トゥーレイ/真並

名古屋市立大学文藝部

トゥーレイ

「のぞみ」

 背の高いガラス扉を開けてすぐ横にある陽の差し込むカウンター。その前に立つ女性の、透き通るような白い肌がぶわりと紅潮していく様が見えた。赤いグロスの塗られた唇がはくりと開閉し、ぎゅっと引き結ばれてから、のぞみ、ともう一度私の名前を呼ぶ。店員から差し出されたカップを引ったくるように掴んで、せわしなくヒールを鳴らしながら近づいてくる。

「……エマさん」

 エマ、というのは彼女の大学時代のあだ名だ。同学部の二つ上の先輩で、私が一回生だった頃に知り合った。訳あってエマさんはその年の間に退学してしまったので、あれから五年ほど顔を合わせていないことになる。

「久しぶり。元気にしてた?」

「エマさんこそ」

 店の壁際にある手狭なテーブルは雑誌を一冊置いていただけでいっぱいいっぱいだった。慌てて鞄に仕舞うと、エマさんは「気遣わせちゃったわね」と形のいい眉を下げる。

「まさかこんなとこで会えるなんて。でも全然変わらないからすぐにわかっちゃった。急に声かけてゴメンね」

「いえそんな……私、そんなに変わってないですか」

「そりゃ髪型とか服装とかは違うけど。前はほら、ショートだったじゃない?」

「そうでしたっけ」

「そうよ。よく覚えてる」

 エマさんはカップの水面に視線を落とした。

「でもやっぱり雰囲気はそのままね。なんて言うか、大人になったなあって感じ」

「エマさんだって、相変わらず美人すぎてまぶしいくらいですよ。芸能人に声かけられたかと思ってビックリしました」

 緩く巻かれた焦げ茶色の髪の毛を指先に絡めてエマさんが目を細めた。お世辞はいいから、とはにかむ姿はかつての面影を色濃く残している。

 そんな折、ふと違和感を覚えた。カップを持つエマさんの左手にあるはずのものがない。

 私の不躾な視線に気がついたのか、エマさんは困ったように肩をすくめた。

「別れたの。つい先月のことなんだけど」

「そうだったんですか……なんかすみません」

「気にしないで。元々一年くらい別居してたから生活自体は大して変わってないのよ」

 カラカラと笑う目元には隠しきれない疲労がにじんでいた。

 私の心臓が痛いほど激しく脈打っている。心の奥底に沈めていたあの頃の記憶が徐々に蘇ってきた。


 エマさんは大学を卒業していない。三年半ばで中退して、地元で嫁いだのだ。きっかけは両親がセッティングしたお見合いだったそうだ。流石に中退までした人は少ないが、当時はそういった結婚の仕方は珍しくなかった。

 私たちが通っていた大学は県内でも影の薄い田舎の女子校だ。ほとんどが寮生で、私とエマさんも斜向かいの部屋で生活していた。一部屋に四人、学年は一緒だったりバラバラだったりする。

 私の寮生活は最悪という他ない。同部屋の人たちと折り合いが悪く、表立って喧嘩することはなかったものの、常に嫌な雰囲気が漂っていた。特に一つ上の先輩とは何一つ合わなかった。行き場のない苛立ちは日に日に募っていくばかりで、一ヶ月もしないうちに毎晩寮から出て行く方法ばかり考えるようになっていた。

 エマさんと出会ったのはちょうどその頃だ。消灯前、部屋に戻りたくない一心で無駄に広い寮内を歩き回っていたとき。誰も寄りつこうとしない埃だらけの階段の前でばったり鉢合わせた。

 階段の先には、屋上へと続く扉がある。侵入禁止と書かれた色褪いろあせた張り紙と共に南京錠が掛けられていたが、エマさんはなぜかその鍵を持っていた。

「暇してるんならちょっと付き合ってよ」

 脱色されたセミロングの髪を揺らしてエマさんは私の腕を引いた。どうして鍵を持っているのかと聞いても適当なことを言われて流されてしまう。

 その頃の私はエマさんにあまり良い印象を抱いていなかった。軽薄そうな、いかにも遊んでばかりいる大学生ですといった風貌で。唯一好きだった部活の時間、バレーばかりやっている私の芋くさい見た目とは雲泥の差だったからだ。

