第20話 夾鐘:雪解けへの約束02
「龍一くん、お疲れ様。いつも有難うね」
懐古洞での店番を終え、出る時は必ずと言っていいほど、店主の妻である富美子が店の外まで送り出してくれる。すぐ妬く主人にいつかぶん殴られそうだなと戦々恐々としてはいるが、最近はどうも息子のような扱いになっているらしく、随分許されたものだと苦笑いしたものだ。
「では次は来週でしたっけ」
「ええ、またお願いするわ。買い付けた品が沢山届くみたいだから」
「仕分け手伝いますね」
「有難う。頼りにしているわね」
では、と小さくお辞儀して、店を後にする。今日は少し早めに終わったものだから、少し散歩してから花を迎えに行こうと決めた。
踏切を渡り、小町通りを横切り、次の大通りへと出る。そこは、まっすぐ鶴岡八幡宮へ続く参道となっているのだ。道路の真ん中にあるその道を桜の木が縁どっており、始まりには大きな狛犬が海の方をじっと見据えている。
参道の両脇には道路、歩道の横を沢山の店が軒を連ねている。観光客向けの土産ものを始めとして、様々な店舗がぎゅっと詰め込まれている。小町通りよりは数は少ないが、個性的な店が多い印象だ。
ふらり、と一回りして、それでも時間が余るようなら何処かで一服してから行こうか。そんなことを考えていると、遠くでよく見た後ろ姿を見つける。
――あれ、宗……? 買い物終わって寄り道かな。
ただ気分転換であればいい。しかし時期が時期だけに、用心を重ねるに越したことはない。龍一は、追いかけるように自然、早足となった。何処かふわふわとした様子が遠目からわかったのも気になる。いつもは関西人特有の早歩きできびきびした動きなのに、どことなく夢見心地のような調子にも見えて、不安になってきてしまった。心配しすぎであれば、笑い話で済むのだ。
「宗!」
漸く追いついて、その肩を叩いたのは、丁度和雑貨の店の前であった。立ち止まって何かを見ている様子で、突然の声掛けにびくり、と驚きに跳ねたのが手のひらに伝わって来た。
目を見開いて、暫し、宗一は此方を凝視する。
「あ、ああ……なんや、龍かい。驚かしなや」
「随分ぼんやりしてたんだね。歩きながら寝ないでよ」
「そんな器用なこと、出来るかい」
不安は、いつもの他愛ないやり取りで拭われていく。ほ、と安堵の息を密かに吐いたところで、ふと宗一の前に合った品物に目が向いた。和風の布を表紙に張ったメモ帳である。随分可愛らしいものを見ているな、というのを察知されたのだろう。少しバツが悪そうな様子で、ぼそぼそとらしくもなく言い訳をこぼし始めた。
「ネタ帳ええのあらへんかな、って、その」
「ネタ帳?」
ということは。
「宗! 何か思いついたの⁉ 新作? ねえ新しく何か書くの?」
「何でそんなに食い気味なんや⁉ 何か思いついたらすぐ書けるようにする為のネタ帳や!」
興奮気味の龍一の顔をわしっと掴む。相変わらず容赦がない。
しかし、ぱっとすぐ手を離すと、またメモ帳へと視線を向ける。その様子にううむ、と少し考えてから、横からすい、と手を伸ばす。一冊のメモ帳を手に取ってぱらぱら、とめくってみる。なかなかに使いやすそうだし、中の紙質も良さげだ。ペンも引っかからなそうなのがいい。表紙に張ってある布は、椿の柄ではあるが、黒地に白、ところどころに黄梅があしらわれていて綺麗だし、男性が持っていても悪くはないだろうか。
「ねえ、これなんかおススメなんだけど、どう?」
「へ? あ、ああ。せやな、お前にしちゃあ、センスええもん選ぶやん」
お世辞でも、その場凌ぎの言葉ではない、素直な色に、うん、と満足げに頷いてから。
「じゃあ、これ。ちょっと早めの宗への誕生日プレゼントね」
「へ?」
「どうせなら使うものをあげたかったから。昨年のお返しも絶対してやろうと虎視眈々と狙ってたんだよね」
「そんなに狙うほどのもんか……?」
驚いたような、呆れたような声でそう言われて、うん! と元気に返事をすると、それ以上の追及はなかった。どうやら、大人しく贈られてくれるようだと理解して、龍一は財布を手に店の奥にあるレジに向かったのだった。
「はい」
和紙の封筒に入ったそれを渡すと、少し照れ臭そうに有難う、と関西独特のイントネーションで礼が告げられた。
「うん、あのね。宗、書きたくなったら、書いて、それで僕を一番最初の読者にしてよ」
「へ」
昨年、龍一の誕生日に彼はプレゼントを用意していた。まだ、お試し転生で生活に慣れていなかった頃である。心の余裕などある筈もなく、従って早々にあった宗一の誕生日をスルーした形となってしまった。しかし、当の本人はそんなもの気にもせず、その癖龍一の誕生日には品を用意して来たのである。
中身は、原稿用紙にペン、インク。どれもそこそこの値段はしそうなものだ。それを渡した時、彼は何と言っていたか。
『ちと遅れたし俺もお前もそういう性分だから、そういうもんしか思い浮かばなかったんや』
確かに、ペンを握って何かを書くには、自分も、そして多分彼も、まだ満ちていない。
しがらみの痛みだって、まだ残っている。
