第9話 霜月:忘却対抗共同戦線02
彼らに会ったのは、昨年末の頃になる。
鎌倉の父親が認知症と診断された、と聞いたのは兄からだった。その数日後に急遽、可乃子は招集の連絡を受け取ることとなった。兄家族と、自分。夫は仕事に出て不在だったし、花も仕事が忙しく毎日疲労困憊で帰宅していたことを知っていたから、この集まりの後で連絡を入れることにした為、可乃子は一人で鎌倉の家に向かったのだ。
「父さんは?」
「近くの老人ホームに今は、世話になっている。だが、そこも今年一杯しか居られなくてな」
来月からは本来の入居者がやってくるらしい。偶然、今現在の入居者が『いなくなった』為、父は仮入居ということが可能となったのだ。ご近所だったということで顔見知りだったのも、この対応に繋がったのだろうが。
「家――どうする」
「空き家にするのは危険よね。空き巣が怖いし」
「それなんだよな」
溜息を吐く兄の横で、少し眉を寄せながら、おずおずと女性が言葉を挟んだ。
「もう、義父様此方に戻られないのなら……手離すことも視野に入れた方がよろしいのでは」
兄嫁だ。き、と軽く睨んでから、可乃子はそれに返す。
「貴女には只の家かもしれないでしょうけど、ここは私や兄さんの実家よ。簡単に売るだのなんだの口にしないで頂けないかしら」
「でも、誰か住むことが出来ないのなら、売るしかないのでは? 管理費や維持費だって馬鹿になりませんし、誰がそれを支払うというんですか? 長男だからってうちに全部払わせる気なんです?」
「やめないか」
口論寸前で、兄が止めに入る。すん、と兄嫁は黙り込み俯いた。可乃子も溜息を吐いて視線を逸らす。
確かに腹は立つが、彼女が言うこともわからないでもない。誰も居ない一軒家を維持するのは大変だ。ましてや、結構な年数の古民家と言われる部類の平屋だ。人が住まなくなったらたちまち朽ち果てることだろう。家は人が住んでこそのものだ。それは可乃子だって重々知っている。何よりも頑なな感情が主体になるには、躊躇われるような年齢になってしまっていた。
「――うちの方にも相談させて貰えないかしら。花にも、話していないし、旦那にも相談してみる」
期待出来ないな、という視線が向けられた。
その時に、親族何人かの名前も上がっていて、兄は連絡をしたらしいが繋がったのは可乃子だけだったようだ。
と、そこでテーブルに乗っていた兄のスマートフォンが、がたがたと音を立てる。植村、という文字が映し出されて、最初は兄の仕事仲間か取引先かと思っていた。彼も大概多忙なのだ。しかし、兄の声は予想外に砕けたものだった。
「……ああ! 久し振りだね。前に会ったのはいつだったか――高校生くらいかな。今は、どうしてるんだい? ふたりとも」
誰だ、と首を傾げたのに気付いたのだろう。
兄は笑いながら、ちょっと待ってくれ、と保留にしたようだった。
「兄さん、誰」
「ああ、ええと俺も会ったのが十年以上前になるんだが、うちの爺様の弟の息子の……えーと三人兄弟の末っ子の子ども、なんだけど」
「ちょっと待って遠い! 遠い! ややこしい!」
「だから俺も知ったのがその十年以上前なんだって。兄弟で一時期絶縁してたらしくてな。その時にようやく和解したんだ。何か、志賀直哉の話みたいだが」
「志賀直哉?」
「名前くらいは知ってるだろ? 近代文学では名を馳せた文豪で、彼の場合は、父親と長いこと断絶していたんだったな」
「……で、その遠縁の子がどうしたっての」
突然、連絡を寄越すなど。しかも可乃子は全く知らない相手だ。親戚にしたって、会ったことがなければ他人同然だ。
「いや、この件で連絡をしたんだよ。一応親戚筋には皆連絡は入れたからな。で、父親の方からは来れないって連絡は受けてたんだが、どうやらその話を聞いたらしくて。折角だから、話してみるといい。なかなか良い声だぞ」
「別に声だけ聞いたって」
仕方ないじゃない、という言葉は次にかき消えた。
「――今、住む家を探しているそうなんだ。丁度いいと思わないか?」
何ですって?