 屋上に足を踏み入れてからも、トラブルになったらどうしよう、誰かに告げ口でもされたらどうしよう、と私はしばらく挙動不審になってしまった。けれどエマさんはそんな私のことなどお構いなしにスタスタと突き進んでいく。そこには自分たちの他に誰の姿もなく、静かで、殺風景な場所だった。

 屋上に行くとエマさんは必ず煙草を二本吸い、缶コーヒーをすする。煙草の銘柄はいつも決まっていた。緑色のホープ。あんたと同じ名前だね、なんて笑われたこともあったっけ。嬉しくて、私も真似して一緒に吸うようになった。

 コーヒーは絶対にブラックのくせに、実は甘党なのだという。他にも食の好みや過去の交際相手、趣味嗜好、バイト先の話。授業のこと。ゼミでの話。全部屋上に通ううちに教えてもらったことだ。私たちは妙に馬があった。夜、二人きりでポツポツと話をするのがいつのまにか習慣になって、だんだんお互いの込み入った話もするようになった。

「あたしたちって似たもの同士だから」

 名前を聞いても誰も知らないような頭の悪い学校。辺鄙へんぴな土地にあるそこをわざわざ選ぶのは、どうしようもないバカか家出願望のあるスレた子くらいだ。私は後者だった。とにかく親元から離れたくて、でも受験勉強はしたくなかったから、家から最も遠くにある推薦で行ける学校にしたのだ。エマさんも似たようなものらしい。私たちのような境遇の子は他にも掃いて捨てるほどいる。

「やんなっちゃうね、ほんとにさ」

 そんな口癖も今じゃ懐かしい。エマさんは器用で美しい人だった。集団の中心にいるわけではないけれど、多くの人から頼りにされている。いくつものサークルを掛け持ちして、バイトもたくさんして、単位だってちゃっかり取って。だからといって真面目なわけでもない。サボるときはサボって、上手くやりくりする。気だるい雰囲気も相まって、いつも余裕のある格好いい女性だった。

 私は、そんな彼女に密かに憧れていたのだ。

 短かった髪を伸ばすことにした。穴ぼこだらけの耳が羨ましくて、安全ピンで耳たぶを貫いたこともある。服装やメイクもさりげなく真似して、少しでも近付きたいという思いを胸に抱いていた。

 望、彼氏でもできたの。部活のチームメイトにそう聞かれたこともある。違う違うと否定すれば、じゃあ好きな人でもできたのと囲まれて、何と答えるべきか迷う場面もあった。エマさんと仲良くなったことは誰にも教えていなかったからだ。ルームメイトにさえ言っていない。口止めされていたとか、言うのが怖かったとか、そういうわけではないが、何となく秘密にしておきたかったのだ。あの場所は、エマさんと私だけの特別なものにしたかったんだと思う。

 けれど、それも長くは続かなかった。

 エマさんが大学を辞めると知ったのは、屋上に通うようになってから半年が経った頃のことだ。前期の試験が終わって夏休みを謳歌おうかしていたとき、実家からの催促を無視して寮に残っていた私は、夜以外の時間帯に初めてエマさんに呼び出された。

「あたしね、来月結婚するの」

「え……」

「だから大学辞めろって言われちゃって。どうせろくなとこ行けないんだから、さっさと帰ってきて花嫁修行でもしろだってさ」

 屋上には雲ひとつない晴天が広がっていたのを覚えている。私は言葉を失ったまましばらく固まってしまって、掛ける言葉を見つけられなかった。

「バッカみたい! せっかくこんなクソ田舎まで来てやったのに。ぜーんぶ無駄だったわ」

「そんなこと」

「ないって言ってくれるんだ」

「……だって、もしエマさんがここに来てなかったら一生会えないままだったじゃないですか」

 震える声でそう言い切ってから、私は恥ずかしさで顔が紅潮していくのを感じた。エマさんはそんな私を見て、笑うのに失敗したような顔を見せる。

「お幸せに、エマさん」

 まっさらだった耳にはいびつな穴が開き、よく髪質を褒められていた頭髪はキシキシに傷んだ。煙草とコーヒーの苦さを知った。たった半年のことだったけれど、今の私を形作ったのは間違いなく彼女だった。


