【10】

   


 色町というか、貧民街というか、そう言う街の路地は、細く入り組んでいる。元々の石造りのアパルトマンの間の細い路地に、なんの許可もなく掘っ立て小屋が建っている。なんてことも珍しくない。

 つまりは迷路のようになっていて、行き止まりなんてのも多々ある。土地不案内の兄弟達にとっては、隠れる場所は多々あれど、その多くが逆に邪魔にもなる。……という有様だった。


 しかし、貧しい庶民を守る神父としては、金持ちの豪邸の扉や窓を吹っ飛ばしてもかまわないが、煙突掃除夫家族が住む小屋を吹っ飛ばすのは、気がひけた。石の豪邸より、木の粗末な家を壊すのは簡単だとしても。最も二人にとっては、石の家だろうが、木の家だろうが、壊すのに多少の時間の違いはあれ、破壊できることは変わりないが。


 とにかく、路地の真ん中にある木の家はいい。そんな小屋ならば、ひとっ飛びで屋根の上を飛び越えることが出来る。あとで、追いかけてきた警官達が、家の中に押し入り、反対側の窓を突き破って通り過ぎられた家が、酷い有様になるにしても。

 しかし、それが石の壁。しかも、高い建物となれば別だ。


「行き止まりだね」

「そのようだな」


 裏路地の三方は高い建物に囲まれており、後ろからは警官達がわんさかと迫ってきている。二人はくるりと、追いかけてくる警察官の群れを振り返る。


「一応、言っておくが殺すなよ」

「わかってるよ。僕たち神父が、無辜の民を手に掛ける権利があるわけがないじゃないか。殺すなら、罪のある化け物、悪魔だ」


 そう、ユイアベールは言い、向かってくる警察官に向かい、艶然と微笑む。それに先頭を走る警察官達は、一瞬戸惑ったように脚を止めたが、すぐに後ろからやってきた警察官達に「なにをしている!」と叫ばれて、彼らは二人に飛びかかろうとしたが。


「こっち!」


 しかし、突然、二人の横の壁が開き、伸びた腕にユイアベールは「わわわ!」とひっぱりこまれた。それをヴィルカインも追いかけて、中へと入る。


「逃げたぞ!」


 警察官達は叫び二人の消えた壁に飛びついたが、現れた隠し扉はすでに消えたあと。あとにはただの壁が残るばかりである。どんどんと、叩いても蹴っても、石の壁に偽装されたそれは、びくともしない。


「くそう、協力者がいるとは! 建物の表に回れ!」


 隊長が叫び、彼らは表に回った。



 普段は官憲の手が入ることがない歓楽街とはいえ、そこは警察……というより、数を頼りに警官達は強引に、隠し扉があったとおぼしき建物の中に押し入った。

 建物の中は明らかに夜の蝶とおぼしき、女達であふれており「手入れだ!」「逃げろ!」ときゃあきゃあ、大騒ぎとなる。


「ええっ! お前達など用はない!」

「ここに、若い神父二人が逃げ込んだはずだ!」


 「神父様? はげ頭の大司教様なら、昨日、ここにいらっしゃったよ!」と、娼婦の一人がからかいの声をあげる。


 国王の離婚により、ロマーヌの教会から脱退したブリテンであるが、王国教会を設立して、それを国教とした。国王が〝宗教の守護者〟として、その頂点に立つが、その次の地位にある事実上の聖職者が、ドーン大司教である。つまり、この娼婦は昨日、客としてその大司教が来たと言っているのである。

 もちろん、嘘ではある。口を赤紫の紅で彩った娼婦は艶然と微笑み、スカートをたくし上げてその白い脚をちらりと見せ。


「おまわりさん達も、あたしの客になるかい? 司教様の祝福を受けた、ありがたい身体だよ!」

「だ、誰がお前のようにあばずれを、司教様が相手にするか!」


 女の脚に一瞬気を取られた警官が、ごくりと生唾を呑み込んだあと、我に返って叫ぶ。周りの警官達も同様で、彼らは女達の嘲笑を背に、狭い廊下を押し合いへし合い進む。


「あそこが怪しいぞ!」


 廊下の突き当たりに扉を見つけて、警官達は叫ぶ。他の部屋の扉は無防備に開け放たれて、下着姿の女達がそこでくつろいでいたりしたのだが……その扉だけは、きっちりとしめられていたのだから、余計に目立つ。その上に「そこはダメだよ!」と叫ぶ女もいたものだから、警官達は余計ムキになって、扉を蹴り飛ばすようにして、中へと押し入った。


