【12】




「おい、このタラシ」

「いきなり、なに?」


 部屋にはいるとベッドには乱れたあとはなく、ユイアベールの着衣もはだけてないところを見ると、本当になにもなかったのか……と、ヴィルカインは内心で胸をなで下ろしたが。


「守れもしない約束はするな」

「ああ……メアリーのこと」


 ユイアベールは「よっ!」と寝転んでいたベッドから起き上がり。


「彼女だって嘘だってわかっているんだから、いいじゃない」

「屁理屈だな」

「野暮言わないの。男と女の間には優しい嘘は必要だよ」

「……童貞のクセに」


 ぼそりとヴィルカインが言えば。


「ん? そんな小さな声じゃ聞こえないな! もっとはっきりと!」

「わっ!」


 伸びた手にぐい! とひっぱられて、ヴィルカインは兄のいるベッドに飛びこむことになる。すぐに起き上がろうとするが、伸びた手……どころか、足までからんでヴィルカインを離さない。


「離せ! この童貞が!」

「自分だって童貞だろうが!」

「この馬鹿力!」

「君に言われたくないぞ!」


 体格差のある二人であるが、ダンピールであるユイアベールは、吸血鬼の力と同じように万力のようだ。それこそ、死神だって押さえ込めるほど。


「さあさあ、大人しく眠りなさい」

「うるせぇ、俺は添い寝が必要なガキじゃねぇぞ」

「まだまだ僕から見れば子供だけどねぇ。昔はこうしていつも一緒に寝ていたじゃない」

「……風の強い晩だけのことだ」


 ヒューヒューと大気が鳴る夜、暗闇からなにかが襲って来そうで、母、マリアのベッドによく潜り込んだ。マリアが居なくなったあとは、昼間はケンカばかりの兄の元へと。


「ホント、あの頃は可愛かったのにねえ……」

「今も可愛くてたまるか……」

「たしかに、こんなむさい弟に可愛く甘えられたら、気持ち悪いねぇ」

「ベッドから蹴り出してやろうか……」


 なんだかんだいいながら、久々の柔らかな寝台だ。二人は早々に眠った。




   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇




 翌日。

 娼館の朝は当然のごとく遅い……はずだった。


「さあ、起きて! 寝ぼすけ、神父共!」


 ガンガンと鳴る音に、兄弟達は薄目を開けた。見えたのは鍋。これをお玉で鳴らしていたのか。

 その鍋を持っているのはリズだ。いきなりこんな起こし方をしたわけではないと、彼女はあとで言っていた。


『いくら呼んでも起きないから、鍋とお玉、持って来てもらったのよ』


 「もう少し、寝かして……」と情けない声をあげたのはユイアベール。


「寝かせろ。百年でも千年でも……」


 そう低い美声で答えたのはヴィルカイン。実際、兄弟達は棺桶の中で百年の眠りについていたのだ。千年だって、本当に眠れるが……。


「ダーメ! 朝は起きる時間よ!」


 きっぱりと慈悲もなくそう言ったリズは、ガンガンガン! と鍋を鳴らした。この地獄の釜が沸き立つごとき轟きに、兄弟達はのろのろとその目を開く。そして、ヴィルカインがうなるように言った。


「なんで、俺の腕を枕にしてる」

「うわっ!」


 腕枕していたユイアベールの頭の下から、己の腕を抜き取る。ころんと転がるハメになったユイアベールは「なにをするんだ!」と文句を言うが。


「はいはい、あなたたち兄弟の仲が良いのはわかったから、ベッドから降りてちょうだい」


 そう言ったのはリズ。それにむくりと同時に上半身を起こした兄弟は、くるりと首を曲げ、彼女を見て。


「「仲良くなんかない!」」


 そう同時に言った。それにリズが思わず吹き出す。


「はいはい、仲が良くないのもわかったから、私たちには今、神父様が必要なのよ」

「なに? 結婚式?」


 そう言ったのはユイアベールで。


「俺は葬式なら得意だ」


 と言ったのはヴィルカイン。「どちらもハズレ」とリズは答える。


「朝のお祈りよ。神父様は必要でしょ?」


 そう彼女は微笑んだ。




   ◇◆◇ ◆◇◆ ◇◆◇




 光あふれる聖堂ではなく、そこはただの食堂だ。


 しかし、そこに集う人々の祈りは変わるものではない。いや、ベールを被り祈る女達の姿は、ことさら真摯でさえあるように見える。娼婦と呼ばれるような身だからこそ、ことさら神の許しを請う。こうして朝に、懺悔し、その身を清めるように。

