スピリタス
オレはしばらく呆然としていたが、やがて女の傍へ歩み寄り、脈をとった。死んでいることを確認すると、携帯電話を取り出して一一〇番通報をした。警察はすぐにやってきたが、そのときにはもう何もかも終わっていた。……結局、女の死については事件性が認められず、単なる事故死として処理された。
警察は事故の原因について、睡眠薬の大量摂取による急性中毒死と結論づけたが、これは明らかな嘘だった。女は睡眠薬など飲んではいなかったのだ。彼女が最後に口にしたのはアルコール度数数百%を誇るスピリタスである。
ではなぜ女が死んだのか? 彼女は確かに「心中天網島」という言葉を口にした。そして、なぜそれが死の直前に発せられた言葉となったのか。女は自分の意志で死んだのではない。何者かの手によって殺されたのだ。
そう考える根拠は他にもあった。オレたちは先ほどまでホテルの部屋にいたのだが、部屋のドアには鍵がかけられていたし、窓も施錠されていた。つまり外部から侵入した者がいたとすれば、そいつは部屋の中にいてしかるべきなのだ。
ところが、女の死体が発見されたとき、室内は無人であり、誰かが隠れていそうな場所もなかった。しかも、死体の傍らに残されていたグラスの破片を調べた結果、凶器に使われたのは鋭利な刃物ではなく鈍器であることが推測できた。したがって、犯人は外から入ってきたのではなく、部屋の中でずっと息を潜めており、グラスを投げつけることで女を殺害したと考えられる。
オレが考えたのは、犯人は女が睡眠薬を飲むことを知っていた人物であるということだ。女はワインボトルと一緒にスピリタスを持ってきていた。そしてそれをグラスに注いだのだから、当然、中身のアルコール度数も知っているはずである。女は酔っぱらうと、いつもスピリタスを持ち歩いていたという。そして、自分のお気に入りの飲み方をするのだそうだ。彼女はその飲み方が好きだった。それで、オレは彼女に訊ねたことがあるのだ。
「君はいつもどんなふうにしてスピリタスを飲んだりするんだ?」
「決まってるじゃない。グラスの底から、上に向けて少しずつ注ぐのよ。まるで天の川みたいに」
そんな会話を交わしたことを覚えている。その時の情景を思い出すと、今でも寒気がしてくるのはなぜか。
女は睡眠薬を飲まされ、意識を失った状態で、あのグラスの注ぎ方に付き合わされたに違いない。グラスの中の液体は上から下へとゆっくりと移動していく。底に到達する前に眠っていたとしても、その動きを無意識のうちに感じ取ってしまうかもしれない。やがて底に到達した時には、女は完全に覚醒しているだろう。そして、彼女の目に映るのはグラスの表面に無数に浮かび上がる縞模様……。
オレはこのことを警察に話したのだが、「自殺説」を覆すほどの説得力はなかったようだ。
だが、これで女の行動の意味ははっきりしたのである。女は心中するつもりでオレに接近してきたわけではない。ただ単に、妊娠するために既成事実を作りたかっただけなのだ。
「私は佐竹先生の子供を産むつもりなの」
この言葉は本心から出たものだったのだろうか。あるいは、睡眠薬で正常な判断能力を失っていたせいなのか。今となっては知る由もない。
しかし、いずれにしても女は計画を実行に移してしまった。いや、実行に移したというよりは、自分が妊娠していることに気づいていなかったため、オレとのセックスによって初めてそれを知ったといった方が正確であろう。
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