【22】

  



「それに、こちらの結界だって保つかどうか。鳩を飛ばして、ウルカヌスに救援を求めるにしても……」

「その鳩がウルカヌスに着くのは何日後だ? さらに、聖騎士達がはるばる大陸を渡って、狭い海峡を渡り、この島に到達するまえに……このドーンは廃墟になっているだろうな」


 ロンバルディアスはロマーナ、ウルカヌスと呼ばれる丘の上に法王庁はある。その法王の兵たる聖騎士団はエクソシストとして最強を誇るが、しかし、やってくるのに数日かかるのでは、今の混乱には間に合わない。


「じゃあ、僕達でなんとかするしかないね。ヴィルカイン、死をまき散らせ」

「なんだと!?」


 その言葉にヴィルカインは愕然として、ユイアベールを凝視する。


「今、言った意味を分かっているのか?」

「分かってなきゃ言わないよ.〝死をまき散らせ〟と僕は言った」

「ここで使えというのか!? こんな、こんな都市の真ん中で!」

「ここは塔の頂上だ。すぐに君が元に戻れば、影響はこの上だけですむ」

「ダメだ! みんな死ぬぞ! あの大悪魔だけじゃなく、あの王子も、街の人々も、そして、ユイ! お前も!」


 叫ぶヴィルカインに、「大丈夫」とユイアベールは言う。


「繰り返すけど、ここは塔のてっぺんで市街からは距離がある。君が最初にあの悪魔を殺すと、その意識だけをなんとか保てばいいだけだ。そしてすぐに正気に返ればいい。それで下のドーンの街には被害が及ばないよ」

「王子はどうする!?」

「僕が守るよ。この身体を盾にすれば、君の〝死〟も防ぐことが出来るだろう」

「なら、お前はどうする!? ユイアベール!」

「…………」


 ユイアベールは無言だった。それこそが、彼の返事だったのだ。ヴィルカインは『イヤだ』と言うように、首を振る。


「悪魔は倒さなきゃならない、ヴィル」

「わかってる。それでもイヤだと言ったら?」

「ダメだよ、ヴィル。お兄ちゃんの言うことはきかなきゃ。母さんから言われただろう?」

「こんなときだけ、兄貴面をするな……」


 絞り出すような声でヴィルカインはつぶやく。うなだれる弟の頭に手を伸ばし撫でながら、ユイアベールは宙に浮かぶヘンリーを見る。


「君も聞こえないだろうけど、お祈りをして、目が覚めたら、朝のお祈りをするんだよ」


 祈らなければ、生きて居られなかったと、この王子は言った。ならば、彼は必ず祈るだろう。

 神に……。

 ただ、この世界を見つめるだけで、何もしないだろう、存在に。

 それは彼が祈りを捧げたとしてもを変わらないだろう。大いなる見えない手が天から降りてきて、この薄幸の王子を救う。

 そんな奇跡など起こらない。


「でも、祈ることできっと世界は救われるよ」

 ユイアベールの背にふわりと純白の羽が出現する。広がる髪の力ではなく、その羽の発する光で、隙あらば寄ってこようとする黒い霧をはじき飛ばしていた。

「さあ、ヴィルカイン……」

「よせ、ユイアベール……」


 言葉ではあらがいながら、ヴィルカインはうなだれたまま、ユイアベールを止めることはしない。白い手は、変わらずヴィルカインの黒い髪を撫でている。子守歌のように、ユイアベールは謳う。


「汝は青ざめし馬に乗りし騎士。その名は死。供連れは黄泉……」

「…………」

「さあ、死をまき散らせ! なんびとにも、なにものにも平等な死を! 死の王よ!」


 ヴィルカインの身体が瞬間にして光に包まれる。だが、その光に輝きはあるが、白くはない。暗黒の闇だ。闇が光っていた。

 その光の色はもっとも黒に近い藍色。夜明け前のもっとも暗い時間に満ちる色だ。すべてのものが一旦死に絶え、そして次の曙光の光に蘇る。

 しかし、塔の上は今や最も暗く、暗く、死に満ちていた。死の光に。


「な、なあっ! 〝死〟だと!?」


 バフォメットは戸惑いの声をあげたが、その声も藍色の光に呑み込まれて消えた。その透ける姿も。

 そして、操る王子もまた死の光に呑み込まれるかと思われたが、その前に黒い光とは正反対の白い光が立ちはだかった。


 ユイアベールだ。彼はその背の白い翼を広げて、死の光よりヘンリーを守った。バフォメットの消滅によって、青年の両目から赤い光が失われ、がくりと再び頭が前にうなだれ、その意識を失う。それでも王子の身体が宙に浮いていたのは、ユイアベールの髪が優しく彼の身体を支えていたからだ。

 そのユイアベールの白い光も黒い光に呑み込まれようとしていた。本来、闇をはじく白い光。だが、同じ〝光〟にはあらがえないのか。藍色の光に白は染められ呑み込まれていく。その白い姿も闇へと呑み込まれて消える。


