心中天のヤング干渉縞

水原麻以

心中天のヤング干渉縞

心中天のヤング干渉縞のように、その模様はうねくりながら拡がって行く。……やめろ! もういいから! オレは必死に心の中で叫んだ。だが、声にはならない。声にならないから相手もやめない。

「君にはわかんないよ」

相手の言葉は執拗に「ヤング干渉縞」を繰り返した。女の眼は座っている。床に転がる睡眠薬、ワインボトル、追加のアルコール度数百%スピリタス……。それらすべての要素が、オレを追い詰めていく。

「わかんねえよ!」

やっとそれだけを口にできた。そして、それだけで精一杯だった。オレは今にも泣き出しそうになっていたのだ。

「わかるわけがないんだ!」

女の声はヒステリックになった。グラスになみなみとワインを注ぎ「心中天網島ぐらい習ったでしょ」と言って一気に飲み干す。それからまた注ぐ。それを三回繰り返したところで、彼女の手からグラスが滑り落ちた。鈍い音が部屋に響く。グラスは割れなかったが、テーブルの上で粉々になり、飛び散っていた。ガラスの破片はカーペットの上にまで散らばったが、彼女はそれに気付いて「心中しようよ。心中天網島。網島、干渉縞」とわけのわからない事を呟いた。

「ヤングの干渉縞なら知ってる。有名な量子力学の二重スリット実験だ。それが何で自殺と関係する?」「…………」

「教えてくれよ。なぜそんなこと言い出したのか」

女は黙りこくったまま答えようとしない。ただ、「ヤングの干渉縞」「網島、干渉縞」と呪文のように唱えているだけだ。

「頼むから教えてくれ。なんで君はこんなことをしているんだ?」

「佐竹先生が悪いんでしょ~。奥さんがいるいたなんて」

女はスカートのスリットをたくし上げ「ほら、干渉縞」

「それは妊娠線だろうが!」オレは怒鳴った。頭がガンガンした。

「じゃあ、この線はなんですか? ほら、ほら、これだよ。これが干渉縞」

女は太腿の内側を指差して言う。白い肌にくっきりと浮き出た二本の筋があった。それは紛れもなく、先程見た妊娠線の痕であった。

「それだって妊娠線でしかないじゃないか! さっき見たばかりだからよく覚えてるぞ」

女は急に立ち上がり、オレの顔を見下ろした。瞳孔が大きく開いている。焦点があっていない。顔全体が青ざめていた。そして、真顔で言った。「嫌らしい男。エロだけじゃなくて性格の意味で。二重に嫌らしい。干渉縞は粒子と波動性の二重性を証明する実験でしょ。そして佐竹先生の発明した干渉縞は粒子じゃなくて受精卵を愛のラブウェーブから作り出す禁断の干渉縞」「馬鹿な事を言うんじゃない!」

女はオレに向かって両手を伸ばしてきた。抱きつこうとしているのだ。咄嵯に身をかわしたが、腕が肩に触れただけで金縛りにあったように動けなくなった。全身から汗が吹き出る。心臓が激しく鼓動していた。

「お願いだからやめてくれ。君とは結婚するつもりなんだ。子供ができたってかまわないと思ってる。しかし今は駄目だ。とにかく今はだめなんだ」

女の手が首筋を撫ぜるように動く。その感触に鳥肌が立った。だが、女の動きはそこで止まった。次の瞬間、女の体が後ろに反り返ったかと思うと、そのまま仰向けに倒れた。どうっと音がして絨毯の上に広がる。胸を大きく上下させながら苦しげな表情を浮かべていたが、そのうち静かになった。呼吸が完全に止まっていた。

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