素っ頓狂な声が、自分の喉から飛び出し、黙っていた兄嫁の肩がびくり、と震えた。
***
北風に、コートがばさ、と閃く。
可乃子は後ろをついて歩く青年をちらり、と見た。
植村宗一。血の繋がっていない兄弟で、もうひとり龍一という歳違いの弟がいる。説明をされるまで普通に血が繋がっていると思ったくらいに、彼等は似ていた。
「私、行ってみたいカフェがあるんだけど、そこでいいかしらね」
「ええですよ」
短い返事が、背後から聞こえてくる。冷たい風が、頬に触れ、髪を揺らす。
背後の足音は、可乃子から付かず離れずの絶妙な距離を保って歩いている。駅前から、御成商店街へ入って少し歩いたところにそのカフェはあった。比較的新しく出来たらしいが、淡い明かりと年季の入った味わい深い椅子やテーブルのせいか、街に馴染んでいるように思える。
一番奥のソファーの席が空いていたので、そこにすとんと腰を下ろした。向かいで宗一がコートを脱いで座ったのを確認してからメニューを開いた。珈琲の種類が多く、ずらりと並べられた名前に思わず唸ってしまう。まあ、カフェラテでいいか、と決めてメニューを置くと、ほお、と目を丸くしたのがわかった。珈琲党らしい、というのは聞いていたが、一通り見てからぱたん、と閉じたので、近くを歩いていたウェイターに声を掛ける。
「御注文は」
「私はカフェラテで――」
「ブラック、豆は……せやな、モカ・マタリで。ミルクひとつ付けてもらおか」
かしこまりました、と、カウンターへ向かうウェイターを確認してから、可乃子は首を傾げる。
「豆の指定もするのね」
「ああ、ちと酸味が強いもんが飲みとうて、ですね。爽やかな飲み口やし、話を聞きながら飲むにはええかと思って」
「珈琲ってそんなに違うんだ?」
「俺もわかるようになったのはここ最近ですけど」
ふ、と目を細める。どちらかといえば表情が乏しい部類に入る宗一の、珍しい顔だ。龍一は初めて会った時から表情豊かで人懐っこいところが全開であったが、その後ろで宗一は何処か遠くを見ているような表情で沈黙していたように思う。
そう、時折、彼は表情をふ、と綻ばすのだ。今のように。
――あれは、たまらない子は、落ちちゃうだろうなあ。
質が悪いな、と思っていると程なくしてウエイターがカップをふたつトレイに乗せて此方へ向かってきた。お待たせいたしました、とカフェラテの入った淡い紫のコーヒーカップが置かれた。宗一の方はといえば、白にプルシアンブルーの縁取りが施されたシンプルなデザインのものである。互いに一口、飲んでから、ふう、と小さく息を吐く。
「……花、どないしたんです」
先に沈黙を破ったのは宗一の方だった。その口ぶりは、まるで兄のような――いや下手をすると父親のような印象すら抱いてしまう。心底案じてくれているのだ、と察して、かちゃりとソーサーにカップを置いてから、それに応えることにする。
「花のお爺さん、まあ私の父親に当たるんだけど、大分。進行していてね」
「進行――認知症、ですか」
「千葉の方だし、なかなかそう顔を出せる距離ではないのは確かなんだけど、もう私達のことを認識できなくてね」
眉間の皺に指を当て、深い溜息を吐く。溜息が多いのは、許してほしい。流石に少々目の当たりにするとショックなものなのだ、と今になってショックが湧き上がってくるのだ。
面会した父親は、自分のことを『妻』だと認識していた。しかも――『可乃子を身籠ったばかりの頃の』である。
繰り返し、父親は可乃子の腹をさすり、男でも女でもいい、元気に産んでおくれと繰り返した。
そして。
後ろにいる花に、気が付いたのだ。
「あの、クソジジイ。よりによって花に向かって『此方のお嬢さんはどなたかね?』とかほざいたのよ」
腹立たしさと衝撃と困惑と、そして狼狽と。様々な感情がないまぜになった、低い声でそう続けてから、また溜息をひとつ。あんなに溺愛していた孫を忘れるとは、張り倒してやりたかったけども、張り倒したところで記憶が戻るわけではないのは可乃子が一番理解していた。
そして花は、それでもにっこりと微笑んで「初めまして。奥様にはお世話になっております」と答えたのだ。
我が娘ながら気丈だと、思う。
そんな花の内心など知る由もなく、かのクソジジイは嫁自慢から始まり、産まれるだろう子どもの心配をし、名前の候補を次々と話し続けた。そんな言葉を花は全部聞き、そして「お名前、どれも素敵ですね」と楽しそうに返していたのだ。
だが、施設を後にしてから、帰りのバスの中で母子は一言も言葉を交わさなかった。
沈黙が、全てを物語っている。
東京駅に着き、電車に乗り換え、揺られ、揺られて。
何処か心がここにあらず、といった様子の花に不安を覚えて、それぞれにメッセージを送ったのだった。
「……堪えたわねぇ、私もだけど」
「綺麗に、忘れてしまうもんですな」
「ええ、本当に。残酷なくらいに」
あんなに、忘れてしまうものなのか。人からも、情報としても、それは理解しているつもりであった。しかしそれは、全く理解などしていなかったのだ。違う、と返さなかっただけ、自分達は上出来だったと思う。
娘の身体を、娘と認識せずに触れる。あんなに可愛がっていた孫に、他人として接する。
自分は、それでも、まだいい。
「花は、相当ショックだと思うのよ。もっと言えば、自分のことを責めてやしないか、と心配で」
「あの性格やから、まあその心配は当たってる思いますね」
「だぁよねぇ……」
疎遠になっていたのは、花だけではない。皆、そうだ。しかし、あの状況を目の当たりにしてしまえば、もっと会いに行けば、もっと話せば、もっと違う未来になったのではないかと考えてしまうのは、確かだ。懐いていた花なら、尚更。
「正直、ちょっと怖かったわね。私の腹を撫でてる父さんは『父さん』じゃなかった。別の、なにか、だった」
誰かに忘れられることが、こんなに恐ろしいことだとは思わなかった。しかも、もう取り戻す手立てなどないというのに。口の中がカラカラになり、またカフェラテを口に運ぶ。まろやかなミルクの中に仄かな苦みがちらり、と垣間見えた。まるで、遠い父親の背中のように、その苦みはミルクの中へと消えていく。
「――多分、私には弱音を吐かないと思うのよ。あの子、何かそういうのを見せてくれなくって」
「同性の親にはそゆとこ、ありますわな」
「だから、ふたりにお願い出来たら、って思ってね」
不思議な話ではある。遠縁とは言え限りなく他人に近い彼等になら、吐露できるのではないか、と思ってしまうのだ。
そもそも、本来彼等と花を共に住まわせることを認めたこと自体、おかしいだろう。間違いが起きる可能性を想定していなかったというのは、嘘になる。
どうしてか、と、可乃子は記憶を手繰る。
ああ、そうだ。
彼の声だ。この声で。
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