スタートを切る一歩を踏み出す力が、まだ足りないのかもしれない。
だけども自分達は『そういういきもの』なのだろう、ということは龍一とて理解していた。いつかは何かしらの形で、自分なりの何かを表現していくのだろう、と。それはいつになるかはわからない。だけども。
「自然に、湧き出た宗の新しい言葉でいいから。いつか、っていう曖昧な約束でいいからさ」
自分達は、かつて原稿用紙にペンを走らせ、文字を躍らせ、それで日々を生きてきた。
生きる為の牙であり、また命綱でもあった。
だから、時にひた走り、また時には追い立てられるように、書き続けていたのは否定できない。
そして、だからこそ今自分達は追われることがない故に、ペンを握らないのだろう。しかし、宗一の言うように、自分達は、やはり『そういういきもの』で。ペンを牙にして、原稿用紙の草原を走り回る獣なのだ。
もし。
何にも追われることもなく、何にも縛られることがない、そんな時に書くならば。
自分達は、何を表現するのだろう。書けないことで追いつめられることもない、この世界でなら、新たに芽吹く何かを見られるのかもしれない。
『芥川龍之介』が、しがらみのない一人の人間として、新たに刻むものは、何だろうか。
そして『直木三十五』が自由に綴るものは、何だろうか。
――いや、直木ですらないのかもしれないね。『植村宗一』として、書くのかもしれないし。
それなら、それも楽しみだ。だから。
「僕を、一番目の読者にして欲しいな」
「あー……」
そう言われた宗一はと言えば少し困ったような、しかしどこか嬉しいような、複雑な色の交じり合った表情で、こちらを見ると、まあせやな、と独り言のように雑踏へ声を紛れさせた。
それは、気をつけてなければ聞き逃してしまっていたかもしれないほどの、小さな声だった。
「一番に読みたかったら、傍におらなあかんやんか」
小さく笑う表情は、どことなく屈託がなく、そしてどことなく泣きそうにも思えてしまったものだから、何かを返そうと龍一が何かを言葉にしようと口を開きかけた時。
「あ! あかん! 味噌!」
「へ? み、味噌?」
突然の味噌に、思わず間抜けな声でオウム返ししてしまう。
「いやな、昨日買い忘れてもうてな。今日こそは買わな思ってん」
「ああ。なる……ほど?」
忘れへんうちに買い物行くわ! と、宗一はくるりと背を向ける。そして数歩進んだところでばっと思い切り、振り返る。
「龍! ちゃんと花迎え行くんやぞ!」
「言われなくても行くよ! もう!」
全く、過保護だし心配性だし、まあ人のことは言えないけれども。
――あいつの書いたもの、早く読みたいなあ。なんてね。
いつ叶うかわからない約束だけども。守らない、とは言われていないことに、龍一は少し心が弾む。
その為には、その愛すべき友が、運命共同体が、傷つかず、悲しまず、そして寂しがるようなことがないようにしないといけない。
頑張らねば、と。龍一は改めて心に誓うのだ。
――ひとりぼっちになんて、絶対させやしないから。
***
静かな夜。
目が覚めてしまい、玄関横にある応接間でぼんやり過ごす。
家の中では唯一の洋間で、天井には小さなシャンデリアがぶら下がっているし、床は赤い絨毯だし、まあ要するに少々浮いた一室ではある。ここにはソファーがあったのだが、スプリングが飛び出して使い物にならなかった為、粗大ごみとして出してしまった。しかし部屋がぽっかりと空いているのも少々寂しい気もしたものだから、三人で話した結果、大きい本棚が備え付けられていることだし、と、書斎机と座椅子を置くことにしたのだった。まあ、違和感は拭えないが、物書きの部屋としては機能出来る状態にはしていたわけである。
「さて、と」
袋から、漆黒に白椿の咲く表紙のメモ帳を取り出すと書斎机の真ん中に置く。メモ帳、とは言うもののかなりしっかりした作りのもので、記憶に間違いがなければ、そこそこの値段だったように思う。
『ちょっと早めの宗への誕生日プレゼントね』
そう笑って、渡されたものだ。
誕生日なんて、別に覚えてなくて良かったのに、とは思う。それらもいずれは意味のなさない、なんでもない一日となるだろうに。
『宗、書きたくなったら、書いて、それで僕を一番最初の読者にしてよ』
そんな約束を、出来るか。とは、思った。
でも、あの男が笑って言った言葉に、返してしまった。若干の後悔が、苦く胸に宿る。
ぱらり、と、ページをめくった。そして、ペンを握る。
「多分、読みたいんはこういうもんやないんやろけどなあ」
微苦笑が浮かぶ。しかし、書かねばなるまい。自分の為に。そして、彼と、あの子の為に。
これは、命綱だ。自分が自分であれ、という呪いだ。自分を雁字搦めにして、ここに縫い付けねばならないから、だからこそペンを走らせるのだ。
白い紙に、文字が綴られていく。
それは、自分という中にある物語の始まりでもあった。
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