ひろちゃんかわいい

工藤 みやび

前編

「ひろ子って妹さんとふたりで暮らしてるの?」

 同僚の礼奈がミートソースパスタを巻きながら、ひろ子に尋ねる。平日昼間のイタリアンレストランには、千円のパスタランチを求めてOLや女子大学生が群がっていた。セットでついてくるシーザーサラダが大人気で、たっぷり掛かっている濃厚チーズドレッシングは帰り際にレジで購入することも可能だ。

「そうよ」

 目を皿に伏せたまま、ひろ子が抑揚のない声で答えた。パスタを口に運ぶたびにショートボブの黒髪がさらさらと揺れる。礼奈はフォークを置いて「そうなんだ!」とはしゃいだ。

「ひろ子みたいなお姉ちゃんだったらあたしも欲しいなあ。ひろ子しっかりしてるし、優しいし――うちには四つ違いの兄貴しかいないんだよね。ひろ子の妹はいくつ?」

「二つ違いの二十四歳」

 ぱくり、パスタを一口。明太カルボナーラはこの店の一押しだ。とても美味しいはずなのに、ひろ子の顔はあまり動かない。砂を噛んでいても同じ顔をするのではないかと思わせる表情だ。

 新卒で就職して三年。同期の中で飛び抜けて優秀なのがひろ子だったが、その表情の冷たさが同期たちを遠ざけているのは明白だった。仕事をスムーズに進められる程度のコミュニケーション能力はあるが周囲に馴染めるほどの愛想はなく、興味を持って話しかけてくれた礼奈以外に仲のいい友達もいない。それでも大して気にした素振りを見せないのがひろ子だった。

「そうなんだ。お仕事はなにしてるの?」

 礼奈が身を乗り出して尋ねると、ひろ子は「つくよ」と自らの胸元を指差した。前のめりになったことで垂れ下がったワンピースの胸元がミートソースにつきそうになっており、礼奈は苦笑しながら姿勢を正した。

「特にはしてない」

「特にってことは、バイトとかをちょこちょこってこと?」

「じゃなくて、本当に働いてない」

「……病気とか?」

「ううん。心身ともに至って健康」

 礼奈は虚を衝かれたように目を見開いた。想定していなかった答え。だって、あのひろ子の、あのしっかり者のひろ子の妹がニートで、姉のもとで世話になっているなんて。

「なんでひろ子が面倒見てるの? 普通そういうのって、お父さんとお母さんが実家に置いて、ハタラキナサイヨーとか口うるさく言うもんかと思ってたんだけど」

 こういうときに歯に衣着せないところが良くも悪くも礼奈なのだが、これが案外ひろ子との相性がいい。ひろ子はパスタの最後の一口を口に入れると、咀嚼のためにしばらく押し黙った。

「もともとうちにはおかあさんがいなくて――あ、この場合のいないっていうのは、物心ついたときにはいなかったってことで、具体的に言うと、妹が生まれた直後にいなくなってしまったの」

 テーブルのナプキンで口を拭くひろ子。礼奈は静かに続きを促す。お喋りな質の彼女だが、質問したからにはその回答をきちんと聞く程度の常識は当然持ち合わせている。

「それで、おとうさんが私たちを育ててくれたんだけど……ネグレクトっていうのかしら。育ててもらった身でいうのはちょっと申し訳ないんだけど」

 そんなことはない、と首を振る礼奈。ちょうど店員が空いた皿を回収しにやってきたので、ひろ子はそれが済むのを待ってから続ける。

「お金は家に入れてくれてたんだけど、いまいち私たち姉妹に興味を示してくれる人ではなくてね――大学を卒業したタイミングで、妹を連れて家を出た。それで今に至るの」

 そこまで話し切ってから、ひろ子は席に着いたときに出されたお冷に口をつけた。口数の少ない彼女がこんなふうに自分のことをたくさん話すのは珍しい。というより、今まで訊いたことがなかったから言わなかっただけで、ひろ子は自分のことに関してそれなりにオープンだったのだ、と礼奈はようやく気が付く。

「……働かなくていいっていうのは、私が言ったのよ。私は、あの子が近くにいてくれるだけで充分だから」

 ふーん、と肘をつき、礼奈はひろ子の顔に見入る。いつになく、ひろ子が柔らかな顔をしている気がしたのだ。もちろんそれは、三年の付き合いだからこそわかることだが。

「ねえ、妹さんの写真とかないの?」

 この鉄面皮を和らげるほどの人物がどういうものなのか、礼奈はふと興味を持った。ひろ子は首を横に振る。では可愛いのかどうかと尋ねると、可愛いかどうかは主観だから、と可愛げのない返事が来る。

「じゃあさ、今度家に遊びに行っていい?」

 どうしても気になった礼奈が手を合わせると、

「いいわよ」

意外にもひろ子はノータイムで承諾した。

「なんなら、妹には連絡しておくから、今日はうちで夕飯食べていけばいい」

「いいの?」

 ようやくミートソースパスタの最後の一口を食べ終わると、店員が光の速さで皿を持っていく。のんびり食べ過ぎたのかもしれない。昼休みがもう終わってしまいそうだ。

「うん。ただ、来てもいいけど」

 店を出る支度をしながら、ひろ子は礼奈の目を真っすぐに見つめた。感情が読み取れない瞳。でもひろ子がこんな目をするのは珍しいので、礼奈は特別感に舞い上がる。

「驚かないでくれると嬉しいな」

 再び、虚を衝かれたように固まる礼奈。意味深な台詞を投下された彼女を気にすることなくひろ子は上着や荷物を持つと、先にレジへと向かった。

 会計前に、ひろ子はレジで販売していたチーズドレッシングを手に取った。妹のために買っていくらしい。

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