第19話 夾鐘:雪解けへの約束01
二月だ。
カレンダーをめくったところで宗一は深い溜息を吐いた。
正念場だ、と自分を鼓舞する。今の所頭痛のみで、まだ生活に支障が出るほどではない。このままで乗り切れれば、何ということはないだろう、と改めて気を引き締めたところで冷蔵庫をがばりと開いた。
そこでふと気がつく。
「昨日、味噌買ってへんかったか……?」
まあ昨晩は使わなかったので、気が付かなかったのだろう。買い忘れはたまにやらかしてしまうものだから、メモでも取ったほうがいいのかもしれない。全く困ったものだ、とぱたん、と冷蔵庫を閉めて。さあて、と伸びをしながら続けようとした独り言を、寸前で呑み込んだ。
そして、再度冷蔵庫を開ける。ばく、と心臓が音を立てた。
「……そういうことかい……」
呻くように呟くとポケットをまさぐる。頭痛薬を買ったレシートがぐしゃぐしゃになって出てきたので、それを伸ばすと冷蔵庫に磁石で留められた筆立てからボールペンを取り出す。
そこに癖のある小さな丸い文字で『味噌』と書いて、更にそこにメーカー名や商品名を書き足した。
再び、溜息が誰もいない台所に吐かれる。
二月なのだ、とこんなことで実感したくはなかった。
***
からん、とカフェ『みけねこ』のドアベルが来客を知らせる。いらっしゃいませ、と言いながら慌てて花が出迎えるとそこには見た顔が立っていた。
「今日和、近くに寄ったものですから」
「斎藤さん」
白のトレンチコートに薄紫のマフラーを巻いて微笑むのは斎藤茂吉だ。宗一や龍一のいわば保護者のポジションといったところか。彼等のお試し転生を見守り、時にサポートする役割で時折こうやって花の前に現れることがあった。前は花に正体が明かされてなかったので彼等はこっそりと斎藤と会い自分達の現状報告をしていたのだが、手の内を明かした今は、家に遊びに来て夕飯をつつきながら報告のやりとりをするようになっている。ただ、花の仕事場などに現れるのは今回が初めてであった。
……背後でパートさんや奥さんの視線が、とても痛い。
そりゃあ、ただでさえ龍一や宗一といった顔の整った男性が花を訪ねてくるわけである。更に斎藤も綺麗な顔立ちの持ち主であり、目立つことこの上ない。
「は、花ちゃん、その方は」
「親戚のまた親戚です!」
そういうことにしておく。休憩取っておいでよ、という声も聞こえてきて、ちょっとまた誤解を招いているような気がビシバシにしたのだが、今はそこには突っ込まないでおくことにする。来訪の用件を問うのが先だ。
花は温めていたポットに茶葉を入れる。今の時期は苺の紅茶が人気で、花もお気に入りである。ドライフルーツの苺の入った茶葉に、苺ジャムを添える。ジャムは実をあまり潰していないので、フルーティさも味わえる。まさに苺を味わう紅茶、なのだ。
お湯を入れて砂時計をセットしてから、盆に乗せる。その最中にパートの鈴木さんが入ってきて、注文を奥へと通していた。どうやら斎藤のオーダーを代わりに受けてくれたらしい。
「後で珈琲を持っていくからね。邪魔はしないから!」
「邪魔も何も、何というかお気遣いされるような関係性じゃないんですよ!」
否定はしておかないと、更に拗れそうであったので一刀両断しておいてから、花は自分の盆を手にぱたぱたと斎藤の元へと向かったのだった。
「どうしたんです?」
珈琲が来た後で本題を切り出す。にこやかに微笑する、彼の眼鏡が湯気でうっすらと曇った。
「ええ、二月なものですから」
「そうですねえ」
大体察しはつく。二月、だ。
「直木さん、もとい宗一さんの様子は如何です?」
二月二十四日。それは直木三十五の命日となる。故にその日が近づけば近づくだけ、お試しの、つまりは仮初めの転生を果たしている宗一は『命日』という括りに引き込まれやすい。それは以前、夏に龍一でも経験したことで、それが油断ならないものであることを花も、そして斎藤も知っている。
「正直言えば、表面上は殆ど普段どおり、といったところです」
「やっぱり、ですねえ」
苦笑いが、彼からこぼれる。