 店を出ると、外はすっかり暗くなっていた。人のまばらな大通りを歩きながら、私たちはあの頃のように他愛もないやりとりをした。ところが、駅が近付くにつれてエマさんの口数が少なくなる。やがてうつむきがちになって、目線も合わなくなってしまった。

「どうかしましたか」と声を掛けると、エマさんはキョロキョロと周囲を見渡してから「あそこ」と指を差した。

「煙草、吸っていい?」

「まだやめてなかったんですか」

「うん、まあね。望は?」

「とっくの昔に禁煙しましたよ。身体に悪いしダメだって言われて……というか、エマさんがいなくなってからずっと吸ってないです」

 エマさんは僅かに驚いた様子だった。それもそうだ。大学時代の自暴自棄な私しか知らない彼女の目には、健康を気にする私の姿はさぞかし奇妙に映ったことだろう。

 駅近くの喫煙所は珍しく人っ子一人いなかった。エマさんは目を伏せたままゆっくりと煙を吐き出す。

「なんか嬉しいな。あんたがそうやってあたしのこと覚えていてくれてたの」

「私の方こそ、エマさんが声掛けてくれて本当に嬉しいです」

「そっか……そっかぁ」

 ふふ、と喉で笑うエマさんに私はぼうっと見惚れていた。艶やかな髪の毛に煙が溶けていく。

「ありがとう。もう行こう」

 帰りがけに駅構内の自販機でコーヒーを買った。ブラックと微糖。どっちがいいか訊ねると、わかってるくせに、と背中を叩かれてしまった。

「じゃあね、望。今日は楽しかった」

「エマさん……」

「そんな悲しい顔しないで。きっとまた会えるわ」

「でも、私」

 あなたの住所どころか電話番号さえ知らないのに。

 すがり付こうとした私をエマさんは素気無く振り払った。バクバクと心臓が激しく脈動する。今までの楽しかった気持ちが急降下して、体の内側から冷えていくような感覚に苛まれた。

「ま、待って、待ってよエマさん」

 こういうときに限って電車はすぐに来てしまう。扉が開くと、エマさんは列になっていた人たちの波に飲み込まれていく。

「私結婚するんです、来週には引っ越さなくちゃいけなくて」

「うん、そっか」

「会えるのはこれが最後かもしれない」

「……うん」

「だからせめて連絡先だけでも、エマさん」

 縋り付いた私に、エマさんは前を向いたままゆるゆると首を振った。

「どうして……」

「もう、これで終わりにしましょ。それできれいさっぱり忘れるの」

「何、言って」

「そうしないとあたしたち二人そろってダメになっちゃう。ほら、あたしたちって似たもの同士だからさ」

 肩が上下し、エマさんが振り返る。

「さよなら、望。あたしの分まで幸せになってね」

 閉じ切った扉の向こうでエマさんの顔がくしゃりと歪んだのが見えた。私はしばらく呆然としたままその場に立ち尽くしていた。

 似たもの同士、エマさんはそう言っていた。かつての彼女も同じだったとでも言うのだろうか。

 五年ぶりに私を見つけたエマさんの、頬を赤らめて嬉しそうにはしゃいでいた姿が脳裏を過ぎる。まるで愛おしいものを見るような目で彼女はあの頃の私たちを語っていた。

 あぁ、と嗚咽まじりの声が漏れる。彼女は、もうとっくに気が付いていたのだ。私が無意識のうちに彼女に惹かれていたことを。そして彼女もまた、私を忘れられないということを。

 勝手にぽろぽろとこぼれ落ちる涙を拭おうと目元に手を当てたとき、左の薬指にはまったにび色のリングが視界に映り込んだ。

 この指輪は、今の私にとっては枷にしかならない。これがある限り、私は本当の意味で幸せにはなれないのだろう。

 私たちは大切なものを見つけるのが遅すぎたのだ。


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