第8話 霜月:忘却対抗共同戦線01
斎藤と交わした言葉を思い返しながら、植村龍一――またの名を芥川龍之介とも言うが――は喫茶店の戸をからん、と開けた。
小町通りの賑わいは今日も今日とて変わらずで。歩きにくそうに、それでも人並みとは逆方面に龍一の足は駅の方向へと向かった。風は緩やかに冬の気配を孕んだ冷たさを運んでくる。新しく買った上着は丁度いい暖かさを与えてくれる。ただ、これが通用するのも年内行くかどうか。寒さが冬本番の頃合いにはもっとしっかりしたコートを着なければならないだろう。
――今度はちゃんと宗には、暖かい格好をしてもらわないと。
貧乏もあったのだろうが、年中着流しで寒々しかったのは記憶にある。ただ、着物は寧ろ質が良く、洒落たものではあったがそれにしたって、防寒にもう少し金をかけるべきだろうとは思ったものだ。しかし、今度は花もいる、自分だっている。しっかりコートなり何なり冬の装いをしてもらわなければ。それで身体を壊されたら溜まったものではない。
先刻、斎藤と話したことを頭の中で反芻する。
『僕達は、命日に近づけば近づくほど、存在が危うくなる。仮初の転生だから、そっち側に引っ張られれしまいがちになる、ってことでいいんだよね?』
『君は身を以て理解している通りだ。君達はいわば不完全な転生だからね』
不安は、さざなみのように足元を浸した。ぱしゃん、と水しぶきを上げ、段々波は大きく、ともすれば身をさらいそうな程だった。どうしようもなく、心のままに引き寄せられそうになった。
あの不安が、もし自分だけのものではないとしたら。
斎藤のカップが置かれる音が、軽く耳に触れた。
『宗、って病死だったっけ』
『ああ、君は立ち会っていないから詳しくは知らないだろう』
……少し、耳に痛い。が、そこで挫けるわけにはいかない。顔を上げて、言葉を続ける。詳しくは知らないが、調べることはできる。この世の中、調べる方法は幾らだってあるわけだ。
『結核性脳膜炎、だよね。ええと今だと髄膜炎って言うんだっけ。調べたんだけど、脳膜炎って検索すると髄膜炎って出るから、間違ってないとは思うんだけど』
『――なるほど、調べていたのか。しかし検索まで使いこなすようになってたとは、随分馴染んだものだね』
『茶化さないでくーだーさーいー。だーから、花ちゃんがね最近宗の作品をデータに起こしてて。何でも、著作権が切れている作品――僕達の時代辺りの作品、なのかな。まあ、そういう作品を集めているところがあるらしくって、そこに寄稿するんだって。僕の作品は何故か結構残っていて、なんでか首を傾げるとこなんだけど』
だから彼女に頼んで、こっそりと彼の全集を読んでいた。勿論、本人の不在時にだ。今の本屋には流通していないものの、古書店で見つけることが出来るらしい。花の祖父は気紛れで古書店であれこれ本を入手することがあったらしく、そういう場に幼い彼女を連れて行ったこともあったとのことだから、成長した彼女が古書に慣れ親しむのは必然だったかもしれない。
その果てに、彼の本を偶然にも手に入れた。その後で自分達と奇妙な縁を結ぶことになるのだから、運命というものは面白い――で済ませて良いのかどうかは兎も角として。
『で、確認をしたいことがあって、お茶に誘ったわけなんだけど』
『なるほど……で? 確認、とは何かな?』
『僕達が命日に近づくにつれ、こういった不安定な状況に陥るっていうのは誰にでも起きうることなのかな』
『こういった例事態が稀少、というのを念頭に置いて、可能性をと言うのならば。個人差こそあれ、起きうるだろうとは、思う』
彼の見解を聞いて、背筋をぴん、と伸ばす。
ならば、今から心の準備をするべきなのだろう。何せ、相手はあの【直木三十五】なのだ。
『ねえ』
あの、自分の傷を隠すのがひどく上手い男を出し抜くには、並大抵の覚悟ではいくまい。だからこそ。
『なら、何で宗はその不安の揺らぎを見せることなく、やり過ごせたんだろうか?』
***
外の空気は冬が直ぐ側に来ていることを、教えてくる。
遠い昔、着流しで通している頃はそれを如実に感じ取ったものだが、流石にそれを今やると「上にもう一枚着てください!」やら「昔と同じでいられると思ったら大間違いだからね! 着ないなら僕が着せるよ!?」といった声が飛んでくるので素直に言うことを聞いて暖かい格好をするしかない。いや、別に寒いのに薄着が好きとかそういうのではないから、宗一としては意地でも逆らう理由はないのだが。
