【16】
いささか時間は前後する。
「大丈夫かしら」
「心配することはない。ああ見えて、あの馬鹿は頑丈だ」
警察官達にユイアベールが連れて行かれた、そのあとの娼館。それでも心配のため息をつくリズに、ヴィルカインが言う。彼は続けて。
「だが、この娼館には当分戻らないほうがいい。みんな、どこか別の場所のあてはないか?」
「それならドーンから少し離れたコルチェスターの町に今は使われていない教会があるわ。元は父が神父していたのよ」
「なら、そこにみんな移れ」
「みんな、ガサ入れのための
「お前も行け」
一人残ったリズにヴィルカインは告げる。
「あなたはどうするの?」
「ここに残る。それが役目だ」
「元気でね」
リズが微笑み、ヴィルカインの頬に背伸びをして口づける。彼が止める暇もない、早業だった。
「怪我するような無茶はしないでよ!」
艶然と微笑み、彼女は館を出て行った。「まったく……」と頬についた口紅のあとをぬぐいもせず、ヴィルカインはつぶやく。
だが、それも振り切るように、彼は動き出した。屋敷の地下に向かう。半地下の台所に続く倉庫は、ワインや食料を置いておく場所だ。樽や麻袋が積まれた、その最奥の場所に獣はつながれている。
ヴィルカインの姿を見たとたんに、獣はぐるる! と威嚇するように牙を剥いたが、しかし、彼のひとにらみで、すぐに怯えたように後ずさり尻尾を丸めた。
小さな子犬の姿をしたこれは、ユイアベールが捕まえた黒犬だ。捕らえたこれを今までこの地下室につないでいたのだが……。
「今すぐお前を解き放ってやる」
縛っている縄の首の部分をつかんで、ヴィルカインが告げる。言葉がわかっているのかどうか、犬は大人しい。
「これからこの屋敷にやってくる奴らを追い払え。ただし殺すな。一人でも傷つけたり殺したりしたら、お前を俺が殺す」
静かな口調であったが、眼光するどい瞳に見据えられて、黒犬はぶるぶると震えた。その黒い瞳はかすかに金色の光を帯びているように見えたが……。
「さあ、行け!」
犬をつなぐ縄を引きちぎり、放り出すと子犬だった姿は、たちまち元の大きな犬の姿に戻る。犬はヴィルカインから少しでも速く逃れようとするように、くるったように駆け出して行った。
「やれやれ、結局、娼婦達を捕まえるのか? スコットはもう捕まっただろう?」
監獄塔から往復、娼館へと向かいながら警官の一人がぼやく。それに、横を歩く警官が「しかたないだろう」と答えた。
「まだスコットの片割れが見つかっていない。あの女達が匿っていると、上は思っているらしいぞ」
「匿っていたって、今頃そいつは逃げているだろうが」
「それでも娼婦達を捕まえろという〝お達し〟だ。スコットの片割れ、もろとも、女達も同罪だとな」
「スコットが居なくたって『捕まえろ』だろう? ああ、もったいない、もったいない」
もったいない……というのは、あの街の女達には、警官だってお世話になっているのだ。制服を脱げばただの男とばかり、身元を隠して常連だった者も少なくはない。つぶやくこの男だって、その一人だ。
「ま、女どもも、とんだ情け心を起こしたもんだ。こともあろうに、あの〝スコット〟を匿うなんてさ」
「まったくだ!」
ため息をつきながら、それでも警官達は娼館へと飛びこんだ。中はがらんどうで、あきらかにみんな逃げ出したあとだ。
「誰もいないのか!」
「くそっ! 女どももばっくれやがった!」
それでもどこかほっとした様子で、警官達はずんずんと屋敷の中を進んで行ったが……。
そこに地下に続く扉を頭から破って飛びこんできたのは、赤いギラギラとした瞳の大きな黒犬。
「化け物だ!」
「こんなもの飼ってやがったのか!」
明らかに普通の犬と違う雰囲気に、警官達は逃げ惑う。犬を取り押さえようするものなど一人もおらず、我先にと娼館を逃げ出した。
「犬が追ってくるぞ! あ……れ?」
しかし、娼館を飛び出して振り返った警察官達は、一様に首をかしげることになった。
自分達を追ってきた恐ろしい犬の姿は忽然と消え去り……。
そして、娼館前の石畳の道。そこには一つのマンホールがあるだけだった。
「……ご苦労様」
警官を追い、マンホールに飛びこんできた黒犬の姿を、ヴィルカインは下水道の壁の影に隠れるようにして見ていた。彼は一足先に、地下室から続く下水道へのはしごを下りて、この場所で待機していたのだ。
犬は開放されたのと、ヴィルカインの言いつけを守り警官達を追い払った……そのことに浮かれて、ヴィルカインが後から追いかけてきていることなど、まったく気づいていないようだった。ただ、帰巣本能のままに、主人がいるのだろう場所へと向かう。
迷路のような下水道であるが、案内がいれば迷うことはない。ヴィルカインは黒犬を追って、暗闇の地下を駆けた。
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