第82回 サヨナライツカ その2

 続きです。


—―女性には二通りのタイプがある。と東垣内豊は思う。

 街角で確実に男たちを振り返らせるタイプの女とそうではないタイプ。前者が沓子なら、後者は光子である。しかし、と豊は会社のデスクで書類の整理をしながら小首をひねった。男を振り返らせる女たちは確かに何か動物的なフェロモンを発しているわけで、沓子よろしく魅力的だと言うことができるが、だからといって、そうではない女性と比べて、どちらが長い人生において最終的に意味を成すか、安易に決めつけることはできない。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.44)


 豊は沓子とのセックスに溺れますが、やはり婚約者の光子を愛しています。その深い葛藤に悩みつつも、ますます沓子にのめり込みます。


—―「へんなことを訊きますけど、真面目に答えてもらえますか?」

 今度は豊が小さく頷いた。

「豊さんは、死ぬ時に、つまり臨終の間際に、愛されたことを思い出しますか、それとも愛したことを思い出しますか?」

 豊はつまらないことを訊く子だと最初思った。そしていい加減に、さあ、どうかな、その時になってみないとなんとも言えないですね、と返事を戻したのだった。

「私は、愛したことを思い出します」—―(サヨナライツカ 文庫版 P.47、P.48)


 婚約者の光子はとても真面目な女性です。それを良く表すエピソードです。


—―それからしばらくして、豊のもとに「サヨナライツカ」という詩が送られてくる事になる。真っ白な紙に、万年筆の文字で書かれた十数行の詩であった。


サヨナライツカ


いつも人はサヨナラを用意して生きなければならない

孤独はもっとも裏切ることのない友人の一人だと思うほうがよい

愛に怯える前に、傘を買っておく必要がある

どんなに愛されても幸福を信じてはならない

どんなに愛しても決して愛しすぎてはならない

愛なんか季節のようなもの

ただ巡って人生を彩りあきさせないだけのもの

愛なんて口にした瞬間、消えてしまう氷のカケラ


サヨナライツカ


永遠の幸福なんてないように

永遠の不幸もない

いつかサヨナラがやってきて、いつかコンニチワがやってくる

人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと

愛したことを思い出すヒトとにわかれる

私はきっと愛したことを思い出す


 最後の三行に目が留まり離れなくなってしまった。「人間は死ぬとき、愛されたことを思い出すヒトと、愛したことを思い出すヒトとにわかれる。私はきっと愛したことを思い出す」。豊が結婚を決意したのはその瞬間だったのかもしれない。

 一方、沓子ほど全身で女を表現し醸しだしてくる女性もはじめてだった。出会いから二週間ほどが経っていたが、沓子は抜群のタイミングで連絡を入れてきては豊を街へと連れだした。最初の交接があった日からずっと二人は一緒だった。そういう強引さを持つ女も豊ははじめてであった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.49~P.51)


 タイトルの由来となる詩です。もともとは沓子ではなく光子が作った詩でした。でも、この言葉は沓子にとっても重要な意味を持っていました。


—―「ねえ、訊いてもいいかい。君は死ぬ時に、つまり臨終の間際にということだけれど、誰かを愛したことを思い出すかな、それとも、誰かに愛されたことを思い出す?」

(中略)

「愛されたことかしら」—―(サヨナライツカ 文庫版 P.62)


 当初、沓子は光子とは真逆でした。


—―「君の背中の黒子ほくろのことまで知っているのに、君がどんな子供だったのかは知らない。君のどこを触ると感じるかを知っているけど、君がどんな人と付き合ってきたのかを知らない。君の髪の毛の硬さを知っているけど、君の両親のことを知らない。君のいびきや歯ぎしりのことを知っているけど、君が結婚しようとしている人のことは全然知らない」—―(サヨナライツカ 文庫版 P.78)