 祭壇もない。普段はリズが神の書を読む。その場所には赤い神父服を着たユイアベールが立つ。明朗な声で謳うように、祈りの言葉を告げる。


 罪深き者、汝は女……と。


 そう、ウルカヌスの教えにおいて、女は罪深い者とされている。唯一絶対の神に、最初に作られたのは男。女は男の寂寥を埋めるために、男の肋骨から作られた付属物に過ぎないと。

 それなのに、女は男を誘惑して堕落させた。いや、人間の男だけでなく、人間を監視するために遣わされた天使まで誘惑したというのだから、女というのは、まことに罪深い。


「……というのは建前」


 と説教壇代わりの、木箱の上でパタンと聖なる書を閉じて、ユイアベールは言う。


「神様は女は罪深いなんて、一言も言ってないよ。そもそも、女の人がいなければ男の人だって生まれない訳だからね。魔女は木の股から生まれるけど」


 そのユイアベールの冗談に、女達はどっと笑う。「じゃあ、あたしたちのお母さんは、みんな木の股ってことになるね」とふざけて女の一人が言った。百年ほど前、魔女裁判の狂乱の嵐がこの世界を襲ったとき、一番先にその生け贄に捧げられたのは、貧しく身分の低い〝女〟達だった。一人暮らしの老婆に、ロアジプシーの占い師、そして娼婦達。


 実際、今でも〝穢れた〟彼女達を教会に入れようとしない司祭達は多い。魔女の子孫だと言うのだ。

 そして、そんな女達と深く交わったリズの父である神父は、ウルカヌスから破門された上に、このブリテンで灰になった。


「罪深いものほど、救われると神の子は言われた。ならば、僕達、神の僕はそういう者達ほど救わねばならない。

 それに、罪人というならば、僕達すべてが罪人なのだよ。君達と同じような女が、神の子の前に引き出されたことがある」


 その娼婦を姦淫の罪で断罪せよと、神の子に人々は迫った。だが、神の子は人々に静かに告げる。


「良く知られた物語だから、知っている人もいるだろうね」


 そこでユイアベールは娼婦達を見る。しかし、娼婦達の大半は文字が読めないし、読めたとしても看板の文字や張り紙程度。こうしてミサに参加していても、聖なる書など読んだことないという者が全員だ。皆が皆、きょとんとしている。


「『この中で生まれてから、何一つ律法を破ったことのない、罪を犯したことのない者がいたら、女に石を投げよ』そう、神の子は言われたのよ」


 口を開いたのはリズだ。そして、彼女は紅に彩られた唇をゆがませる。


「そんな人は誰も居なかったわ。盗みや殺しは確かに罪よ。娼婦も姦淫の罪だと、ウルカヌスは言うわね。

 でも、そうじゃなくたって、私たちは毎日罪を犯しているわ。誰かの悪口を言い、相手を嫉み、親を子供を、周りの人達を粗末にして、自分だけが助かればいいと押しのける。

 そうしたことのない人なんて、誰一人いないでしょう? そうしなくても、そう思ったことさえ、罪だと神様の教えが言うならば……よ」


 リズの言葉に娼婦たちは顔を見合わせて「そんなの無理よ」と口々に言い合う。ユイアベールは「その通り」と言い。


「だから、女を石打とうとした人々は、手に持っていた石を力無く投げ捨てて去っていったのさ。老人からね、あきらめ顔で……最後は子供も。

 だから、僕達はみんな罪人なんだろうね。神の子が言いたかったのは、その罪を許し合う心なんだと思う。誰もが罪人ならば、その罪を糾弾しあえば、全員石で死ぬまでぶち合うしかない。それは不毛だとね」


 と、ユイアベールは今日の説教は綺麗にまとまったと思ったのだが……。


「ねぇ、それで女って、男の骨から生まれたんでしょ? そうなると、やっぱり私たちは女は、男に従わなきゃならないの?」


 無邪気に質問したのは、メアリーだ。別にいじわるをしたい訳ではなく、単純に疑問に思ったようだ。そして、不満げでもある。

 「えっと、それはねぇ……」と、どう柔らかく説明しようか、考えたユイアベールの横から「嘘に決まっているだろう」ときっぱり断言したのは、ヴィルカイン。


「男の肋骨から女が生まれる訳が無い。世の中の男は全員、女のまたから生まれている」


 きゃあと女達の嬉しい悲鳴が同時にあがる。苦み走った若い神父が〝女のまた〟なんて言ったのだ。普通の教会なら、うるさがたの老齢の紳士やご婦人がたが眉をひそめるだろうが、ここにいるのはうら若き? 女子ばかりである。