「手入れで、あ……!」


 『ある! 』と言い切れなかったのは、そこはもうもうとした湯煙が立ちこめる部屋だったからではない。

 その湯煙の向こうに、大勢の裸の女がいたからだ。シャボンにまみれた身体あり、お湯に濡れた艶やかな肌あり、なにをするでもなくおしゃべりに講じていたのか、大きな風呂桶の縁に腰掛けている若い娘二人。


 警官達は思わず、まじまじとその光景に見入った。夢ならば天国の光景である。いや、夢でなくとも、たとえ、捕りものの途中であっても。


「このスケベ!」


 女の一人が叫び、持っていた桶を警官に投げつけた。それをきっかけに、響く女の悲鳴。そして「こののぞき魔!」「痴漢!」「色豚!」などと、罵声の言葉が浴びせかけられ、同時にお湯も浴びせられ、さらには桶どころか、風呂場にあったありとあらゆるもの、掃除用のモップやらなにやらが、投げつけられるにいたって、警官達はほうほうの体で風呂場から飛び出る。


 しかし、女達はそれでおさまらず、裸のまま警官達に追いかけてくる。警官達は一目散に逃げ出して、建物の外へと飛び出した。


「おとといおいで!」


 捨て台詞、一発。ぴしゃりと扉が閉められて、警官達はとぼとぼと歓楽街を出て行ったのであった。





「ああ、おかしい!」

「あいつらの顔ったら」

「いい気味だよ! 普段は威張っているクセに、てんで情けないったら」


 裸の女達は悠々と凱旋し、風呂場へと戻る。そして、大きな風呂桶に向かって。


「もう大丈夫だよ」

「兄さん達を追ってる、おまわりは行っちまったよ!」


 そう言うと、ゆらりとお湯の張られた水面が揺らいで、ぷはーっ! と顔を出したのは。


「ああ、死ぬかと思った」


 長い銀髪も赤い神父服もずぶ濡れのユイアベール。


「…………」


 続いて無言で風呂から上がったのはヴィルカインだ。それに「あら」と娼婦の一人が声をあげ。


「いい男だね。兄さんなら、タダであたしのベッドに入れてやってもいいよ」


 そう言って、誘うように片目つぶる。それに「抜け駆けは無し!」と、二人の娼婦が、彼女と同じようにヴィルカインの前へと出る。


「アンタみたいな男なら、あたしが養ってあげるよ。働かなくても、ぶらぶら遊んでいればいいからさ」

「何言ってるの! あんたの稼ぎじゃ、アンタ一人がパンとチーズと薄いスープすすって終わりじゃない! あたしなら、毎日、夕ご飯にワインと肉をつけてあげられるよ」


 「何言ってるの! あたしが!」「あたしだって!」「このブス!」ととんでもない争いになろうとしたところで。


「三人とも服を着ろ。淑女を競うなら、まず、衣を身につけて人間になることだ」


 顔色一つ変えずに、ヴィルカインが言う。その冷ややかなまなざしにも、娼婦達は陶然となる。「はーい」とそろいの返事をして、彼女達は服を着に行った。


「すご~い。あなた、立派なジゴロになれるわよ!」


 そう、一人の女が声をかける。そんな彼女の後ろでは、ユイアベールが娼婦達に囲まれ、「髪が綺麗」「お肌もつるつるで真っ白」「あなた、男でも、この街で一財産築けるわよ! あたしと組まない?」と別の意味で、モテモテだった。


「なぜ、俺たちをかくまった?」


 ヴィルカインは女を見る。彼女がヴィルカイン達を建物の中に引き入れ、さらに娼婦達がこの風呂場に匿ってくれたのだ。


「メアリーはわたしの妹分なの」

「メアリー?」

「あなたたちがさっき化け物から助けてくれた子よ」


 さっきの娼婦か……と、ヴィルカインは思い出す。たしかに、助かり逃げたはずだった。


「そうか、お前の名は?」

「リズよ」


 腕を組み名乗った女は、歳の頃は二十代後半。いや、こういう職業の女だから、若作りしている可能性もあるから、もう三十代かもしれないが、ともあれ、風呂場にあふれる娼婦達の中では、一番の美人と言えた。