食欲の秋、というように秋は旬のものが多く市場やスーパーの売り場が色鮮やかとなる。
茸は種類も豊富になり、手頃な価格で買える。寒いし今晩は茸の鍋にしようと決めて、様々な種類をカゴに放り込んだ。豆腐や鳥の手羽元と一緒にくつくつ煮れば、身体も温まるだろう。締めは雑炊がいいだろうか。香り付けには柚子が合うだろうと、柚子もカゴに入れることにする。
「……お」
魚のコーナーに差し掛かった足がぴたりと止まる。目の前では『ブリの切り身、特売』の文字が躍っていた。
――そういや、あいつの好物やったな。
明日にでも作ってやるか、とカゴにぽん、とそれも放り込まれた。
この生活を始めて、以前に比べて一層料理を作るようになったな、と思い返す。昔はそれこそ男子が台所に入るのは本来稀有なことであったし、宗一も親達が働いて日々の生活の為に稼いでいる状況でなければ、代わりに台所に立つこともなかっただろう。
一緒に暮らす龍一はあまり料理が出来ない、というか危なっかしくて任せるのにはあまりに不安が過ぎたし、大家である花に家事を任せるのはどうも居心地がよろしくない。自分がこなせるものはこなすべきだろう、という判断だ。それに、花は宗一の食事を喜んでくれるし、龍一もぺろりと残さずに食べる。そういうものを見ていると、自然張り切ってしまうものだ。決して顔には出さないように、してはいるが。
言い訳としては、まあ。
――科学の進歩を感じられるのは、面白いんよなァ。
最初こそ説明書に首っ引きだったものの、覚えればこんなに便利なものはない。材料を耐熱皿に入れてラップをかけて、時間をセットすれば、温かい料理が出来る。本にしてもカラフルな写真を交えて詳しく書いてあるし、スマートフォンで検索をかければ色んな料理のレシピを見ることが出来る。新しもの好きだが飽きっぽい、そんな宗一でも飽きる暇はない。手間暇かける凝った料理から時短のお手軽料理まで、数多にあるものだから面白いことこの上ないのだ。
帰宅して、ゆっくり支度する。そのうちに龍一も懐古洞から帰ってくるだろうし、花も。
「……ふむ」
花は。
今日は朝から出掛けている。母親と、遠距離バスとやらに乗って、千葉の奥の方にある老人ホームという施設に行っているのだ。目的は、言うまでもなく――本来のこの鎌倉の家の主である、祖父である。
認知症という老いに伴う病を発症し、一人で家にいることが出来なくなった。戻ることがあるかもしれないから、と花は一年ではあるが家を守ることを任されたのだが、話を聞く限り一年やそこらで帰ってくるのは難しいように思えた。
認知症、というものを調べてみたことがある。
『老いに伴う病気のひとつで、様々な原因で脳の細胞が死ぬ、或いは働きが悪くなることにより記憶・判断力の障害等が起こり、意識障害はないものの社会生活や対人関係に支障が出ている状態』
進行すると新しい経験などを記憶できないばかりでなく、覚えていた筈の記憶も失われていくらしい。また、時間や季節感の感覚が薄れ、迷子になったり遠くへ歩いて行こうとしたりもし、酷くなると自分の年齢や家族の生死などの記憶も消えていく。思考スピードが低下し、ちぐはぐな行動や混乱してまごつくことも増えるし、通常では思いもよらない感情表現をすることもあるらしい、とあり、ひとり密かに暗鬱になったものである。
……それは、もう違う『もの』ではなかろうか。
病状の進行がどれほどのものかは、察するしか出来ない。しかし、病状を見るに少なくともあの鎌倉の家でひとりでいることはおろか、誰かを世話役にしておくことも難しい状況だったのは間違いないだろう。花にその役目を負わせるにはあまりにも重荷が過ぎる。
――いかんな……考えすぎてまう。
自然、深いため息が宗一の唇からこぼれ落ちた。考え込んでいても買い物の手は止まらず、しっかりレジで会計も済ませて持参したエコバックの中に詰め込むまでは自然に動いているわけなのだが。最早身に沁み込んだ、と言ってもいいのかもしれない。
やれやれ、つまらないことをぐるぐると考えている暇があったら、さっさと帰って夕飯の支度でもしている方が良いに決まっている。自動ドアを抜け、外に出たところで上着のポケットがぶる、と震えた。支給されたスマートフォンは、普通に使いこなせるようになった。この小さな画面で電話も出来れば調べものも出来る。文字でやり取りだってすることが可能ときたものだから、本当に科学の進歩たるや――と何度思ったことか。
