【23】

   



 コルチェスターの町。そこは町というより、村がすこし賑やかになったようなものだった。町の外には田園風景が広がり、王都ドーンへ新鮮な野菜や果物、牛乳などを供給している。

 そんな村にある今は使われていない旧教の教会、そこに娼婦たちは逃れてきていた。この教会のかつての主は、リズの父親である神父だった。


 夜明け前に雇った幾台もの辻馬車で、屋敷にたどり着いたものの、娼婦達はみな一様に眠れなかった。ドーンに近いとはいえ、ここまではあの騒がしい街の喧騒は聞こえない。いくら眠らない街とはいえ、それでも夜明け前……あの街もひとときの眠りについているだろう。それでも、娼婦達は眠れず、そして、あまり会話を交わすこともなく、彼女らは、屋敷の窓辺に寄ってドーンのある東の空を見ていた。

 そして、屋敷に入ることなく、庭に立ったままドーンの方向を見つめている娘もいた。メアリーだ。


「風邪ひくわよ」


 そのメアリーの肩にふわりとガウンをかけたのは、リズだ。メアリーは振り返り「姐さん」とつぶやく。しかし、すぐにドーンの方向を見る。そんなメアリーの背を見つめて、リズは口を開く。


「すぐには戻って来ないわよ。ここに夜明けまでいたって仕方ないわ」

「それでも心配で」

「大丈夫、あの二人なら戻ってくるわ」


 あの二人とは、ユイアベールとヴィルカインのことだ。メアリーは振り返り。


「ずいぶんとあの人達のことを信頼しているんですね」

「あら、女が惚れた男のこと信じなくてどうするの?」

「なら、あたしは好きの気持ちが足りないのかな? こんなにも不安で……」

「遠くに行った男の心配するのも、女の仕事よ」

「信じて心配するんですか?」

「そう、信じてお祈りするのよ。あの人の無事を」


 リズはそう言って微笑む。不安げな顔ばかりだったメアリーも、かすかな笑顔を浮かべ。


「じゃあ、あたしも信じています。ユイアベールさんが無事で帰ってくるって!」


 笑顔を浮かべたメアリーに、リズは微笑む。そして、メアリーが再び見つめた空を、リズも見て、そして、声をあげる。


「あ!」

「あ!」


 二人、気づいたのは同時だ。初めは信じられないというように、暁に照らされる、その姿を見て、そして、次に笑顔となって、二人ともに手を振った。

 自分達はここだ! と言うように。

 ヴィルカインの背には大きな黒い翼。その腕に抱えられているユイアベールの背にも真っ白な翼がある。


 黒い羽と白い羽。人間の背には翼などない。明らかな異形だ。

 それでも、女達は「こっちよ!」と手を振り続けた。

 どんな姿だろうと、どんな形であろうと、想う人が帰ってくれば、それは女にとって、喜びだと言うように。


 やがて、ヴィルカインは屋敷の庭に降り立った。先に足にしがみついていたヘンリーが、庭の芝生に無様に尻をついてうめき声をあげたが、たいした高さではないから、駆け寄った女達がかまうことはない。


「怪我は!?」


 ばさりと羽を広げて降り立ったヴィルカインに、リズは尋ねる。彼は腕に抱いた天使を差し出して。


「……ユイを、兄さんを助けてくれ」


 泣きそうな声と表情でいう彼に、リズは手をさしのべる。「あなたも酷い傷じゃないの!」とその無事を確かめるように、汚れた髪と頬に触れた。


「さあ、中に、手当をしましょう」


 その腕に手を添えて、屋敷の中へと連れていく。メアリーも「ユイアベールさん! しっかり!」とヴィルカインの腕の中で意識を失ったままの青年を心配そうに見つめて、横をついて行く。


「おい、待て! 僕にも手当が必要だぞ!」


 尻を打った衝撃から立ち直ったヘンリーが叫ぶ。


「ここにいるのはヘンリー王子だ! いや、僕が王子でなくたって、大冒険の末に命からがら助かった人間に、気付けのワインの一つでもよこしてくれ!」


 監獄の中ではずっと誰かの顔色をうかがってきたのだ。あそこを抜けだして、少しぐらい大胆になってもいいじゃないか、と、ヘンリーは声をあげた。


「おやおや、王子様だなんて、ずいぶんと大きく出たわねえ」


 背後から駆けられた声にヘンリーは振り返りぎょっとした。女物の服を着てはいるが、その肩幅や腕の太さは、ヘンリー以上のどう見たって〝おかま〟が居たからだ。


「そういう、大ほらふきは、このベアトリーチェ姐さんは嫌いじゃないわ。自称、素敵な王子様を歓迎してあげようじゃないの」

「い、いや、僕は食事だけでいい!」

「だから、たくさん食べさせてあげるわよ! ワインも樽一杯ね!」


 ヘンリー王子は、ベアトリーチェに引き摺られて、無事屋敷の中に入ることが出来た。




   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇




 それから十日後。


 監獄塔の崩れたドーンの騒乱は相変わらずおさまらない。なにしろ、スコット王が煙のように消えてしまったうえに、監獄塔に閉じこめられていたヘンリー王子も行方不明なのだ。崩れた監獄塔からは一人の遺体も出てこず、死者が居なかったのは唯一の幸いと言っていいだろう。