「たしかにお前の同胞を助けたのは俺達だが、匿ってくれたことには、感謝する」


 ヴィルカインがそう言えば、リズは目を軽く見開いて驚き、くすくすと笑う。


「神父様なのに、あなた変わっているわね」

「変わっている?」

「そうよ、娼婦と話すなんて、身が穢れるんでしょ? 姦淫の罪を犯した罪深い魔女だって」


 確かに教会が女性に求める美徳とは、まず貞節であること。娼婦はその対局にある存在ではある。


「姦淫の罪は罪だ。だが、初めから罪を持って生まれる人間などいない。まして、神父は迷える者を救うのが役目。罪人を拒絶するならば、そいつは神父ではないな」

「ならば、あたしも受け入れてくれる? 神父様」


 リズが手を伸ばし触れようとするが、それを、すい……と後ろに下がって、ヴィルカインは避ける。それにリズはとたん怒りと軽蔑を露わにした表情をする。


「なんだ! あんただって結局、口では何を言っても、あたしたちに触れられるのがイヤなんだ」

「俺は女性には触れない誓いをたてている」

「屁理屈! この玉無しの役立たず!」


 〝不能! 〟と罵られれば、大概の男は怒るものだが、ヴィルカインは眉毛一つ動かさず言った。


「当たり前だ。すべての神父は去勢された羊だ」

「…………」


 この返答にリズは一瞬、虚を突かれたように大きく目を見開き、そして、次の瞬間には笑いだした。その彼女の笑い声に、風呂場の娼婦達が注目する。頭が良く姉御肌、皮肉屋の彼女が冷笑することはあれ、こんな風に声をあげて笑うなど滅多にないからだ。


「あたしの経験上ね。自分を無能だっていう男ほど、実は〝すごい〟のよ」


 笑い転げて目尻にたまった涙を拭いて、リズはにいっと赤い紅で彩られた唇の端をつり上げて。


「気に入ったわ、あなた。みんな! この人に触れちゃダメだよ! あたしの男だからね!」


 そのリズの宣言に、娼婦達からは「えーっ!」と声が上がる。「あたいが先にツバつけたのに!」「ズルイ、姐さん!」という声もするが「姐さんなら仕方ないねぇ」とみんな肩をすくめる。


「おい、俺はお前の男になったつもりはないぞ」


 そうヴィルカインが抗議すれば。


「あたしの男なら、みんな、あなたに触れないわよ」

「…………」


 確かに触れられないなら都合はいいと、ヴィルカインは考えたが……。


「ただし、あたしは別!」


 リズが手を伸ばし、首に手を回そうとしたのを、するりと下にしゃがみ込むことで、ヴィルカインは避けた。すかっ! と白い手が空を切る。


「なによ! 腰抜け! 抱きつく女を避けるなんて!」

「ああ、腰抜けだ。神父に玉はない」

「…………」


 平然と言うヴィルカインに、リズはまたもや吹き出した。


「なになに! なに、楽しそうなことしているの!」


 そこにユイアベールが割り込んでくる。リズを見て「ワオ! 綺麗なお姉さん!」と言い。


「こんなデカくてむさい弟より、僕にしない?」


 と、リズを誘う。それにリズは上から下まで、値踏みするようにユイアベールを見て。


「綺麗なお兄さん。女を褒めるなら、本心から言わなきゃダメよ」

「心外だな。僕はお姉さんを心から綺麗だと思っているんだけど」

「あなたの言葉は花や蝶を見て〝綺麗〟って言ってる、子供と同じよ。女を欲しいって思っている訳じゃない」


 その言葉にユイアベールは「心からの言葉なのに」と肩をすくませて「それより聞きたいんだけど」と言う。


「なに?」

「ここらへんに、愛と癒やしの聖教会ってないかな? 王国教会の管轄ではなく、ウルカヌスの管轄なんだけど」


 地図を取り出そうとして、「わあっ! 濡れてダメになってる!」と叫ぶ。「その必要はないわよ」とリズが言い。


「愛と癒やしの聖教会はここよ」

「はい? だけど、ここは娼館じゃないの?」

「今は娼館で、そして、今でも教会よ。ようこそ、愛と癒やしの聖教会の館、乙女の園へ」


 そう言って、リズは艶然と微笑んだのだった。





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