を迎えに来たように。
今度は。龍一が繋ぎ止める番、なのだ。
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