渦をまく夕方2
浮かぶ涙をぬぐいつつ、石段を駆け下り、街に戻ってきた。見慣れた街の景色。図書館に幼稚園、小学校とその隣の公園、駄菓子屋。
陽は沈んだ。わずかに朱色の余韻が残る空は、段々藍に浸っていく。
家まであと少しのところで僕は足を止めた。古びたバス停のベンチに腰掛けて目頭を押さえる。
目に入ってくる景色のすべてに彼女がいる。さっき通った図書館だって一緒に行ったし、幼稚園にも一緒に通った。小学校にだってこれからもずっと一緒に行くものだと思っていたし、その流れで中学校だって、と思っていた。
このバス停のベンチだって、隣町に行くときにはいつも彼女と座っていた。
「……」
秋の虫たちは、今日はやけに静かに鳴く。その音だって彼女と聞いた記憶がある。
逃げ場なんてないのだ。この街のすべてが彼女の姿を呼び起こしてしまうのだ。これからずっと永延に。
(こんな、別れでいいのか。あんな言葉が、最後に伝えた言葉になってしまってもいいのか)
「そんなの……」
気付くと、僕は駆けだしていた。たった数分前の自分の言葉を掻き消すために。変な憤りにまかせて伝えたい事の一つも言えなかった自分を殴り倒すために。
ポケットの中の手紙を確認し、息を切らしながらも僕は走った。街に灯りが点き始める。まだ足取りは重い。けれど、そんなことに構ってはいられない。
石段下。膝に手を置いて額を拭う。呼吸を整える間も惜しく、僕は一段飛ばしで階段を駆け上がる。
鳥居の下、さっきまでの場所。そこに彼女はいなかった。
一縷の望みをかけて、僕は彼女の名前を呼ぶ。しかし、境内のどこからも返事はなかった。
「渚……」
雑木林が冷たい夜風に揺れる。その音が今は嘲笑っているように聴こえた。
鳥居の下に戻って、街を見下ろす。今や空は藍に浸り、遠くの車の群れは光を灯して存在を示している。
「……渚」
(夕方は境界)
昼と夜、生と死の境目。その時間だったら間に合っていたはずなのに、世界は境界を過ぎ、夜に沈んでしまった。もう手遅れだ、そう言っているように思えた。
振り返り、僕は石段をトボトボと、下る。見上げた空、眩く光っているはずの星は、滲んで一つもよく見えなかった。
何もする気になれず、僕は着替えもせず、食事もとらずにベッドに倒れ伏した。下から母親が呼ぶ声が聞こえたが、答える余裕すらなかった。
深夜3時。窓の外は真っ暗。目を閉じてみる。けれど思案は尽きず、睡魔に堕落できないままだ。
虫の声も犬の遠吠えも、風の音もバイクの音も、何一つ聞こえない静寂が、新しい傷を容赦なく疼かせる。
そうやってボーっとしているうちに、夜は遠くへ去っていった。鳥が鳴き、朝陽が入り込んできても、気分はどんよりと曇ったままだ。
朝8時。秋晴れの空に遠く踏切と高速道路の車の疾走音。渚はもう行っただろうか。
昨日の宵から途切れることのなかった思案の糸。それを引きちぎったのは荒々しいノックの音だった。
秋風が冷たく吹き付けてくる道を、俯きがちに歩く。マフラーをつけてくればよかった、と小さな後悔をする僕の左手には、昨日来ていた服が入ったビニール袋がある。
出さなかった洗濯物は自分で洗ってきなさい。母は眉を吊り上げていった。
昨日と同じで、街を歩くのはつらい。でも、一方で、もうどうでもいいやと思う自分もいた。
県道沿いを歩いて10分、コインランドリーに着いた。無駄に明るい建物の中に入る。他に客はおらず、洗濯機と自動販売機の機械音が響くだけだ。
袋から衣類を出して機械に投げ入れる。ズボン、靴下、下着にシャツ、パーカー。別れの痛みと後悔を吸ったためだろうか、心なしか重たく感じた。
30分と時間が表示される。ため息一つ、僕は椅子に腰かけ、目を閉じる。欠伸が漏れる。これまで眠らなかったことの報いなのだろうか。……いや、その前提、僕が悔いを残すような言動をしたからだ。何であの後、僕は彼女の家に行かなかったのか、と新たな後悔と怒りがこみ上げてくる。
再度溜め息。まだ1分しか経っていない。
さすがに財布を持ったまま寝るわけにはいかないので、僕は洗濯機の前に立った。
「……ん?」
手をついて、中を見ると、何か白いものが回る衣類に付いていた。洗剤ではない固形の何かが。運転を停止して扉を開ける。そして気づいた。
「ああ……」と思わず声が漏れる。
パーカーを取り出し、入れっぱなしにしていたポケットの中の手紙の残骸を取りだす。
水にふやけ、半分くらいはもう外に、ばらばらになって流れ出てしまった。渚に渡すはずだった手紙。
(向こうに行っても、仲よくしよう)
その言葉は口でも文字でも伝えることはできないんだ。
脚の力が抜け、膝から崩れ落ちた僕は、パーカーを持ったまま、口を開けた洗濯機の前で頭を押さえた。
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