何かしらの影響が見えてくると思っていたが、相手はそう簡単に尻尾を掴ませてくれないようである。彼自身の随筆や、彼と交流のある作家達の随筆などを見ても、なかなかそう弱音を吐かなかったようだ。否、正確に言えば、弱音を吐いてもそれで終わらせてしまっている、という方が正しいのか。
彼を独りにしてしまった、寂しい思いをしていたのではないか、という後悔の言葉の欠片を拾う度に、花は直木三十五――もとい植村宗一の殻を感じ取っていた。
「つらいなら、頼って欲しいんですけどね」
これは、本音だ。
ここまで事情を知り、足を踏み入れているのだ。相応の覚悟はしている。彼等が抱えているものが重すぎたら、少しくらいは支えさせて欲しいというのは、花の覚悟でもあった。しかし、恐らくはそれは宗一からすれば一番させたくないことに違いない、ということもわかってはいた。
その言葉を、どう受け取ったのか。斎藤は、ああそうだ。と唐突に、話し始めた。
「全集の、広告文と言いましょうか」
「全集?」
「ああ、直木さんの全集ですよ。別冊合わせて二十一巻でしたかね」
斎藤の珈琲に角砂糖がひとつ、落とされる。
「文藝春秋の直木さんの追悼号にその広告が掲載されたんですが、馴染みの作家や身内の推薦文だったんです。菊池さんや久米さん、横光さんなども書かれていましたか」
菊池寛、久米正雄、横光利一。聞き覚えのあるその辺りは交流の深かった友と呼んでも良い存在であったろう。
「植村精二さんと仰る方がおりまして」
「うえ、むら? 宗一さんのご兄弟です?」
「ええ、弟さんですね。後々彼の息子が、直木さんについて様々な本を出されることになるんですが。それはさておいておいて」
カップを口に運びながら、言葉は続いた。
「その弟さんがなかなかに彼の本質を突いた一文を書いているんですよ。やはり、肉親だったからでしょうかね。良き部分も、そして悪き部分も知っているからこそ、見えたものがあったのかもしれません」
その文章とは、こういったものでした――斎藤はそれをまるで歌でも口ずさむかのように、紡いでいった。
兄が不死身だと言われたのは決して偶然ではない。
いや最後の病床で、既に文字を見分けることもできなくなってからも、なお雑誌を開いて、気力の確かさを傍人に示した兄は、取りも直さず、甲冑のままで討死したものだといっていい。
だが、その亡骸を改めて見て、その鎧の下にどれだけ傷付きやすい神経があり、どれだけ柔らかい心臓があるか、そして猿頬を脱がしてみて、兄の面差しはどれほど、蒼ざめて憂鬱であるか。人々はまだ誰も知らない。
ああ、そうかもしれない。
その一言一言が、妙に心に沁みていく。
「そういう人ですから、なかなか手強いとは思います。なまじ、芥川さんのようにわかりやすくないからこそ、見えにくく、そして助けにくいところはあるかと」
「宗一さん、確かにそういうところありますよねえ」
自分のスタイルを崩したがらない。その崩したところを見せたくない、と強く思う人なのだろう、とは花も感じるところではあった。しかし、反面、可愛らしいところや、押しに弱いところ、また屈託のないところや面倒見の良いところは、ほろりほろりと、綻んで見えたから。本来は、そういう人なのだろうと、そしてそれは好ましいと思うのだ。
「うちも隠し玉があるので、直木さんのことは目を離さないようにいたします。だから」
「わかってますよ」
にっこり、と花は笑みで返す。
「私や、龍一さんもそう簡単に逃がしはしませんから」
知っているからこそ、容赦なく腕を引こうと決めている。格好つけようなんて、今更手遅れなのだ。それはさせまい、と花も、そして花以上に龍一も強く思っていることだろう。
「お願いしますね」
「はい」
声は、強くはっきりとしたもので。それに少し安心したのか、斎藤も少しだけ表情を緩ませたのだった。
少し温くはなったが、苺の紅茶は甘酸っぱく、春の味がした。
春が、来ればいい。
あの人の心の中の雪解けとなれば、いい。
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