画面には見知った名前が表示されていた。
「――可乃子さん?」
***
帰宅すると龍一は既に帰宅していた。彼の元にも同様の連絡が入っていたらしい。
『花のことを頼みたいの。家にいてくれない?』
連絡も時折ふらりと寄越す程度の、放任主義寄りの母親という印象が強いのだが、その彼女からの連絡にどことなく嫌な予感がする。
「花ちゃん、どうかしたのかな」
「さあな」
二人揃って話を聞くというのは難しいだろう。役割分担としては、龍一が花に付き、自分が可乃子から話を聞く方が適している。そうなれば、と、宗一は立ち上がって台所へと入っていった。
「宗?」
「鍋は今度にするか」
話が長引けば夕飯の時間まで食い込むだろうから、揃って食べる鍋は適さない。ならば、と、引き出しを見れば幸いにもホワイトシチューのルーが一箱手つかずで入っている。
「シチューにするの?」
「ん。こういう時は身体温まる方がええやろ」
そう言いながら、龍一にぽん、と舞茸の入ったボウルを手渡す。固い石づきの部分を切り落としたものだ。
「食べやすい大きさで割いといて」
「はーい」
最近は自然に龍一も台所へ入るようになっていた。簡単な手伝いなら問題ないだろうと、宗一も花も自然頼むようになり、それに彼も自然に応える。今も、少し骨ばった指で割かれた舞茸がボウルの中に入れられていく。続けてエリンギやしめじなども分けておくようにと頼んだ結果、ボウルの中には茸が山盛りとなった。
玉ねぎをざっくりと切ってから深めの鍋の中で炒めていく。その後に鍋用にと買った手羽元、そして茸を入れて短時間で焦がさないように、と一気に炒める。焦がしてしまうとホワイトシチューの色が汚れてしまうからだ。油をまとわせた辺りで水を注ぎ込みことことと煮込み始める。
アクを丁寧に取り、具材に火が通ったあたりで一旦火を止めてから、ぱきぱきとルウを割り入れていく。
「止めてから入れるんだ?」
「煮汁が跳ねると危ないしな。沸騰しとるとこにルウを入れるとダマになることがあるらしい」
「そうなの?」
「ルウに含まれるデンプンで溶けにくくなるらしいな」
「へえ……何か実験みたい」
「せやな、料理は大体科学やしな」
溶かしたところで、再び火をつけ、ことこと五分ほど煮込む。とろみがついてきたところで、牛乳を鍋の中へ投入する。更にまろやかでコクのある味わいには牛乳は不可欠なのだ。
さらに、五分ほどことことと煮込む。と、そこで玄関に気配がする。龍一が察して、ぱたぱたと台所から出ていくのを確認してから、宗一は冷蔵庫から特売のベーコンのパックを取り出した。更に野菜室からえのき茸のパックを取り出す。ベーコンを手早く細切りにしてから、えのきの石づきを切り落とし、二分割にする。食べやすいように割いてから、フライパンにバターを敷いて、ざっと炒めていく。火が通りやすい具材だから、そう時間もかからない。塩コショウで味付けをしっかりした後で、火を止めて炊飯器の蓋をぱかりと開ける。炊きあがった米の上に、炒めたえのきとベーコンを乗せて、醤油をざっと蓋回しほど入れてから手早くしゃもじで混ぜ合わせた。バターと醤油の匂いが馴染んでくれば、あとは茶碗に盛るだけだ。それくらいは龍一に任せていいだろう。
馴染んだ人の気配がする。多分、花が帰ってきて龍一が中へと連れて行ったのだろう。
「……さて、と」
気配が玄関から遠ざかり、部屋の襖が閉められる微かな音を耳で確認し、茶碗や皿を出してから台所から出ると、玄関には久しぶりに見る女性の姿があった。花は彼女の娘だと認識できるくらいには、目鼻立ちはほぼ同じようであったし、髪質もそろって淡い色の柔らかなものだ。しかし、彼女はその髪をゆるゆると背中の中ほどまで伸ばしていた。サイドを後ろでまとめたピンは、深い紅の色のシンプルなものだ。
「――可乃子さん。上がらへんの」
彼女からしたら、自分達は『遠縁の子ども達』だ。実際は、彼女や彼女の親達よりも歳は上なのだが、それはここで触れることではない。コートを着たままの彼女は、ちょっとだけ困ったように笑った。
「宗くん、ちょっと出られる?」
その微笑が、やはりあの子を思い出させる。
――花のお母さん、やなあ。
ぼんやりとそんなことを思いながら、宗一は玄関横にある上着掛けのコートに手を伸ばしたのだった。
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