 そうなろうとした瞬間。ユイアベールは意識を失ったヘンリー王子を振り返り、その身体を抱きしめ、さらに自分の翼で包み込むようにした。




 祈って……。




 と、最後にユイアベールはつぶやく。

 世界に向けて。






 入れ替わりにヘンリーの意識はふわりと浮上する。

 暗い暗い闇の底に封じられていたのに、本当にふわりと……天使が手助けしてくれたみたいに、自分の魂が浮遊するのを感じた。


 そして、浮上するあいだ、彼は祈っていた。

 祈って……と天使の声が耳元で聞こえたからだ。


 監獄塔に閉じこめられて以来、そして石の冷たい独房に移されてからも、ヘンリーは祈り続けていた。

 朝な夕な……に祈ることしか、なにもすることがなかったこともある。

 監獄にいる幽霊は、透ける姿でこちらを見るだけで、生きてる人間に何も出来ない。


 そして、神様もたぶん〝なにもしてくれない〟。

 それでもヘンリーは祈り続けた。


 祈らなければ、希望がなければ、神様がいないだなんて思ったら、こんな世界は生きていけないではないか。

 だから、朝に、夕べの食事の前にささやかな祈りを捧げる。





 今日が良き日でありますように。

 明日は昨日より少しは良い日でありますように。

 少しは幸せであるように。

 生きていられますように……。





 監獄塔の中、死はひたひたとヘンリーに忍び寄ってくるのが分かった。それに恐怖した。


 それでも、ヘンリーは祈り続けた。

 神様。

 神様……と。


 そして、今、目覚めたヘンリーの前に、死はいた。

 自分は宙に浮いていた。崩れた塔の真上、地下牢までの穴が開いた、その真ん中に。

 どうして、自分が浮いていられるのか……見れば、天使が自分に抱きついている。そう、隣の独房にいたあの金色の天使。本当に天使だったのだと思ったのは、その背中に白い輝く翼があったからだ。


 だが、その天使は意識を失っているのか、蒼いまぶたを閉じて、ぐったりとしている。ヘンリーの首に手を回して抱きついているが、その手が離れれば、天使のほうが下の闇へと落ちそうだ。

 そう下の穴は地獄まで続くかと思われるような闇だ。そちらを見てしまってヘンリーは悲鳴をあげかけて、しかし、できなかった。


 死が目前にあったからだ。足下に広がる穴の闇よりも、さらにまがまがしく光る闇が、そこにあった。闇でありながら光。天使の白い翼さえ侵食する黒がそこにあった。


 黒い、黒い、ただ黒い、死が……。


 それがヘンリーを包み込む天使の光さえ塗りつぶして、彼に迫ろうとしていた。ひやりとした感触、これが死の手か。

 もうダメだ……と目をつぶった。すべてを諦めかけた、そのとき。



 

 祈って……。




 天使の声が脳裏によみがえる




 神様……。




 ヘンリーは最後の瞬間も祈った。

 背中のひやりとしたものがひいた。急速に死が遠ざかり消えるのをヘンリーは感じる。助かった。

 彼は目を開いた。しかし、その瞬間、自分に抱きついていた天使もろとも、その身体がすとんと落ちた。


「わあっ!」


 悲鳴をあげる。助かったのにこんなところで死ぬになんて! と、ヘンリーの頭によぎったのはこれまでの一生の光景だった。しかし、彼の頭を巡ったのは、監獄塔の特別室と独房の風景のみ。人生の大半これなのだから、仕方ないが、なんてつまらない人生だったんだ! 

 しかし、ヘンリーの身体はそのまま落ちることはなかった。気がつけば、力強い腕に抱きついていた天使ごと引き上げられていた。

 崩れた塔の壁にかろうじて残っていた床の上で、ヘンリーはぜいぜいと息をつく。


「おい」


 ヘンリーは顔をあげた。そこで初めて、自分と天使を助けた主が、美丈夫の青年であることに気付く。髪もその瞳も黒い。


「全部、終わった」


 そのヴィルカインの言葉に、ヘンリーは息をつく。すべて終わった。すべて……。


「だが、生き残った俺達は終わっちゃいない」


 しかし、次の言葉にヘンリーは息を飲む。まだ終わってないとは、次があるのか? これ以上、どんな? 

 ヴィルカインはヘンリーの手から、ユイアベールの細い身体を引き取り、横抱きにする。そして言う。


「……俺の足に掴まれ」


「なんだ?」

「掴まれ! この塔はもう崩れる!」


 ヴィルカインの言葉どおり、ヘンリーの足下の石床が崩れた。彼はとっさに目の前にあった物にしがみつく。それは人の足。ヴィルカインの足だった。

 今度こそ落ちる! とヘンリーは思ったが、だが、怖れていたような浮遊感も地面にたたきつけられる衝撃も、彼にはなかった。ぎゅっとつぶっていた目を見開き、その光景に「わあっ!」と声をあげて、思わず手を離しそうになったが。

 ずるりと滑り落ちそうになり、ヘンリーは慌ててヴィルカインの足に再びしがみついた。


「手を離すな!」

「わ、わかっている!」


 ヘンリーの足下にはドーンの街が広がっていた。崩れた監獄塔はすでに遠く、目の前にあるのは運河にかかる大きな橋だ。その向こうにブリテンの田園の風景である緩やかな緑の丘が広がる光景が続く。


 空を飛んでいる、どうしてか分からないか、自分達は空を飛んでいる!? 

 そして、地平線の向こうに太陽が昇る、一筋の光に照らされてヘンリーは、その光景に答えを見た。


 ヴィルカインの背には大きな翼が、漆黒の翼があったのだ。





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