【21】
「な、なに!?」
ぐらりと揺れた塔にヘンリーは声をあげた。
地下の独房を脱出した彼は、誰とも出会わなかった。まるでこの監獄には、彼以外の人間が居ないのを証明するかのように、すべての牢屋は空っぽで、通り過ぎた看守詰め所でさえ、ここ数ヶ月、人の暮らした形跡がなかった。
まるで、廃墟のような牢獄。
出口もわからず王子はただ、上を、上を目指した。地下牢の平階段を登り、塔のらせん階段を登り、たどり着いた先は……。
「ここは……」
塔の上の部屋はもう使う者もいないのか、鍵さえ掛かっておらず、階段をのぼりつめた先の部屋の扉をヘンリー王子は開けて、絶句する。
そこは自分が長年閉じこめられていた〝特別室〟だったのだ。見覚えある天蓋付きのベッドも机も、タンスも、暖炉もそのままに。ただ、その家具達には埃が降りつもり、主人が不在だった年月を語る。
「ははは……僕は抜け出したつもりだったのに、戻ってきてしまったのか?」
地下牢を抜け出すには確かに、上を目指すべきだったかもしれない。だが、塔を抜け出すには、下に降りなければならなかったのだ。そんなことさえ、長年、牢獄に閉じこめられていた王子にはわからなくなっていた。彼が知る世界は、この特別室と、あの地下の独房だけ。あとは、ほんの少し歩いた、この監獄塔の世界だけだ。
「結局、僕は、ここから出られないのか? 一生、このままなのか?」
特別室の埃のつもった床に座り込んで、ヘンリーはつぶやく。しかし、もう少しうなだれていたなら、この追い詰められ心境も和らいだことだろう。やがて、のろのろと起き上がり、また、この脱出する道を探すために歩き始めただろう。
しかし、今は時間がなかった。
時は夜明け前、最も世界が闇に包まれる時刻だ。
それをヘンリーは泣き濡れた顔をあげて見た先。この特別室に居た頃は、いつも見つめていた窓から見た。
いつも畏れていた、大嫌いな夜明け前の真っ暗の空を。
「!」
その瞬間、塔が大きく揺れた。ヘンリーの足下の石の床もぽっかりと崩れ、そして彼の身体は落ちる。
叫び声も上げられない急速な加速、瞬きよりも短い時間だっただろう。なのに永遠に落ちていくようなそんな感覚をヘンリーは味わっていた。
そして、彼は地の底で、その悪魔の姿を見る。
だが、それはヘンリーの意識で起こったことだった。
実際に彼の身体は落ちることなく、塔の中央にぽっかり開いた穴に浮かんでいた。その身体は神の子が磔にされたがごとく、両手を大きく広げて、そして、足はそろえて。
その両手首と足首には、黒い楔が打ち込まれる。だが、そこから血が噴き出すことはなく、逆にその手足には、黒いもやのようなものが絡みついている。
その、もやにつながり、磔にされるヘンリーの背後に浮かび上がったのは、ねじれた山羊の角、雄山羊の頭でありなから、乳房がある身体を持つ異形の存在。瞳孔のない、真っ赤に光る目。
そして、がっくりと頭を垂れていたヘンリ王子が、その頭を上げた。かくん! とどこか人間ではない、人形のような動きだ。そして、閉じていた目を開く。
それは悪魔と同じ真っ赤な瞳をしていた。
「さっさと逃げろって言ったじゃない!」
男ではあるが、甲高い叫び声が響く。それは、宙に浮かぶヘンリの前に降り立った。正確には崩れかけた塔の壁の端に、かろうじて残る床に降り立ったのだ。
「だから、こんな悪魔に取り憑かれちゃうんだよ」
ニッと笑ったのはユイアベール。薔薇色のドレスは無残に引き裂かれて、上半身はコルセットで肩はむき出し、薄物が胸を覆うのみだ。そのうえ、胸の中央には大量の出血のあとがパニエで膨らんだスカートまでしたたり落ちている。
そんな姿でも、彼は壮絶に美しい、いや、そんな姿だから、美しいと稀代の芸術家なら言っただろうか。
「いい子だから、そんな悪魔に誘惑されてないで、目を覚ましなさい」
ユイアベールの長い金の髪が、こちらに伸びようとする黒いもやの触手。それの一つ一つにからみついて止めていた。
それを見て、ヘンリー王子の後ろで揺らぐ、山羊の目が光る。同時に王子の目も光った。それに命令されたかのように、黒いもやの一部が集まり大きくうねる。それは巨大な腕の形となって、小岩ほどもある拳が、ユイアベールとその後ろにいるスコットに襲い掛かろうとした。
だが、拳はユイアベールの額に触れる寸前で、停まった。穴から飛び出してきたヴィルカイン。それが鎌を振りおろし、鎌で断ち切ったのだ。
黒いもやで出来た拳はたちまち霧散して消える。ヴィルカインは、ユイアベールとスコットがいる床に降り立った。
「こいつは?」
ヴィルカインは宙に浮かぶヘンリーを、怪訝に見る。なんで、人間がこんなところにいる? という、顔だ。
「ヘンリー王子。先王の息子」
「彼が?」
言われてまじまじとユイアベールが空中に浮かぶ青年を見る。その瞳が紅く輝き、意識は完全に後ろにいるバフォメットに支配されていると分かる。
「ということは、あの永遠なるスコット王がお亡くなりになった今、彼がこのブリテンの王って訳だね」