 そのヘンリー王子だが、悪魔に意識を乗っ取られた衝撃もあって、ワインを一杯飲んだだけで、そのままパタン。一日ほど眠り続けていたが、目覚めて、現在は回復している。ドーンの騒ぎは知っているが、もう少し、この自由を楽しみたいと、このコルチェスターの教会に居候を決め込んでいた。「監獄塔の牢屋に閉じこめられるのも、王宮に閉じこめられるのも、同じ石造りという点では一緒さ」と言う。


 しかし「遊んでいる奴は許さないよ」というリズの元、娼婦たちの洗濯や食事の下働きを、嫌な顔一ついそいそとしていた。塀の外へとやっと出た今、やることなすことすべて珍しく、楽しんでいらしい。迫り来る、ベアトリーチェの猛攻から逃げ回りながら。


 そして、ユイアベールは……。

 眠り続けている。


 十日の間、寝台に横たわる兄のそばを、ヴィルカインは離れることはなかった。椅子にも座らず、部屋の片隅、壁によりかかりうずくまっていた。


「大丈夫、お兄さんは目覚めるわよ」


 そのままでは、食事もしないウィルカインに、リズが声をかける。パンと温かなスープの載った盆を傍らに置き、うつむくヴィルカインの顔をのぞきこむ。


「それより、あなたが食べなきゃ倒れるわ」

「食わなくても、平気だ」

「ダメよ」


 リズは首を振り、割ったパンをヴィルカインの口元に押し込み、スープをスプーンで運んでやる。自分からは食べないが、こうしてやれば口は動かす。随分と素直で可愛らしいこと……とリズがクスッと笑う。


「お兄さんだって食べているわ、だから生きているでしょう」


 実際、ユイアベールは目覚めないだけで、かすかに息はしているのだ。その身体は驚くほど冷たいが、これは初めからだ。

 リズの言うとおり、毎日〝食餌〟もしている。これは、ヴィルカインがここの女達に頼んだことだ。


『みんなの血を一滴ずつ与えてくれ。一滴でいい。血の量は大切じゃない。大切なのは、みんなの命を少しずつ、ユイに分け与えるということだ』


 女達はヴィルカインの願いを快く受け、毎日、一滴ずつユイアベールに血を分け与えに来る。己の指を針で刺して、その血の一滴を、命のしずくを。

 中には自分の手首をナイフで切ろうとする娘も居たが……メアリーだ。

 しかし、それはヴィルカインが止めた。


『お前が死んで、ユイが目覚めても、ユイはそれを喜ばない。ユイは悲しむだろう』


 それ以来、メアリーは毎朝一番に、ユイアベールに一滴の血を与えに来るようになった。

 そして、リズもまた針で己の指を傷つけて、ユイアベールの青ざめた口元に、一滴の血を垂らす。


「ユイアベールはもう目覚めないかもしれない」

「そんなことないわ、生きていれば、きっと目を覚ますわよ」


 リズの背中を見つめてつぶやいたヴィルカインに、彼女が歩み寄り膝をつく。


「ああ、ユイアベールが死ぬことはない。少し長く眠るだけだ。母さんみたいにな……十年、二十年……ひょっとしたら百年、千年かもしれない」


 けして、目覚めない母、マリアの姿を思い出してヴィルカインはうなだれ、つぶやく。


「このままユイアベールも目覚めないなら、母の横に寝かせてやらないと」

「あなたはどうするの?」

「待つだけだ」

「十年も、百年も、千年も?」

「そうだ」

「なら、あたしも一緒に……」

「ダメだ。人間はすぐに死ぬ」


 ヴィルカインはのろのろと顔をあげてリズを見た。首を振る。


「あたしもあなたの仲間に出来る?」

「最悪なことを言うな。俺に顔も知らないオヤジと同じことをしろっていうのか? 永遠に眠り続ける母に父がしたように」

「……ごめんなさい。酷いことを言ったわね」

「いい」


 ふらりとヴィルカインは立ち上がる。ユイアベールの横たわるベッドに近づき、その顔をのぞき込む。


「永遠に付き合うのは、俺とこの兄だけでいいんだ」

「だから、寂しいのね」

「寂しい?」

「そうでしょ。死は眠りと同じと昔の詩人が言ったわ。たしかに生きているけど、死んでいるのにも寝ているわね。その目覚めを一人待つのは孤独よ。だからあなたは、その寂しさを、そんなにも怖れている」

