第10話 霜月:忘却対抗共同戦線03
初めての会話は差し当たりなく。鎌倉の家に関してのことは、後日又連絡する――そう言って、会話を切った。
その後で花に話をしたのだ。好都合と言えば、好都合だった。鎌倉のあの家を、溺愛していた孫が守るというのなら、それは最良であるに違いない。自分も、足繁く通おうと決めたし、兄も様子を見に行くと約束してくれた。
だから、彼等には諦めてもらおうと、再び連絡したのだ。今度は、直接会って話がしたい、と。
呼び出したのは鎌倉駅バスターミナルからほど近い喫茶店だった。
約束の時間より十五分ほど前に到着したのだが、二人のほうが更に先に到着していて、謎の敗北感を覚えた記憶がある。直接対決してくるわ、と彼らの特徴を兄に聞いたのだが、帰ってきた返事が
『見りゃすぐにわかる。あのふたり、本当に周りとは違うから』
とだけで、そんなんでわかるか! と怒鳴ったのだが――今なら兄の言った意味がわかる。
待ち合わせの方ですね、とウェイトレスが微笑んで案内された先に座っている二人を見た瞬間、正直目玉が飛び出るかと思った。
一言で言えば「顔がいい」としか言いようがない。
あ、可乃子さんですか。初めまして。ふんわりと常春の微笑を浮かべた青年は、ダークブルーのたっぷりとしたデザインのタートルネックのセーターを着ていた。隣で窓際に視線を向けていた青年は、はじめまして、と短めな返事と軽い会釈で挨拶する。前髪をざっくりと上げた少々無愛想さが目立つ彼の方は、黒のVネックセーターに身を包んでいた。こちらはどちらかと言えば体の線がわかりやすいもので、正直ちゃんと食べているのかと心配になるような細さである。
二人は既にブレンドを頼んでいたらしく、既にコーヒーカップが二つ、テーブルに並んでいた。可乃子は手早く、ホットココアを注文するとふたりに向き合った。
「佐藤可乃子と申します。龍一くんに、宗一くん。話は伺ってます」
「……ですよねぇ」
言葉の棘を感じ取ったのだろう。龍一の方が困ったような笑みを向ける。
「そらそうやろ。よくわからん連中に実家任せると簡単に頷くわけない」
愛想のない声が、隣で溜息混じりの呆れた調子で聞こえてきた。ああ、話が早い。にっこりと、可乃子は微笑する。
「で? そう言うからにはそちらさんで住む算段立てられた言うことですか」
「ええ、うちの娘が」
花が頷いてくれて良かった、と内心感謝しつつ、そう答えると龍一の表情が少し曇ったように見えた。
「娘さん? 可乃子さんの娘さんなら、成人は」
「流石にしているわね。しっかりしている子ではあるし、本当は私が住みたいところだけど、すぐに動けなくてね。まあ、一人暮らしも経験しているし」
問題はない筈だ。思うよりずっと逞しいことも、知っている。だからこそ。
「だから、大丈夫よ。心配しなくても、うちのことは」
「大丈夫なわけ、ないでしょう」
その声は、やけに脳内に、響いた。
「ひとりにするつもりですか」
宗一の声に、初めて感情が見えた、気がした。
「俺達の住処はどうでもええ、それ以上に大事なことやろ。一緒に住めるようになるんはいつなんです?」
う、と言葉に詰まる。ここで彼に返されるとは思わなかった。
「い、一年程、かかるわね……家族のこともあるし」
「じゃあ、俺達が一年一緒に暮らします」
穏やかな声だが、芯の通った龍一の声が続いた。
「危ないですよ、本当にひとりは。勿論、僕等を信頼できないなんて百も承知です。でも、本当にそれでいいんです? 娘さんをひとりにして、いいんです?」
そこに、他意は感じられなかった。心底の心配と、ひとりにすることへの憤りだけが、鼓膜を響かせた。
彼等は知らない。
自分が、あの家に住むと言い出した時に、夫が猛反対したことを。それが、可乃子のことを思ったわけでなく自分の生活が崩れるからと言い切ったことを。そして花が住む、と聞いて心底安堵したことなど、知るわけもない。
だが、少なくとも花の父親であるあの男より、彼等は――花を案じている。
「可乃子さん。ほんまに、あの子をひとりで住まわせるなら、俺達も住まわせてください。お願いします」
「僕からも、お願いします。貴女が、一緒に暮らせるようになったら、出ていきますから。いや、ええと、その子が嫌がったらちゃんと僕達、出ていきますから。だから」
一年。
一年だけ、頼んでも、いいのだろうか。託しても、いいのだろうか。迷う可乃子の耳に、声が届いた。
