くいつなぎながら/富田
名古屋市立大学文藝部
くいつなぎながら
:::
好きな季節は、と聞かれたことはなかった。いかにもという名前をしているから、そうなんでしょうって決めつけられて。勝手なことを言わないで、って。自分で決めたいんだって、思っていたけれど。
結局、名前に縛られているのか。それとも、ただただ偶然なのか。分からないけれど、でも。目がチカチカするぐらい
きっと、私は。この夏が好きなんだって。初めて思った。
:::
リン、と鳴る音が耳をくすぐった。うだるような暑さの中、民家の軒下から響いてきたガラスの風鈴が奏でた音。昔は金属製のものが主流だったのだけれど、今では滅多に見かけなくなってしまった。
目を向けると、縁側で鳴る風鈴の下では三毛猫がくるりと丸くなっている。チリリ、リリン、と絶え間なく風鈴が音を奏でて。きっとその木陰の座布団の上には、そよそよと穏やかな風が吹き込んでいるのだろうと思えた。お昼寝にはぴったりか、と思わず唇が緩んでしまうのは、その光景があまりにも平和そのものであったからだ。
世間は八月を迎え、夏休みの真っ只中にある。プール用具を担いで自転車で駆け抜けていく小学生や、部活帰りなのか、水筒からお茶をあおって息をつく中学生の顔は
さて、八月の暑さと来たら笑ってしまうほどで、太陽は
手入れが行き届いていないだけの葉だけれど、日差しと共に人の目も届かなくしてくれる。ほんのりと暗く、ジィジィと蝉が鳴く空間は、昔に行った林間学校を思い出させた。暑いけれども、どこか心地良い、と。それは、絶えず届く風鈴の音だったり、小学生の楽しそうな声だったり、さわさわと葉が揺れる音のお陰かもしれなかった。
校舎の壁に背を預け、そっと目を閉じると音は深く広がって聞こえる。ざわ、さわり、リン──リリン、早くコッチ、ねぇ、待って、さわさわ……リリン……。余韻の残る音に感じ入っていると、途端に腹に響くような大きさで鐘が騒いだ。顔を上げれば真上にスピーカーがあって、あぁもう、とうんざりとした気持ちで悪態をこぼした。
二回繰り返しの鐘が鳴り終わると、終わったぁ、なんて歓喜の声が校舎から届く。お昼時だから、ようやく昼食にありつける喜びに満ちているのかもしれない。今の高校生はまったく大変なことで、と。まだ高校生になってもいないので、他人事めいて呑気にそう思った。あるいは、この高校がやたらと過保護に補講を行っているのかもしれないと思うのは、隣の高校は夏には閑散としていた印象が強いからで。自主性ってやつだろうか、と首を傾げて、どうでも良いなぁ、とそのままこてりと窓の下で横になった。昼食の良い香りがこちらまで届いて、ぐぅ、と小さく腹が鳴る。
「ご飯かぁ……」
んにゃぁ、と呑気な猫の声が聞こえた。彼女から秋刀魚を奪ったのは去年だったか、一昨年だったか。結局美味しく食べられなかったのだから、悪いことをしてしまったと思う。もう食べたじゃない、と飼い主のお婆さんにたしなめられる様など可哀想で見ていられないほどだった。ああ、ごめん。一緒にご飯を食べたかっただけなんだ、と。そんな軽い謝罪では許してはもらえないだろうし、猫語を話せないせいで通じもしないだろうし。つまらないなぁ、と指先を揺らして遊んでみようとしても、彼女は飼い主の猫じゃらしにしか食いついてくれないようだった。
のんびりと考えている間にまた腹が減って、あぁ、と浅く息を
勉強ばかりに追われているつまらないこと尽くしのこの高校で、今一番、生徒たちの噂話が盛んなのは屋上についてだ。普段は開放されていないから入れるはずもないその場所について、誰が最初に言いだしたのだか。みんな恐れて、楽しんで、尾ひれをつけて遊んでいるのは──「繰り返し飛び降りる女子高生」というよくある七不思議の内の一つの話だった。今や、それを見ると呪い殺される、とか逆に受験に落ちなくなる、とか。勝手なことを言われているから、本当はどうなのか、と少しだけ気になった。だから何となく、足をそちらの方に向けて。
渡り廊下から校舎内に入り、スニーカーの底を鳴らして廊下を進んだ。購買の傍の廊下は学生で溢れているけれど、その隙間を上手くすり抜けていく。半袖の白いシャツから