「ああ、そうだな。俺は寂しい。独りになるのが怖いんだ」


 手を伸ばし、ユイアベールの頬に触れる。ヴィルカインは言う。


「だから、目覚めてくれ、ユイ。俺を独りにしないでくれ」


 初めて、祈ったかもしれない。

 祈りのまねごとならば、神学校で何度もさせられた。葬式を頼まれれば、神父だ。祈りの言葉を唱えることも出来るし、死者の冥福を祈る形をとることもできる。

 それでも、居もしない存在に本当に祈ることなど出来なかったが……。


 だが、それでも奇跡が起こるというなら。

 神様……と。


「……ヴィル」


 それは花開くような目覚めだった。

 青いまぶたが震え、持ち上がるのをヴィルカインは見た。

 紫の瞳が自分を映すのを。


「なに、泣いているの?」


 ヴィルカインがユイアベールの頬に触れているのと同じように、白い手が濡れている頬に触れた。


「久々に見たなぁ……泣き虫ヴィル」

子供ガキの頃の話だろう?」

「じゃあ、僕の目の前にいるのは大きな子供だ。こんなに大泣きしてる」

「もう、目覚めないかと思った……」

「なんで? 僕が君を取り残す訳がないじゃない。母さんから『お兄ちゃんはよく弟の面倒を見るように』って言われた。言いつけを守る良い子だからな」

「なにが、面倒を見るだ。面倒ばかりかけるのはそっちだろう? 馬鹿ユイ」

「ああ、泣いて可愛かったのに、すぐ可愛げのないのに戻っちゃったよ」


 「よっ」と起き上がるユイアベールにそれでもヴィルカインは手を貸して起き上がらせて、二人、顔を見合わせ笑った。




   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇




 その数日後。兄弟達はコルチェスターの街を旅立つことにした。


「ねぇ、本当に約束してくれる?」

「なに?」


 メアリーが赤い神父服をまとった、ユイアベールに話しかける。くるりと振り返った神父の人形のように綺麗な顔を、メアリーは泣きそうな顔で見つめ。


「いつか、あなたが歳を食ってよぼよぼのおじいさんになって、神父様の役からも開放されたら、おばあちゃんになった、あたしを迎えに来てくれるって!」

「うん、約束するよ、メアリー。僕はいつか君を迎えに来る」


 それは果たせない約束と両方とも知っていて、そして、ユイアベールは微笑み、メアリーに告げる。


「だから、笑顔を見せて、僕の旅立ちを見送っておくれ」

「ええ」


 メアリーは涙を浮かべたまま、にっこりと微笑んだ。






「ここに残らない?」


 ヴィルカインの背中を見つめてリズが言った。


「あなたは働かなくても一生食わせてあげるわよ?」

「無理だな。俺達はウルカヌスに戻らなければならない。母がそこに眠っている」


 さらりとヴィルカインは言う。その言葉は冷たいようで、生真面目だ。リズはくすりと笑う。


「じゃあ、あたしがついて行くってのは?」

「普通の人間は足手まといだ」

「なら、あたしをあなたの仲間にしてくれる?」

「それもこのあいだ断ったな。俺は、父と同じ愚か者にはならない。一人の女を不幸にするような、大それたことは出来ない」

「あら、惚れた男といれば、女は幸せよ」


 リズは手を伸ばすが、ヴィルカインはその指が頬に触れる前に、すっ……と離れた。それにリズはくっ……と悔しそうに口の両端をつり上げる。


「また、逆戻りね。お兄さんが寝込んでいたときは、あんなに触れさせてくれたのに……」

「人間として生きて、死ね。それが幸せだ」

「俺よりもっといい男がいるってこと? それってね、逃げる男の最低な台詞よ」

「最低な男なら嫌いになるといい」

「それがねぇ、女っていうのは、どうしようもない男ほど好きになるのよ」

「いえているかもしれない」


 ヴィルカインはあごに手をあてて少し考え。


「母も父を最後まで愛していた。ひどい男だったのに」

「男と女の物語なんて、だいたいそんな結末よ」


 リズの言葉にヴィルカインは「そうか」と納得したようにうなずいた。






 屋敷を出て行く、二人の兄弟を女達は窓から見送った。遠ざかる長身と、長い金髪の後ろ姿をいつまでも。


「さて、あたし達もドーンに戻らないとね」


 リズは言う。ドーンの騒ぎもずいぶん収まって来ている。街から花が消えたままでは、ドーンの夜の明かりはいつまでたっても灯らないだろう。


 兄弟達の前には、ヘンリー王子がこの館を出て行った。どこで噂を聞きつけたのか。王宮からの馬車がやってきたのだ。ヘンリー王子は『王様になんかなりたくない! 』と駄々をこねたが、結局、馬車に押し込められた。


 ヘンリーは王となった。王となるものが彼以外誰も居なかったのだから、当然の結末だ。

 そして、王としては可も不可も無く、ようするに何もしなかったが故に、国の政は平穏という、人生を送った。

 彼が王のあいだ、ブリテンは平穏であり、平凡王ヘンリーの時代と後に讃えられることになる。






「メアリー、いつまでも泣いているんじゃないの」


 ユイアベールの前では無理して笑顔になったものの、二人が丘の道の向こうに消えるまで見送ったメアリーは、いつまでも泣いていた。その彼女にリズが声をかける。


「でも、もう二度と会えないと思うと……」

「馬鹿ね、また会えるわよ」


 リズは微笑む。


「旅に出た男はね、結局は女の元に戻ってくるのよ」






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