「でも、聖なる書には、そう書いてあるって」

「だから、それは嘘だ。後の人間達、いや、男共が女達を従わせる為に、作った話だ。だから、女は女の従属物だというな。

 嘘の話ならば、そこには何の根拠もない。男も女も同時に生まれたんだ。世の動物たちと同じようにな。人間だけが特別な訳もないだろう」


 ヴィルカインの話は、敬けんな教徒ならば異端どころか魔女だ! と怒り断罪する内容だ。さすがの娼婦達でさえ、顔を見合わせ戸惑っている。


「で、でも、これは神様のお話だって……」


 最初に質問したメアリーも戸惑った声をあげる。


「そう、〝お話〟だ。人間が作った話だ。神が実際そうした証拠はどこにもない。だから、後の人間が都合の良いように作った話も入る。いや、大半がそうだろうな」


 「言い過ぎだよ、ヴィル」とユイアベールがあきれたように言う。しかし、その口元にはおかしげな笑みが浮かんでいて、この状況を半ば楽しんでいるのがわかる。その証拠にそれ以上口出しすることなく、弟とメアリーの問答を見守り。


「じゃ、じゃあ、神様はいないってことになっちゃうじゃない!」

「神はいる。でなければ、俺はこんなものを首からぶら下げていない」


 藁の縄で首からさげた、黒檀の御印をヴィルカインの骨っぽく長い指が触れる。


「だって、お話は嘘なんでしょ? 嘘なのにどうして、神様がいるなんて……」


 メアリーは混乱した顔でつぶやく。それは他の娼婦達も同様だ。そうでない顔をしているのは、横で面白そうな顔をしているユイアベールと、こちらは静かに見つめているリズだろう。


「それは人の作った話だ。だが、神はいる。それとも、お前は人の作った話が嘘ならば、神はいないと思うのか?」

「そんな! 神様はいるわ! そして、あたし達のことを見守ってくれてる!」

「ならば、それでいい。お前が信じるならば、神はいる。人の作った話など信じなくとも、神はその心の中にいる」

「じゃあ、信じなければ?」

「信じなくても、神はいる」

「え?」


 再び、きっぱりとヴィルカインは答えた。淡々とというぺきか。日が東から昇るのも、夜が来るのも、毎日変わることはないと言わんばかりに、当たり前に。

 と声をあげたのは、メアリーだけでなく、ユイアベールもだ。


「ちょっと待ってよ! 信じなければ、そいつの心には神様はいないって……ヴィルがてっきり言うとばかりに、僕は思っていたのに!」

「なにを馬鹿なことを言っている。人間ごときが信じずとも信じなくとも神はいると、神学校で教わらなかったか? 

 どこにだって神はいるんだ。そして、神はなにもしない。俺達がなにを願おうが、願うまいが、関係なく、この世界は流転する。これも習ったと思うがな」

「ああ……うん、うん、そんな話、聞いたねぇ」


 ユイアベールは曖昧に、ごまかすような遠い目をしてこくこくとうなずく。ヴィルカインは本当に知っていたのか? とうろんな目で兄を見る。


「本当にそれで司祭の試験受かったのか?」

「受かってますよ! 受かったから、こうしてミサが出来るんじゃない!」

「ああ、そうだった。俺が一度で受かった試験を、二度ほど落っこちて、ようやく受かったんだったな」

「なに!? 僕が試験受かったの憶えているじゃない!」

「ああ、三度落っこちてな」

「違う! 一回落ちたの増えてる! 試験に落ちたのは二度!」


 怒るユイアベールに、見ていた娼婦達がケラケラと笑う。「とにかく」とこほんとユイアベールが咳払いをして。


「神様は常に皆様を見守っているのです。ですから、今日もきっとよき日であることでしょう。皆様に祝福を」


 両手を合わせる祈りの姿だけは、宗教画の天の御使いのごとく。その姿にごまかされるように、娼婦たちもまた、あわてて祈りを捧げたのだった。


────ホント、ごまかされてくれてよかったね……。


 祈りを静かに捧げながらユイアベールは胸をなで下ろしていた。横で問題発言を連発した弟もまた、静かに祈りを捧げている。そう、こんな風に祈っているときだけは、まったく真摯なのだ。


 神はただ、見るのみ。

 そう言ったのは、神の子だと言われている。

 それでも、なにもしてくれない神に、人は祈りを今日も捧げる。






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