「あかんよ」
絞り出すように、宗一が言葉を綴る。
「――ひとりなんて。皆、嫌なもんやろ」
ああ、彼らは。
見もしない、あの子を想ってくれているのだ。
それこそ、実の父親よりも、父親のように。
***
花が認めたら。それが彼等が共に暮らす第一条件だった。
最もそう簡単に首を縦に振るわけがないと思ったのはある――が、しかし、この結果だ。
彼等は、不思議だ。
危険よりも、安心を覚えてしまう。実際、それは可乃子だけではなかったようで、兄にこの結果を報せれば「ああ、あのふたりなら大丈夫だって。何なら様子を毎週見に行けばいいし、俺も見に行こうか」と絶対的な信頼を滲ませて返された。そして花自身も、彼等を信頼しているようで、連絡をする度に二人の話で盛り上がる。その様子は、年頃の男性という反応からは遠い気がする。寧ろ、娘……下手すると孫娘くらいな感覚なのでは、と真顔になるくらいなのだ。
「可乃子さんは」
残った珈琲の中に、ミルクポーションが注がれていく。スプーンでかき混ぜると、瞬く間に珈琲は柔らかなミルクブラウンへと変化する。
「一年で、カタつけられそうなんですのん?」
「んー。まあ、別にもう慰謝料とかどうでもいいから、ひとりで生きてくれって感じなのよね」
一年。
そう言ったのは、引導を渡してから相手を放り出すまでの期間である。案の定、俺が居なければ暮らせないだろうと散々ごねにごねたが、漸く離婚届に判を押させることに成功した。
因みに花に話したところ――まあ、そうなるとは思った、と笑われた。
娘にそう思われていること自体、どうなのか。あの男は憤慨するだろうが、そりゃあ父親が何を一番大事にしているかなどお見通しな子どもなら、至極普通の反応だろう。ましてや、あの子は敏いから。孫娘を認識しなかった祖父を想い、話を合わせて他人を演じ切るくらいには。
「二人が、出ていくまでには私が自由になれるから、そうしたら花と一緒に住めるし――安心するかしら?」
「そりゃあ、なぁ」
宗一は、そこでまた、目を細める。
「花が寂しい思いせえへんなら、ええよ」
本当に、どうしてこんなに案じてくれるのか。不思議ではあるけれども、一周回ってそれが自然にすら思えてくる。
任せておけば、大丈夫だろう、と可乃子は柔らかな照明の下、根拠のない、だけども確信に満ちた安堵を覚えた。
その薄暗い、向かいで。
ぎゅ、っと彼の拳が小さく震えながら握りしめられたのを。
可乃子は、知らない。
***
可乃子を駅まで送り届け、夜道を一人、歩き出す。つきん、とこめかみに軽い痛みが走り、宗一はコートのポケットを探る。確か、行きがけに咄嗟に財布とともに突っ込んだ筈だ。かさ、とポケットの中で乾いた音と共にそれは引っ張り出された。コンビニで水のミニペットボトルを買って、ぱき、とパッケージから錠剤を手のひらに二錠出すと、口の中へと放り込み、水を一気に飲む。冬も間近で冷える空気の中で冷たい水を飲むのは、少々きつい。別の意味でのきん、とした頭痛に顔を顰めながら飲み切ると、ゴミ箱へと放り込んだ。
けほ、と軽い咳に、口を抑える。呼吸も正常だ、まだ大丈夫だ、と確認して、ほ、と胸を撫で下ろす。鎮痛剤が効くまで、少し間がある。戻るまでには収まっているだろうか。あまり薬を飲んでいる姿を見られるのは、すぐ心配されるしうるさいので避けたいところだ。別に、大したことなどないのだから。
それよりも、もっと心配しなければならないことがある。こんな自分の些細なことよりも、ずっと大事なことだ。
薬が効くまでは戻るのは得策ではない、とは思いながらも、宗一の歩きは自然早くなる。痛みが微かになったところで、見慣れた家の門まで辿り着いた。
「ただいま」
からから、といつも通りの戸の音が心地よく耳に響く。廊下沿いに面した和室の襖がすう、と開けられそこからひょっこりと見飽きるほどに見た顔が玄関の方へ向けられた。
「宗、おかえり」
「花は?」
コートを上着掛けのフックに掛けながら尋ねると、龍一は微苦笑を浮かべてから、たん、と襖を全開にした。覗き込めば、食卓の和座卓の前にむすっとした表情で座っている花がいる。目元が赤いから、少し泣いたのかもしれない。
「まぁ、帰ってくるまで待つって聞かなくって」
ああ、そういう……と納得したところで、ばちり、と遠距離で視線がかちあった。
