第83回 サヨナライツカ その3

 続きです。


 時は流れ二十五年が経過していました。豊はなんと副社長にまで出世しています。


—―「会いたかったわ」

 堪らず、豊は進み出て、沓子を抱きしめる。自分の取っている行動に驚く間もなかった。手を下ろしたまま呆然としていた沓子も、数秒遅れて豊の背中に、しかし謙虚に手を回した。涙がとめどなく流れ出る。思い出を押し殺して生きてきたせいで、感情が二十五年分の雨を黄金の寝室に降らせた。

「会いたかった」

「会いたかったわ」

 その言葉だけを二人は繰り返した。

 沓子を抱きしめながら、豊の脳裏にはこのサマーセットモームスイートでの蜜月みつげつをはじめ、二十五年前の記憶たちがまさに走馬灯のように一気に蘇った。細かった沓子の肉体はやや丸みを帯びていた。しかし太ったというのではない。時間が彼女を女としてまろやかに、違った角度で魅力的な女性に磨き上げている。二十五年を彼女らしく生きてきたことがその輪郭に如実に描かれているのだった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.197)


 豊と沓子は二十五年ぶりに再会します。お互いに会いたくてたまらない気持ちが狂おしい程現れています。


—―そんな豊の元に沓子からの一通の手紙が届いたのは、バンコクから戻って一月ほどが過ぎた頃のことである。親展と書かれた分厚い国際郵便を秘書の笠井が持ってきたが、差出人に真中沓子と書かれていることを若干不審がっている様子で、どうしましょうか、というような顔をしてみせた。豊はそれを受け取ると、ちょっと個人的に調べてもらいたいことがあったので帰る前に頼んでおいたんだよ、と話をはぐらかせた。

 一人になり、豊は封を切った。それはこの二十五年の不在について細かく綴られた手紙であった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.215、P216)


 8ページに渡る熱いラブレターです。


—―そんな豊の元に沓子から新しい手紙が届いた。秘書が差出人の名を告げた時、豊はまるでラブレターを待っていた中学生のように声を上げ、無防備に驚いてしまった。怪しまれたのではないかと、次には急に押し黙ってしまったので、逆に秘書は心配して、何か、と豊の顔色を覗き込んだ。なんでもない、とその場をごまかし、副社長室に籠ると、震える手で早速封を切った。

 封を切る瞬間、手紙の中に押し込められていた沓子の魂が溢れ出てきた気がして、思わず目を瞑り、再会した時の口づけの甘美な感触をのみ込んだ。確かに沓子の字であった。貸し金庫に預けてある手紙の文字とまったく同じ、細く優しい日本語である。

 豊はそれを読む前、一度鼻に近づけて香りを嗅いでみた。微かに南国の花の香りがした。それは沓子が便箋のどこかにわざと一滴隠した香水の匂いに違いないのに、豊には、手紙を書いている時についた彼女の柔らかい体臭のような気がしてならなかった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.233、P.234)


 雲行きが怪しくなってきました。今度の手紙は、沓子が体調不良で病院通いをしているという内容です。


—―新しい夏のはじめ、豊の元に沓子から新しい手紙が届いた。しかしその内容がより切迫していたものだったので、豊は読後しばらく動くことができなかった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.241)


 なんと沓子は癌でした。それもかなり深刻な病状です。


—―「ありがとう、来てくれて。これで私の人生に意味がついた」

「ああ。僕の人生にも意味がついたよ」

 二人は手を握り合った。それから、少しの躊躇ためらいの後、どちらからともなく顔を近づけ合って、静かに口づけをした。僅かに数秒の、節度ある接吻であったが、豊にも沓子にもとてつもなく長いキスに感じられた。まるで自分たちの肉体が若返っていくよう。永遠に不滅のものを手に入れたような至福感に浸ることができた。

 唇が離れると、まもなく沓子が瞼を閉じた。眉間に寄った皺が苦しそうに見えた。大丈夫かい、と豊が問うと、

「ちょっと疲れたわ」

 と沓子は答えた。

「折角来て貰ったけれど、今日はここまで。少し休ませてほしい」

 豊がメイドを呼ぶために立ち上がると、その背中に向って、

「愛しているわ」

 と沓子が言った。声のほうを振り返ると、沓子の瞳が静かに開くところであった。口許に笑みを拵え、もう一度、愛しているわ、と言った。

 豊は、

「愛している」

 と返事を戻した。それは過去形ではなかった。

(中略)

 豊が日本に戻って二週間後、沓子が死んだという知らせが届いた。

(中略)

 副社長室の椅子に深々と腰を沈めたまま、豊はゆっくりと思い出を反芻はんすうしてみた。

(中略)

 沓子ははっきりと告げた。

「でも未来のことなんか考えないで。私たちには今しかないんだから」

「ああ、知ってる」

「だから、抱いてよ。今ここですぐに抱きしめて。今ここですぐに一つになりたい」

 豊は、沓子を力のかぎり抱きしめた。自転車やオート三輪車トゥクトゥクやバイクが行き交う道の真ん中で激しく抱き合った。垂直に差す太陽の光を浴びながら、キスを何度も何度も交し合った。皮膚と皮膚がれ合って、魂と魂が勢いよくぶつかり合い、熱情の炎がふき上がった。それは枯れることがない油田の吹き上がる炎のようだ、と豊は感じていた。

 まだ二人には時間がある、と豊は思った。どんなに浪費しても尽きることのない豊富な時間がある、と思った。無尽蔵に広がる世界があると思った。限りない人生があると思えた。見上げるとそこには中空を焦がすあからさまな太陽が一つあった。まぶしいことが嬉しかった。眩しすぎる光に目が麻痺して何もかもが白濁するまで、二人でそれを見上げていたかった。

 いつまでも沓子が傍にいるような気がして仕方がなかった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.264、P.265)


 あのエッチな沓子がキスだけで疲れてしまうなんて、末期癌での体力の落ち方は想像を絶するものがあるのでしょう。

 

 最後の最後まで、なんて狂おしい二人でしょうか。こんな燃えるような恋をしてみたいですね。


◇◇◇◇◇◇



 読んでいただきありがとうございました。


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 次の第84回は「ミーツ・ザ・ワールド」です。お楽しみに。

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