港町 27
大陸では、求婚は男性から女性にするのが一般的。
その際に男性は女性に指輪を渡す。相手の為だけに作られた唯一無二の品だ。
贈られた女性は、言葉の了承とは別に、対になる指輪を作って男性へ渡す。指輪ができる期間が婚約期間となる。
「俺と夫婦になれば戸籍が手に入る。神官を忘れて……この町で暮らせばいい」
スエンの無骨な手がリンの頬を撫でた。
リンの肩がびくりと揺れる。
邑に帰らず町で暮らす。
数日前ならスエンの申し入れを受けていたかもしれない。
けれど、帰ることを選択した。
驚きはしたものの、気持ちは揺るがなかった。
「ごめん。受けとれない」
「…………だよな」
スエンは背中から倒れ込み、布団の上で腕を広げて寝転がった。
淡々とした声から本気ではないことが察せられる。
リンはほっと息を吐いた。
もしリンが頷いたら、本当に夫婦になる気があるのだろうか。
スエンとは友人でいたい。
「あのさ……」
倒れたスエンの顔を身を乗り出して覗き込んだ。
スエンは不機嫌に眉根を寄せる。
「お前なぁ……」
後頭部を掴まれぐいと引き寄せられた。
鼻が触れ合うほど顔が近くなる。
驚いて思わず目をぎゅっと瞑った。
「目ぇ閉じるとか。抱かれてぇのか」
スエンの目に呆れの色が表れている。
反射とはいえ、避けることもできたが抵抗しなかった。
良いか悪いかなら、もちろん良くない。
しかし、リンにも譲れないものがある。
「お、女は度胸だ。掛かってこい!」
顔面に気合いを入れて言い切った。
気合いを入れ過ぎて、少々荒っぽい。
虚をつかれたスエンは、ぽかんとリンを見返し、突然笑い出した。
「色気が皆無だな」
確かに、戦場での掛け声だった。
気持ちの上では戦場だったが口に出すべきではなかった。
スエンの手から解放され、背後の壁まで後ずさって距離を取る。その際、帯の裾を踏んでしまい、衣装が解けかけてしまった。ぎゅっと前合わせの襟を握って防御を高める。
なおも笑っているスエンを睨みつけた。
スエンは気にした風でもなく、酒をぐいっと飲み干し、くくっと喉で笑う。
「お前、壊滅的に娼婦に向いてねぇよ。やめとけ」
「向いてたまるかっ!」
リンは噛み付くように吠えた。
威嚇する様は、まるで山猫のようで、スエンの笑いは面白いから微笑ましいに変わった。
幼子扱いをされているのが見えて、それはそれで腹を立てる。
とはいえ、相手をしないと稼げない。
どうしたものかと視線を彷徨わせる。
「おい、リン」
「……ンだよ」
つい不貞腐れた返事をしてしまう。
やっと笑いが収まったようだが、まだ僅かに肩が揺れている。
「酔いが回って眠くなってきた。膝枕してくれ」
「ひざまくら?」
思わぬ提案が飛んできて、言葉を繰り返した。
膝枕ならクロウに何度も強請られたので経験がある。
けれど、一晩の代金としては、釣り合いが取れていない。
「それとも、抱き枕になって添い寝してくれンのか?」
「いいぞ、膝枕! 一晩でも二晩でも!」
座り直して膝を差し出すと、スエンは横たわり、頭を乗せてきた。恐ろしく丁寧に体重を乗せるものだから、未だ女性は壊れやすいと思っているのかもしれない。
瞑る一瞬前の目は、呆れていた気がする。
急に恥ずかしさがこみ上げたが、じっとスエンが寝付くのを待つ。
寝息どころか微動だにしないので少々心配だ。
蝋燭の火がスエンの横顔を照らしている。少し明るいかと目元を手で覆った。
驚いたのかびくりと肩が動く。半端に上がった腕が固まっていた。
リンの手だとわかると、次第に力が抜けていった。
軍属だったリンは、視界が他人に奪われる怖さを知っているのでわからなくない。
「なあ」
「うん?」
スエンはなかなか寝入ることなく、声をかけてきた。
手が不快だったのかもと、退けたが、変わらず瞑ったまま。
「話をしてくれ」
「読み聞かせを強請る子供かよ」
「うっせぇ。あー、そうだな……お前の故郷のこと、聞かせろ」
「邑のことか……」
「できれば神官以外のことで。どんな所とか、何がある、とか」
「そうだなあ……」
何もない不毛な土地に興した邑。
リンにとって、かけがえのない場所であり帰るべき故郷。
美しい景色も都で珍しい希少品も舌を唸らす食事もあるわけではない。
大切な人たちがいる。ただそれだけ。
「海があるな。ここと違って波が荒々しく、魚もあまり捕れない」
「それは残念だな」
「邑の周囲は全部森。年中魔が出るんだ」
「なんでそんな場所に住んでンだ」
「あとは……ーー」
スエンの寝息が聞こえるまで、リンの話は続いた。
娼館に世話になったのは、スエンが訪れた一日だけ。
リンの部屋に付いていた下女の評価もあり、二度と呼ばれることはなかった。
それでは目標金額に遠く及ばないため、早朝の船の荷運びを手伝った。
港の人夫は筋骨逞しい力自慢が従事する為、リンのような細腕の女が来る場所ではないと追い返されたが、樽を二つ楽々運ぶと即採用された。
酒場の常連からの紹介がなかったら話も聞いてくれなかっただろうから、常連たちには次の来店に一杯奢ろうと決めた。
リャンの怪我の回復は良好。
杖が外れるまで半月も掛からなかった。
腕、脚、腹、の順に包帯が取れ、残す所は頭のみ。
リンが外で働く分、リャンはリンの代わりに酒場を手伝った。寝床も酒場の上にある宿に移っている。荒々しい常連たちともすぐに馴染んだ。
一月後、リャンの体調は違和感がないまでに回復し、なんとか山越えができるまでの金額が集まった。
持ち物は少ない。
もともと身一つで流された。唯一持っていたのが一本の剣。
リャンに至っては武器もなく鎧もボロボロ。長剣と短剣を新調することになった。
比較的温暖な港町と山間とでは気候が違うので、旅装を揃えた。リンは念の為、男性に見えるような意匠にした。
シャオ老師から薬草を、酒場の主人から香辛料を貰い、他にも色々買い揃えた。港町の商人たちが格安で売ってくれたので、思ったより予算に余裕ができた。
一纏めにして背負っても背中半分程しかない。
足りないものは道中で調達すればいい。
あとは、邑ヘ向かって進むだけ。
待っている会いたい人たちの元へ、帰るだけだ。
夜ーー
酒場の食堂でカツンカツンと木碗がぶつかる音があちらこちらで響く。
いつもなら男たちの笑い声が湧いているが、今夜は控えめだ。中には泣いている者もいる。
彼らの中心にいるのがリンだ。
いくつも料理を運びながら卓につく度引き止められている。
「リーンーー! どぉしても帰っちまうのかぁ」
「ここだっていい町だろぉ」
「役人の兄ちゃんとだっていい仲だったじゃねーか」
べろべろに酔っぱらった男たちがリンに泣きつく。
どさくさに紛れて抱きつこうとする輩はリャンの制裁を喰らっていた。
「いい仲ってなんだよ。ただの友人だって」
この日の昼、スエンは店に来なかった。
夜番勤務が多いスエンが来店するのは専ら昼。昼食を食べた足で仕事に向かう。
来ない日もあるが、三日置かずに来ていた。
大将の料理の虜になっているスエンが、遠征があったならまだしもそんな予定は聞いていないし、すでに五日顔を見せていないのは、珍しいを通り越して心配になる。
他の美味い店に移ってしまったのではないかと疑ってしまう。
リンたちは明日の朝に発つ。
今日の昼に来なかったらもう会うことはない。店に立つのも夜が最後。
別れの挨拶をしたかったけれど、仕方がない。
「ずっと俺たちに酌してくれよ~」
「ごめんな。今まで世話になった」
男たちの涙腺が崩壊した。
夜も明けきらぬ薄暗い東の空に白い光が刺し始めていた。
冷たい空気に息が混じる。
温暖な港町でも夜から朝への変わり目はしっとりとして肌寒い。
着込んだ袍の襟をがっちり閉じて外気を遮断した。
最小限の荷物だけを担いで店の前で立ち止まる。二年と少し暮らした場所。胸がツンと痛んだ。
怒っているような大将と今にも泣きそうな女将に挨拶をした。世話になり過ぎて、離れ難かった。
「お世話になりました。ありがとう」
「いつでも帰っておいで。ここはあんたの家なんだから」
「飯もたらふく食わせてやるからよ」
「ありがとう。大将の飯、恋しくなったら来るよ」
何度も振り返って手を振る。
きっとこれが今生の別だ。彼らと、店を目に焼き付けた。
商業区の東側にある店から、東西を分ける大通りを通って南へ向かう。町の南は大海ーー港があるのだ。
運河の下流にある町へ外商に向かう商人と共に町を出る手筈になっている。
早朝であるにも関わらず商業地区は人の行き交いが盛んだ。
港に運び込まれる荷を担いだ人夫がリンの姿を見つけては声をかけてくる。しばらく一緒に仕事をした顔見知りたちだ。
これで今生の別れになると思うと寂しさが胸に宿る。
道中、リンもリャンも言葉を発しなかった。
リャンは大きく口を開けてのんびりと欠伸をしているので、特に話す気分ではないのだろう。
リンが喋らないのは、気掛かりに意識を持っていかれていたからだった。
結局、スエンに挨拶ができなかった。
夜番で役所に詰めているはずなので、今詰所に行けば会えるだろう。
役所は町で一番大きな北門のすぐ傍にある。
港とは逆方向。しかし、行こうと思えば行ける。
けれど、商人たちを待たせて出港を遅らせてしまうことになる。
スエンに会うことなく町を発つ。
それだけが、心残りになりそうだった。
「リー」
港の荷を管理する役場の前に差し掛かったところでリャンが立ち止まった。
リンの前を歩いていたので、リャンの背中しか見えない。
前にある何かを見ていたので、体をずらして視線を向けた。
すでに商人たちが集まっていた。
案内役の商人と二人の従業員は顔見知りで、他は彼が雇った護衛だろう。
「なんで……」
護衛の中に見覚えのある姿があった。
町の保安が彼の仕事だ。いても不思議ではない。
まさかと思い、彼らに近づく。
「はよ」
彼はリンたちに気づくと片手を上げて挨拶をしてきた。
旅の外套を羽織り、腰に剣を佩いでいる。間違いなく護衛の格好だ。
「おっす」
リャンは驚いた風もなく挨拶を返した。
事態についていけていないのはリンだけ。
声もでない程驚いているリンに彼はふっと笑った。
「まぬけ面」
「よっしゃ。意表つけたなぁ」
「リャン……?」
「いい旅になりそうだろ?」
得意げにするリャンの顔面に拳をめり込ませたくなった。
頭が爆発しそうな程混乱している。どうしてこうなった。
「スエンも俺らと行きたいんだってよ」
「よろしくな、リン」
朱邑魔都〜白炎の王〜 月湖畔 @MOon-LaiKsiDe
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