 ここで言う「君」は、沓子から見た豊の事です。豊は沓子よりも少し年下でした。お互いの事を良く知らないまま、豊と沓子は深く愛し合います。


—―二人は抱き合った。サマーセットモームスイートでの逢瀬とは何かが違った。場所が変わったせいか、交接もいつもとは感じが違っていた。豊も沓子も二ヶ月ほど前の出会いの頃のことを思い返していた。あれからほぼ毎日二人は抱き合っている。なのに二人は、お互いの肉体に対して不感症にはならないばかりか、ますます感度を高めていた。ちょっとした環境の違いで、二人の興奮に火がついた。この点は豊の計算ミスだった。沓子は抱かれながら出会った頃のことを何度も口にした。話をはぐらかそうとするのだが、それは豊にとっても刺激的な記憶であり、自然と最初の逢瀬を思い出しては、心が熱く燃えてしまうのだった。二人が肉欲だけで繋がった関係ならば、もっと楽に別れることができただろう。しかし豊も沓子も抱き合う時はいつも本気だった。どうしてこれほどまでに本気でセックスができるのか豊にも理解はできなかった。欲望の前に愛情があった。だから行為の後に長いカタルシスの余韻があった。その余韻こそが愛なのだと、最近豊は気がつきはじめ驚いた。タイプは違うが光子に対してもカタルシスを感じた。それはいとおしいという気持ちにおいて交通する感情であった。沓子は豊にとって、とても水が合う泉だった。その逆のことが沓子にも言えた。欲望だけの関係ならば、エクスタシーの後、これほど長くカタルシスに包み込まれなかっただろう。二人はお互いの肉体の中に美しい精神の泉を見つけ出していた。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.106、P.107)


 上手いです。ここまで過激にいやらしくない文章が書けるようになりたいですね。


—―「あの男がバーにいたからよ」

「あの男?」

 意外な返事だった。

「あれは私の前の人」

「どういうこと?」

「ex-husband」

「前の夫って、君、結婚していたのかい」

「していたわ。あの人と五年も」

(中略)

「あなたを最初に見た時、閃いた。あなたはスポーツマンだし、器量もいい。何より好青年でしょ。連れ回せば、いつかは彼の目にも留まる。焼き餅をやかせたかった」

(中略)

「ちょっと待って、じゃあ君は僕に一目惚れして近づいたのではなくて、復讐に利用するために……」

「ええ、そうよ」

「そんな」

(中略)

「でも、それは私の計算違いだった」

 沓子は一度俯き、目を瞑ってしばらく迷った後、今度はキッと顔を上げて続けた。

「君にどんどん惹かれていったわ。君と抱き合ううちに、復讐なんかどうでもよくなっていった。男の人をはじめて損得でなく受け入れることができるようになった。いつも男性は私にとって利益を持ってくる配達人でしかなかったのに。君は私が養ってでも傍に置いておきたい男。君は可愛い人」

「しかし……」

「悔しいけど、これは本当のこと……」—―(サヨナライツカ 文庫版 P.135、P.136)


 ようやく沓子の素性が、ある程度明らかになってきました。


—―沓子は出発ゲートに入る前に、最後の、そして唯一のお願いをしてもいいかしら、と言った。豊は小さく頷いた。

「口づけをして」

 出国する大勢の観光客の真ん中で二人は抱き合い長いキスを交わした。豊は自分が壊れてしまうのではないかと思うほどの悲しみの中にいた。沓子がついに堪えきれず泣いているのが分かった。その美しい涙を記憶しようと豊は瞬きを堪えた。

 豊は強く抱きしめ、沓子も強く抱きしめ返した。それがどれくらいの長さの出来事だったのかは分からない。どんなにキスをしてもしたりないほどの短さに感じられた。

 沓子は豊から離れると、もう二度と後ろを振り返らず、胸を少しだけ張って、そのまま出国ゲートをくぐっていった。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.162、P.163)


 沓子と入れ替わるようにして婚約者の光子と再会します。豊は沓子への未練いっぱいですが、うまく誤魔化しました。役者ですな。


—―浴室のドアが開いた。豊は窓ガラスに映る光子を見つめた。光子は豊のほうへ向かってゆっくり忍び寄ってきていた。サヨウナラ、と豊は心の中でもう一度沓子に別れを告げた。—―(サヨナライツカ 文庫版 P.170)


 ここまでで第一部の「好青年」が終了します。この後第二部「サヨナライツカ」に入ります。


◇◇◇◇◇◇



 読んでいただきありがとうございました。



 次の第83回も引き続き「サヨナライツカ」の秘密に迫ります。お楽しみに。

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