一歩、一歩と足を進めれば、リン、と鈴の音が近くなる。さっきの耳に心地よい風鈴とも、昔の鉄の風鈴とも違う、小さな、安っぽい、根付についているような小さな鈴が鳴らす音。
四階分の階段を上りきり踊り場に立つと、正面には鎖と南京錠で閉じられた扉があった。階段の際に立ち、ふぅ、と空腹を紛らわすように息を
夏に似合わぬセーラー服を着こんだ少女は、ゆっくりとこちらを振り返り、ぱちり、と目を
あぁ、本当に繰り返しているのか、と。噂も馬鹿にしたものではないらしいと感嘆の息を漏らし、また、短く瞬いた。一瞬の間に消えた点が現れて、また空の向こうに消えて、現れて。どしゃんと痛そうな音と、耳を
踊り場の暗がりからタッと踏み出せば、太陽の熱が途端に重くのしかかってくるけれど。駆けだした勢いのまま、消える前の腕を捕まえて、ふわりと唇をつり上げた。彼女はまだここに居るのに、どしゃり、と耳に痛い音が遠く地面から響いて届く。死んで、死んで、死に続けて。それでも離れがたいのは、下らぬ未練のせいなのか、この世に杭を繋いだからか。冷たい掌同士が触れ合って、夏の暑さがぽかりとここにだけ空白を生んでいた。
「……ねぇ」
あぁ、もう、早く。全部忘れてしまえたら楽なのに、とは。下らぬ八つ当たりなのかもしれなかったけれど。すぅ、と一つ息を吸って、僅かに心を落ち着かせ、
「ご飯、一緒に食べない?」
問いかけると、きょとりと丸くなった目に、はは、と喉の奥から乾いた笑みがこぼれた。薄い茶色のその瞳が、こぼれ落ちそうなほど大きく開かれて。ちょっとだけ
淋しがり屋が繰り返す、下らぬ夏の一幕に、リン、と涼やかな風鈴が一抹の趣を添えていた。
四季があるからこの国は美しい、だとか。そんなことを言う人たちは皆、朝陽が昇る恐ろしさも、明日が来る絶望もちっとも知らずに生きているのだろう。ベッドに入る時間を遅らせる無意味な抵抗も、そんなことせずとも寝つけやしない心臓のうるささも、アラーム音に込み上げる吐き気も。どれをもきっと、馬鹿らしいと言って笑うのだ。
春には、新生活だ新学期だ、とまた新たな地獄が出来上がる。友人の輪なんていう不可視の壁にいつだって拒まれて、挟まれて、逃げ出して。制服に腕を通す指先が震えて、スカーフを結ぶのにやたらと時間がかかる朝なんて思い出すだけで泣き出してしまいそうになって。
夏の夜は、孤独が怖くなる。まだ一年生だからと自由参加の夏季補講は遠ざけて、課題と共に家にこもれば、その時間のなんて快適なこと、と思うのに。誰とも話さず一日が終わっていく恐ろしさと、この夏季休暇がもうすぐ終わってしまうというカウントダウンが、ぎりりと胸を締め付ける。
秋にもなれば、また独りに慣れきって。銀杏の降る並木を踏みしめながら歩いていれば、カラスでさえ連れ立って寝床に帰っていく姿に、あは、と今日初めての笑いを
冬になって、今年度という地獄の終わりが近づいて。眠れず迎えた早朝の朝陽と、新聞配達の自転車が遠ざかっていく音に息苦しさを覚える。道に積もった雪は灰のように
──あぁ。今日も、また震える手でスカーフを結んで。学校に行かないと。そうして独り教室の隅で、ただ勉強に励めばいい。それでいいんだ、だって高校生だから。勉学が本分だって、教師だってそう言っているから。私は何も悪くない。私は、何もこわくない。私は。
「……、……はは」
本当は、ちゃんと、普通の高校生みたいに。なんて。自分で勇気を出せもしないのに、自分から話しかけようともしないのに。私に話しかけてくれない周りが悪いんだって、私を無視する皆が悪いんだって。知らないことばかり言われても困るって、ちっとも知ろうともしなかった私となんて、喋ったって面白くないって知っているのに。
もうすぐ、地獄が終わって、新しい一年が始まって。春が来て、夏が来て、秋が来て、また、すぐ冬が来て。それらの全部、きっと、私は嫌いになるんだろうって。思うと、悲しくて、かなしくて。あぁ、せめて──。
「起きてるの、
「……はぁい。おはよう、お母さん」
ひとつぐらい、好きになれたら良かったのにな。
くいつなぎながら/富田 名古屋市立大学文藝部 @NCUbungei
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます