【17】
監獄塔。
このドーンに一番最初に建てられた城がどうして、監獄になったのか、諸説あるが、なにぶん昔のことなので、由来がはっきりしない。
一番有力なのは、双子の兄がいると噂された初代ブリテン王より数えて三代目のジョン王。その王の兄を生涯幽閉しておくために、この城が選ばれたという説だ。その幽閉された兄王子は、ジョン王が死んで、さらにそのひ孫の代まで生き続けたという。
あくまでこれは噂、伝説の範疇を出ない話であるが、このあと数々の歴史の実話が、この塔を暗く彩ることになる。
狂ってもいないのに王弟と貴族院の陰謀により、遺棄ながら幽閉。さらには毒殺された王。
この監獄塔の始まりの呪いか、行方知れずとなった双子の王子達。
不義の疑いを掛けられて、処刑された王妃。
王の寵愛を失い失脚した廷臣の悲劇の末路。
そして、無実の罪で閉じこめられ亡くなった、名も無き民。
そのような様々な怨嗟が、その塔には満ちている。
「あ、すすり泣きの声、聞こえない?」
ユイアベールの言葉に、隣の独房にいた青年はぴくりと肩を震わせた。
地下の牢獄。青年がこの監獄塔の最上階の〝特別室〟から、この最下層の独房に移動させられたのは、一年ほど前のことだ。
ちょうど、バラバラスコットが活躍し始めた頃の話だが、そんな外の話など、生まれてからの大半をこの監獄塔で過ごしてきたヘンリーは知らない。
彼の名はヘンリー王子。このブリテンの先王の息子だ。スコット王に表向き男子がいない今、王位継承第一位でありながら、この塔に閉じこめられている。
すべての歯車が狂いだしたのは、スコット王の息子が亡くなってからだ。亡くなった王子とヘンリー王子とは、従兄弟同士ということもあった仲は良かった。スコット王も良き叔父であったと思う。
だが、我が子を失って、あの王は変わった。自分より年上で、もう息子が望めないということから、王は王妃を無理矢理離婚して、新しく王妃を迎える。その頃には夜な夜な王が、神の教えに背く怪しい儀式をしているという、噂になっていた。新しい王妃は、その〝黒ミサ〟に参加していた魔女の一人だとも。
だが、その新しい王妃は、子供を身ごもったが、臨月になって死んだ。遺体は葬儀であっても誰も見ることは許されず、棺にはすでに釘が打ち付けてあった。そして、火葬にされたのだ。魔女や悪魔つきの死体でもない限り、そのようなことはなされない、異例のことだった。
このことから、王妃は生まれた子供もろとも、王に殺されたのだ……という噂がまことしやかに流れた。生まれた子が姫だったので、王が激怒したのだとも……。
ほどなくして、ヘンリー王子は、この監獄塔に連れて来られ、閉じこめられた。理由は聞かされていない。
それから、ずっと、死の恐怖に怯え続けてきた……と言っていいだろう。ここに閉じこめられるということは、いきなり朝、首切り役人がやってきて、中庭に引き出され、首を切り落とされてもおかしくはない……ということだ。
それが現実味帯びたのは、一年前のこと。そう、この独房に移されてからだ。それまでの〝特別室〟はそれでも暮らすには快適な部屋であったのだ。天蓋付きの寝台に、机に、暖炉、タンスなどの家具があった。
しかし、ここには何もない。あるのは、寝台代わりの藁の詰められた袋だけだ。四方は狭い石の壁に囲まれて、特別室の小さな窓から見えたドーンの風景など、望むべくもない。それだけが、ヘンリーの無聊を慰める唯一の楽しみだったのに。聞こえてくるのは、同じ独房に閉じ込められた囚人たちのうめき声や。夜はいびき……それのみ。
それも聞こえているうちは良かったのだ。徐々に、そう少しづつ、ヘンリーの周りは静かになっていった。朝と夕に出される食事の前に催促する男の声。まず、彼が消えた。それに、三つ隣の夜となれば雷のようにやかましかったいびきが消え、隣の独房の半ば惚けていたのか、ヘンリーのことを息子と思い込んで呼びかけてきた老人、彼も消えた。
そして、独房は静かになりヘンリーだけが残り……。
その日からヘンリーは、次は自分の番だと、やってくる朝におびえるようになった。出される食事におびえ、しかし、飢えに耐えきれずに食べ、それを食べては死んでしまうのではないか? とおびえた。
それでも彼は生きていた。生きているより、死んだほうがマシではないか! と思うこともあったが、それでも生きる。呼吸をしている限り、自分はまだここにいるのだと思う。
その静かで恐ろしい生活に変化が訪れたのは、つい先ほどのこと。新しい囚人がやってきたのだ。
しかし、この囚人、今までで一番ではないか? という騒がしさだった。隣にヘンリーが居ると知ると「ねぇねぇ」と話しかけてきた。
そして、自分はウルカヌスの神父だと名乗り、ユイアベールとその名を告げた。さらにヘンリーの素性も根掘り葉掘り聞いてくる。ヘンリーは正直に自分は王子なのだと名乗った。信じるも信じないも相手の勝手だ。それに、ここは監獄、閉じ込められてしまえば、身分など関係ない同じ〝囚人〟だ。
「ふぅん……」と受け流した相手に、どうせ信じていないな……とヘンリーは思った。もっとも、この〝神父〟と名乗る相手のことだって、本当にそうだとはヘンリーは思っていなかった。
ウルカヌスの神父は、スコット王がすったんもんだの離婚劇の果てに、この国独自の国教会を起こした、そのときに全員追放されているはずだ。だから、この国にはウルカヌスの神父は一人もいないはず。そもそも、旧教とこの国で呼ぶウルカヌスの教えを信じることも、投獄の対象となるのだ。まして、その神父など……。
しかし、その神父、ユイアベールがいきなり『声がする』と言い出したのだ。この監獄にはヘンリーとユイアベールしかいないはずだ。声など聞こえる訳もない。
現実には……。
「ほら、また。今度は女の人のすすり泣き……」
「よくあることだ。いちいち騒ぐな」
「よくあるの?」
「あるさ。ここは監獄塔だ。殺された囚人など、ごまんといる。無念を残して死んだ者など、大勢な」
塔のてっぺんの特別室に閉じ込められていた頃から、ヘンリーもその気配は感じていた。白いドレスの女性を目にしたこともある。すぐに消えてしまったが。
「……だが、それがどうしたっていうんだ! 聞こえない声が聞こえたり、見えないものが見えたりするだけのことだろう!」
最初、ヘンリーもこの怪異におびえ、やがては慣れた。慣れてわかったことがある。
「幽霊はなにもしない。僕を傷つけることはない。僕を殺すのは人だ。あの恐ろしい首切り役人だ」
「確かにねぇ、幽霊は君の首を切れないね」
「ああ、だからすすり泣きが聞こえようと、首のない姿で監獄中歩き回ろうが、怖くもなんともない。勝手にすればいいんだ」
すべては幻だ。思いを残して死のうとも、化けて出ようとも、その恨みを晴らすことなど亡霊には出来はしない。実際、あの恐ろしい王、ヘンリーの叔父は生きている。明日にも、彼の首を刎ねよ……と、処刑を許可する羊皮紙に署名するかもしれない。
処刑は早朝というより、夜明け前。明けの烏が鳴く前に行われる。このしきたりがいつ始まったのか、誰もしないが、どの王宮においてもこの習わしは変わらない。
一説では、ウルカヌスの聖堂のドーム。そのてっぺんの青銅の烏が鳴くとき、死神が蘇り死者をさらう。だから、その前に人の手により死刑囚には死を与えなければならない……という話がある。
罪人は神ではなく、人の手で裁かれなくてはならないと。
「そう、幽霊は人を傷つけないね。でも、悪魔は人を殺すよ」
「っ!」
ユイアベールの言葉にヘンリーは息を呑む。
悪魔とは誰のことだ?
叔父のことか?
「そうだ! 私は悪魔に殺される! いつか、あの悪魔に!」
ヘンリーは叫ぶ。〝悪魔〟とののしりながら、叔父とも、スコットとも、その名を口に出来ない、自分の臆病さに哀しみと笑いさえこみあげてくる。彼は笑いながら泣いた。目からは涙が出るのに、口からは押し殺したような笑い声がこぼれる。
「君は悪魔に殺されたいの? いつかは、遠い先かもしれないけれど、明日、いや、今日、いや、夜明け前かもしれないよ」
「っ!」
〝夜明け前〟。それはヘンリーにとって恐怖の時間だ。
夜明け前に死刑囚は牢から出される。
夜明け前、日の昇る直前、烏の鳴く前に、首切り役人の斧は振り下ろされる。
「冗談じゃない! 誰が死にたいものか! 僕は生きたい! 生きたいから、こんな地獄で狂わずに生きているんだ。死んだほうがマシだと思いながら、生きたいんだ! なににしがみついたって生きたいんだ!」
三方は石の壁に囲まれた狭い独房。前は鉄格子の、その格子にしがみつき、最後に膝からずるずると崩れ落ちてなお、ヘンリーは叫んだ。己の生への執着を。
「生きたいのなら、それでよろしい」
壁に隔てられた隣の独房の、自称神父の男の姿は見えない。だが、その涼やかな声にヘンリーは初めて、彼が神父なのだと思えることが出来た。
「生きたいと祈りなさい。祈れば、神様はきっと君の祈りを聞き届けてくれるよ」
「祈っている! 旧教のウルカヌスの神だろうと、国教会の神だろうと、神というものならば、散々、祈りを捧げたさ。ここでは、それしかないのだから」
牢獄に閉じこめられた囚人がなにを出来るというのだ? することと言えば、それこそ祈ることだ。今をつつがなく過ごすことを、明日をつつがなく過ごすことを。
日々生きていくことを。
「ならば、それでいい。それこそが君が今日まで生きてきた理由だ。己が生きるために祈りを捧げる。君は、どんな修行僧よりも、修行僧らしい。
だが、君は今夜、祈るだけでなく、もう一つしなければならないことがある」
「な、なんだ?」
ヘンリーは鉄格子を握りしめたまま、顔をあげた。そこには黒い鉄格子、その向こうに石壁の廊下があるだけだ。
だが、その黒い鉄格子に金色のなにかが巻き付いているのが見えた。それはちょうど鉄格子の錠前あたり。
光の糸?
そうヘンリーは思った。ヘンリーは手を伸ばしてそれを捕まえようとしたが、しかし、その光はするりとほどけて消えてしまった。代わりに、勢いよく錠前に手をかけた、それは。
カシャン……。
意外なほど軽い音を立てて、鉄格子は開いた。それにヘンリーは驚く。
「今夜、君はここから逃げることでないと、恐ろしいことが起こるよ」
「お、お前は一体誰だ!?」
少し開いた鉄格子前に、ヘンリーは立ち尽くした。ここから逃げ出したとして、監獄塔の外になにがあるのか……など、ヘンリーは知らない。
「出て行かなければ死ぬよ」
「…………」
それは隣の独房からの最後の通告だった。ヘンリーは格子に手を掛けて、意を決して開けようとしたが。
そのとき、通路の向こうから声が聞こえ、ヘンリーは慌てて少し開いていた格子を絞めた。その前を黒いマント、フードを目深に被った不気味な看守が通り過ぎていく。看守は前、兵隊達とは違い、粗末な私服だった。粗末なシャツにすり切れたズボンの。
だが、いつのまにかこんな不気味な者達が看守を務めるようになっていたのだ。彼らに連れられて出て行った囚人は二度と戻ってくることはなく……。
そして、隣の独房の扉が開かれる音。囚人が引き出され、そこでヘンリーは初めて、隣の自称神父の姿を見た。
奇妙なことに、彼は婦人の白いドレスに身を包んでいた。長い間、汚れた道を歩かされたのか、ドレスの裾は黒く汚れ、その長い髪は乱れていたけれど、それでも彼は美しかった。
そう、単純に美しい。女性のような妖艶さや、男性のようなたくましい造形ではもなく、ただ、彼は清らかで純粋だった。
連れられていくとき、格子越し彼を見て、微笑んだ、その微笑みは……まるで。
「天使だ」
そう、つぶやきヘンリーは我に返った。もう、不気味な看守も、あの美しい天使も居なかった。
「…………」
握りしめた格子に力を込めれば、簡単に扉は開いた。今なら逃げることが出来る。
ヘンリーは決意をして、独房の外に一歩踏み出した。
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