「次の王まで悪魔憑きとは、洒落にならないがな」
「自分より大物の悪魔が憑いたって、あの永遠のスコット王なら、悔しがるんじゃない?」
ユイアベールのふざけた物言いに、ヘンリー王子の笑い声が重なる。青年の頼りない外見からは想像もつかないような、老練な男の笑い声だ。それで、これがバフォメットが王子の口を借りていると、わかる。
「余が再び地上に出ためでたき日。祝いに来たのが、化け物のなりそこないの子供が二匹とな、ご苦労である」
「別にアンタの復活なんて、これっぽっちも祝っていないし、すぐに魔界に戻って欲しいんだけど」
ユイアベールが答えれば「それは出来ないな」とバフォメットは答える。
「余はこれから地上を蹂躙し、受肉に必要なだけの血と魂を集めねばならん。
本来ならば、お前達など真っ先に、余の欠片の一部としてやる名誉を与えてやるところだが……しかし、命汚い者達よ、ちりはちりとして生きたいならば、ここから逃げるが良い。余は追いかけたりせぬ」
「勝手なこと言ってくれるよ、まったく」
「甘い言葉で誘惑するのは、悪魔の手段だ」
肩をすくめるユイアベールにヴィルカインが続けて言う。
「そういうこと、こいつの復活を許して、生き延びたところで、どうせ、この世はそのまま地獄だ」
「今とどう違う?」
「ヴィルにしては言うじゃない。悩ましいところだけどねぇ」
と悪魔の復活を前にしての、緊迫感など巨大には微塵もない。
「しっかし、えっちらおっちら、この穴をよじ登ってきた〝お駄賃〟は欲しいじゃない」
階段が崩れて中央に大穴があいたこの監獄塔に兄弟達が上がってきたのは、バフォメットが言った、化け物のなりそこないの脚力ゆえ。上へ上へと駆け上ったバフォメットの幻影を追いかけて来たのだ。
「もちろんここから飛び降りて、逃げることは出来るけどね。こんな人間の街のことなんか、知るもんかと逃げ出したっていいけど……」
ユイアベールはとんでもないことを言い出す。さらに「悪魔一匹復活したところで、このブリテンが魔界に沈むだけだもんね。世界のおおかたは残る」と言い出す始末だ。
それにバフォメットは愉快そうに笑う。「我が身が可愛いか? それは美徳よ。逃げるがよい」と続ける。
「我は本当に追いかけはせぬ。貴様等は見逃してやろう」
「本当に、本当?」と寛大なる悪魔の君主の言葉にユイアベールは身を乗り出すが。
「俺達は逃げることは出来ない。この悪魔を倒さなければ、この都市は滅ぶだろう」
そのヴィルカインの言葉にパチパチとユイアベールは拍手をする。
「かっこいい! 正義の味方らしい台詞だね!」
「ふざけている場合か。真面目にあの悪魔を倒せ!」
ヴィルカインは不機嫌にユイアベールをにらみつける。
「そうは言うけどね、今の僕らの状態じゃ、自分達は守れても、あいつは倒すのは難しいよ。血を流しすぎた」
「…………」
ユイアベールもヴィルカインも正確なところ、こうして立って話しているのが不思議なくらいだろう。ほぼ、気力で保っていると言っていい。
「だから、地下で残骸でも悪魔どものオドをすすっておけといったのだ」
ヴィルカインが言う。それは地下室に散らばった、悪魔とスコット王の残滓であったが。
「イヤだよ! あんな床に散らばった泥水のような奴!」
ユイアベールが両手で肩を抱いて、ぶるぶると震える仕草でぶんぶんと首を振る。
「緊急事態だ。わがまま言うな!」
「イヤだって言ってるの! あんな、自分の民を食い物にした王とその悪魔どものオドなんて! かわいそうな囚人や娼婦達を僕に口にしろと言っているようなものだよ!」
「……なら、俺の血を吸うか?」
「ここで、それ言うの?」
とんとユイアベールがヴィルカインの肩を押せば、彼がぐらりとよろめいた。「ほら」とユイアベールは笑う。
「ホント、ふらふら、情けないったら」
「まったくだ。だが、奴は倒す」
疲れて青ざめているのに、ヴィルカインは目の前のバフォメットをにらみつける。バフォメットが再び笑いながら言った。
「逃げぬのか? 我は見逃すと言っているのに」
「悪魔の言葉なんが信じるもんじゃないよ。背を向けたとたん、ぱくりと食われかねない」
ユイアベールが答える。
それと同時に、また黒い霧で出来た拳がこちらを襲って来たが、それもまたヴィルカインの鎌の一振りによって、切り裂かれた。
同時に、あたり一面に満ちている黒い霧、それが三人を囲む輪を縮めようとするが、それはユイアベールの広がった髪。その金色の輝きが許すことはなく、結界を保つ。
「しかし、ホント守っているばかりじゃ、らちがあかないね」
「ああ、こうしている間にも、悪魔とあの男の同化が進む」
まだ背後にバフォメットの姿が揺らいでいる内はいい。意識が乗っ取られただけのことだ。だが、一日どころか半日でヘンリーの心と魂は食い尽くされ、悪魔そのものとなるだろう。
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