「…………オカエリナサイ」
「花」
近付き、傍らに膝を付く。
「ただいま。食ってへんのか」
そう聞きながら、ぽん、と頭を撫でると、見開いた花の目から、ぼろ、と大きな塩水の玉がこぼれて、落ちた。
「おながずぎまじだぁあぁあぁ」
「泣くほど我慢しなや……だからシチューにしたっちゅうのに」
先に食べててええんやぞ、と言えば、やでずうううと、べしょべしょと泣きじゃくりながら、花はぶんぶんと首を横に振った。
「みんなでだべるんでずうううううう」
「わかったから顔拭き、あと鼻ちーんしときよ」
龍一が苦笑いしながらタオルを手渡してくる。それと、ティッシュ箱を花の目の前に置いてから、すっくと立ち上がる。全く、本当に子どもだ。こんな子どもを一人で暮らさせることにならなくて良かった、としみじみ改めて感じながら、宗一は手を洗って台所へと向かった。折角待っていてくれたのだから、何か別にもう一品作ってやろうか。
大丈夫だ、まだ。
自分に、確認を取りながら。ぱかり、と冷蔵庫を開く。
真っ先に目に入ったブリの切り身の主張に、思わず声にならない笑いがこみ上げてしまった。シチューにえのきベーコンの混ぜご飯に、ブリの照焼はちょっと場違いが過ぎる。
「お前は明日やな」
そう言いながら、野菜室のナスの袋に手を伸ばしたのだった。トマト缶もあったから、茄子のトマトソース煮にでもしようか。
***
帰って、部屋に入るなりぼろっぼろに泣き出した彼女は、タオルに顔を押し当てながら暫く蹲る。その頭を撫でながら、龍一はずっと話を聞いていた。
久々に会った祖父は、母のことも自分のこともわからなかったこと、記憶が昔に戻っていたこと。自分達が帰る前には力尽きて眠ってしまったこと。子どものような寝顔で、眠りながらもまた今日の記憶も何処かへ行ってしまうのだな、と思ったこと。
「あの、龍一さん」
彼女が、じっと畳を見つめながら言葉を、こぼす。
「おじいちゃんを見て、考えちゃったんです。宗一さんも、こんな感じ、だったのかなって」
自分が、わかっているからの問いかけだ。
彼女に、宗一――直木三十五の全集を借りて、こっそりと読ませて貰っていた。隠れて読んでいたのは本人の目の前で読むのは気恥ずかしさもあるが、内密にしたかったのが第一にある。自分の知らない彼を、有り体にいえば彼の最期を知る為でもあったからだ。
かつての自分のように、彼もきっとそういう時がくる筈だ。
しかし、疑問は残る。直木三十五の命日は二月二十四日だ。
もし影響が出るならば、真っ先に宗一に出て然るべきだろう。彼が強かったから、自分のように揺らいだり迷走することがなかったかもしれない。
しかし、それが正解なのか、はわからない。わからないからこそ、彼の最期を文字で見届ける必要があった。
そして花も、龍一も今はそれを知っている。だからこその。
「……そうかも、しれないね」
当時の雑誌はなかなかに残酷なものだ。克明に彼の命が消えるさまを逐一報せていた。有名人故の嫌な宿命だろう。最もこの頃は既に意識も混濁していたに違いない。
死因は結核性脳膜炎。今、それを調べようとすると髄膜炎、と出てくる。
その病状は発熱、頭痛、吐き気からの嘔吐、食欲不振から始まる。また性格変化、記憶障害などの認知機能低下で発症することもあるという。
もしも。
彼が、このお試し転生をして間もなくの頃、自分の死ぬ様を認識していなかったとしたら。
記憶が、なかったとしたら。
――どうして、あの時にやりすごせたのかは、説明出来ちゃう気がするんだよね。
だからこそ。
今度は、自分の番だと龍一は覚悟を決める。あの男は、そう簡単に引き戻されてくれないに違いない。だからこそ、万全を期して向かわねばならないのだ。それには、その為には。
「花ちゃん」
あのね、と涙で目の潤む彼女へ呼びかける。
「今から共犯になって貰えないかな」
「共犯?」
「あの意地っ張りで格好つけの馬鹿を、とっておきの罠にはめようと思ってるんだ」
まるで悪戯に誘うかのようなそれに、花は挑むような視線を向けて答える。
「勿論、白目剥かせちゃいましょうね」
ああ、そういうところだよね。
僕そういうの嫌いじゃないなあ、と思わず笑う。
共同戦線の誓いは立てられた。『彼』の知らない場所で、密やかに。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます