後編

 定時に仕事が終わり、ひろ子と礼奈は連れ立って都内の五階建てマンションに向かった。ひろ子の暮らす部屋は三階にあり、随分とゆっくり動くエレベーターに乗って上がっていく。

「ただいま」

「おじゃましまーす」

 玄関をくぐると、どこか甘いような、懐かしいような、そんな匂いが礼奈の鼻孔をくすぐった。それは礼奈にとってだけでなく、きっと誰にとってもどこか懐かしさを覚えさせられるような匂いで、それが部屋の中央に座り込んでいる女性から発せられているものだとは容易に想像がついた。

「おかえりなさい」

 二十四歳というには少し幼い風貌。姉と同じくさらさらの、しかし長い黒髪。化粧をしている様子もないのに、ぽてりとした頬は薄紅に色づいている。

「ももちゃん」

 礼奈はぎょっとした。ひろ子が誰かをちゃん付けで呼んでいるところなんて見たことがなかったし、これからも見ないだろうと思っていたからだ。ももと呼ばれた少女は立ち上がると、「ひろちゃん」と言いながらひろ子に近づき、そのまま抱きついた。ひろ子は特に抵抗することもなく、それどころか手に持っていた鞄やチーズドレッシング入りのビニール袋を床にどさどさと下ろすと、深く息を吐き出しながらももの背中に手を回した。

「――仲良しなんだね」

 たったひとり、場の空気から取り残された礼奈が恐る恐る声をかけると、ひろ子の肩越しにももと目が合った。ふうわりと笑ったももは、幼い見た目とは裏腹に深く澄んだ色の瞳をしていた。

「いらっしゃいませ。ひろちゃんのお友だちですね。おまちしてました」

 ひろ子の肩に隠れて口元は見えなかったが、目元だけでも笑っていることがわかった。三日月形に歪む双眸が薄い膜で宝石のようにきらめく。

「いまごはんの用意しますね。ひろちゃんは着替えておいで」

「ん」

 ひろ子は驚くほど素直に――誰かに反抗的になっているところなど礼奈は見たことないが――ももから離れると、引き戸を開けて、今いる部屋の隣の間に吸い込まれていった。

「……」

「おどろいたでしょう?」

 礼奈の心中を読み取ったかのように、ももがくすくす笑いながら部屋の隅のキッチンに向かう。コンロはひとつで、オレンジ色のフライパンが乗っている。まな板を置くスペースと、小さめのシンク。どこもよく磨かれており、油汚れなどは見当たらない。

「ざぶとんありますから、どうぞすわってください。いまごはん並べますね」

 ももが背中越しに言うので、礼奈は遠慮なくちゃぶ台の横に腰を下ろした。床にはカーペットが敷いてあり、きっとそのまま座っても痛くはないだろう。

「ひろちゃん、おうちではちょっと甘えんぼさんなんです」

「はあ」

 かちちち、とコンロが火を灯す。フライパンの中でなにかがじゅうじゅうと音を立て始めた。

「でも、まいにちお外でお仕事がんばっているので、わたしにとってはかっこよくて頼りになるおねえちゃんです」

 声音だけで嬉しそうな感じが伝わってきて、礼奈の頬にも笑みが宿る。外ではいつも強張った表情のひろ子だが、家に帰ればこうして心を癒してくれる存在がいる。友人としてこんなにほっと出来ることはない。

「ももちゃん」

 ちょうどそのとき、ひろ子が着替えから戻ってきた。床に落ちていた荷物からチーズドレッシングのボトルを拾い上げ、もものもとへ駆け寄る。

「ももちゃん、これね、今日行ったお店で買ってきた」

「あら、そうなの」

 一度火を止め、ももが振り返る。どこか拙い口調で続けるひろ子。礼奈は微笑ましい気持ちで見つめていた。が、やがて小さな違和感を覚える。傍目にはぽかぽかと温かい風景なのに、どうしてだが、ごろっとした不自然さが拭えない。礼奈は片眉を吊り上げる。

「すっごく美味しかったから、ももちゃんとも食べたいって思って。サラダにかけて食べよう。スーパーで買ってきたのがあるでしょ」

「うん、うん、そうね。たべようね。ありがとう」

 ももはひろ子の頭を優しく撫でると、そのままひろ子を抱きしめた。瞬間、礼奈が違和感の正体に気が付く。

「ひろ子、背が――」

 ももがひろ子の肩越しに、口の前で人差し指を立てた。白くて綺麗な歯列がいたずらっぽく輝く。どう見ても異常な事象なのに、それだけで礼奈は唇を縫い合わされる。

「ひろちゃんはやさしいね。わたしのこと考えてくれたんだ」

「そうだよ」

 そう言うとひろ子は、もっと撫でろ、もっと褒めろとばかりにももの首元に頭を押しつけた。部屋着であるTシャツの襟がずるりと肩から抜け、白い肌が露わになる。

「えらいえらい。やさしいし、がんばりやさんだね。きょうもお仕事がんばったね」

「ん」

 ももの腰回りに抱きつくひろ子が、駄々っ子のように身体を揺らす。ももは困ったように笑いながらひろ子の頭を撫で続けた。

「ひろちゃん、ひろちゃん。わたしね、お夕飯つくらないといけないから、いったんはなれてね」

「やだ、だっこ」

 ももの腰にも手が届かなくなったひろ子が、手を伸ばしてそうせがんだ。ばたばたと地団駄を踏むと、ズボンが床に脱げ落ちた。

「だっこ、だっこ、だーっこ」

 声に涙が混じってくるようになり、ももが「しかたないなあ」とため息を吐きながら屈み込む。

 礼奈はというと、口元を押さえながら、目の前で友人がみるみる小さくなっていく様をなにもできずに眺めているしかなかった。座ったままじりじりと後じさり、カーペットにしわを生み出していく。

「え……ひろ、こ……?」

 驚かないで、と言っていた友人の顔が思い浮かぶ。もっとも、当の友人は目の前で妹にあやされている。

「おどろいたでしょう?」

 慣れた手つきで赤子を抱きながら、ももが先ほどと同じことを問う。礼奈はすでに恐怖と驚愕でなにも耳に入って来なかった。

だらしなくとろけきった笑顔。その面差しは、腕の中の赤子と少し似ていた。

「ひろちゃん、おうちではちょっと甘えんぼさんなんです」



 開け放たれた玄関扉を閉じ、再び部屋の中央に戻る。腕の中のひろ子がももの顔に手を伸ばし、機嫌よさそうに笑った。歯も生えていない口元はてらてらと涎で光り、ももはそこにそっと右手の人差し指を入れる。ちゅうちゅうと強く吸い付くひろ子を見て、ももはふうわりと微笑んだ。

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ひろちゃんかわいい 工藤 みやび @kudoh-miyabi

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